「超大衆社会・ニッポン」のメディア


4.大衆貴族に迎合せよ



【大衆貴族が求めるもの】

20年ぐらい前から、「マスメディアの終焉」がまことしやかに語られて続けている。あたかも「原油が尽きる日」を語る時のように、手を変え、品を変えて理屈がつけられているが、なかなか現実は理屈のようには進んでいない。80年代から90年代にかけての「ニューメディア・マルチメディアブーム」の頃は、多チャンネル化でメディアが多様化・分散化し、マスを取るものいなくなる、と言われていた。多チャンネル化は実現したが、それはいわゆる「ロングテール」が増えただけ。かえって地上波の民放ネットワークは強くなってしまった。その後の「インターネット・ブーム」になると、メディアがインタラクティブで双方向化するので、受動的で一方向のテレビ型メディアは衰退する、と言われていたが、泰山鳴動してネズミ一匹。結局のところインターネットの大衆化により、インターネットコンテンツもインタラクティブに消費するものではなく、受動的に消費するものになってしまった。そういう意味では、「ブーム」は高い授業料だったと思うが、メディアやインフラの変化や進化は、コンテンツの送り手と受け手の関係に、何ら変化をもたらすものではないとうことがわかっただけでも立派な「社会実験」だったといえよう。

では、今起りつつある生活者の情報行動の変化は、メディアに対してどういう影響があるか。インターネットも「受身のメディア」にしてしまうように、今の日本では、コンテンツ消費に関する情報行動は受動的、若い人ほど受動的である。メディアからやってくるコンテンツに対しては、ますます、だらだらと、見るともなく、見ないともなく時間をつぶすような対応が基本となる。大衆は、空気や水のように、エントロピー極大な「コモディティー」に浸ることが一番好きなのだ。当然、メディア・コンテンツの消費においても、この原則は貫徹する。純粋消費者としての大衆貴族は、けっして能動的にコンテンツを求めるものではない。大衆は、自分で選んでいるつもりではいても、結局は「あるものの中から選んでいる」状態は変わらず、受身でしか受け入れない。こういうニーズには、やはりテレビが一番強い。しかし、そのあり方は、かつて「茶の間の娯楽の王者」だった頃とは大きく変る。もはや、真剣に番組やコンテンツを見るのは、マニアとシニアだけなのだ。

それはとりもなおさず、マスを取るためなら、奴隷の側が貴族に合わせることが必要になることを意味する。では、大衆貴族の大多数が求めるコンテンツとはどのようなものか。それは、「決して真剣に見たり読まれたりしない」けれど、「ほどほどに暇が潰れて、ほどほどに楽しめる」コンテンツである。これを受け入れ、前提にすることができれば、今後もマスメディアは生き残れる。コンテンツを作る側としては、これはある種屈辱かもしれない。しかし、大衆は「ご主人様」であり、「ご主人様のおっしゃること」が常に正しい。すでにこの数年、テレビはこの路線に切り替え始めている。それが、テレビの一人勝ちをささえている。メディアが今後もマスとして生きてゆくカギは、このように、大衆貴族の求める「まったりさ」を提供する、「まったりとしたエンターテイメント」となることにあるのだ。

【「まったりしたエンターテイメント」とは】

このように「真剣に観ていなくても、あると寂しくないし、そこで何か興味を引くものがあった時に着目できればいい」という感覚に応えることが、これからのマスメディアの基本となる。たとえば、新幹線の車窓から観る富士山など、ちょうどいい例かもしれない。それまで窓の外なんて気にしていないし、鉄ちゃんでもなければ食い入るように見るものでもないが、静岡付近で富士山が見えてくれば、なぜかみんな観てしまう。キレイに晴れ渡った冬などは、感激的なシーンが展開する。誰も期待しないが、誰もが注目する、新幹線の車窓の「真白き富士の峰」。この感覚こそが、「まったりとしたエンターテイメント」の本質である。自分の部屋でゴロゴロしているのだが、「外で何が起こっているかが見られる窓が欲しい」という欲求に応えてくれるのが、今のテレビに課せられたニーズである。「まったりとしたエンターテイメント」となり、若年層を捕まえるには、メディアの側にも究極の受動化を促す工夫が必要なのだ。

TVは元々、マラソン中継やニュースワイド、バラエティーショーといった、即時性と、まったり感のあるコンテンツ向きのメディアだった。ドラマとか映画がキラーコンテンツと思われていた時代もあるが、実はこれらは「お金を払っても見てくれる」コンテンツである。極論すれば、録画して何度も観て楽しめるようなコンテンツは、テレビにかけるべきではないのだ。マラソンを録画してみるヒトは、陸上部の長距離の選手ぐらいである。2時間以上続くマラソンも、ハイライトは、スタートシーン、追い抜きシーン、ゴールシーン。展開にもよるが、30秒もあれば見切れてしまう。実際、夜のニュースのスポーツコーナーでの紹介はこんなものである。他のスポーツでもそうである。たとえば、野球。ピッチャーのロージンバッグをイジるシーンや、ネクスト・サークルのバッターの表情などは、リアルタイムではワクワクして見せるものがあるが、あとから見たいシーンではない。野球や相撲は、録画してプレー以外をカットし、本質的部分のみ取り出せば、かつての人気番組、「プロ野球ニュース」や「大相撲ダイジェスト」になってしまう。じつは、この冗長性こそが、まったり感を生んでいる。言い方を変えれば、「あとからは見たくない」シーンが多いほど、テレビ的ということになる。このように、元来テレビ向きのコンテンツは、録画とは相性が悪い点が特徴だ。録画されない、録画したら意味のないコンテンツこそ、最もテレビ的なコンテンツといえる。そう考えるとHDRなどは、これからの日本では、少なくとも大衆レベルで利用されるものではない。なんせ、あとから見たら、面白くも何ともないコンテンツが、もっとも人気の高いコンテンツとなるのだから。これもまた、ありがたがって使うのは、「マニアとシニア」ということになるだろう。

コモディティーとしてのメディアから流れる、コモディティーとしてのコンテンツ。良く考えるとこの時点で、コンテンツは環境の一部となっている。究極のコモディティーは、水や空気と同様、あっても当り前だが、ないと非常に困る「究極の必需品」でもある。これこそ、「部屋から社会に開いた窓」として、環境の一部となった「メディア」にとって、究極の「あるべき姿」なのだ。

【「勝ち馬」を求めて右往左往する人々】

この数年、「ランキング」がブームである。「ランキン・ランキン」という、東急系のショップがある。いろいろなジャンルのアイテムについて、今売れているランキング上位の商品だけをセレクトして提供する、というコンセプトの店である。しかしこのランキングは、そのほとんどが東急ストア、東急ハンズなどの東急グループの流通店舗での売上だったり、場合によっては「当店調べ」のモノだったりする。ここで着目すべきは、昔の「歌謡ベストテン」みたいに、その順位の客観性は求められていない点だ。今の若者にとっては、何らかの基準で、そこにアイテムが並んでいればいい。その並びが面白ければウケるし、つまらなければウケない。ただそれだけのことである。1位だからどうだ、3位だからどうだ、というところに意味があるものではない。「順位をつけない教育」の成果かもしれないが、その並びは、信号待ちで並んだクルマの行列とさして差はないのだ。

同じことが、インターネット検索エンジンの検索結果についても見られる。古い世代は、検索結果の並びの上位に出てくることを必要以上に重視する傾向がある。もちろん、最初のページと、2ページ目以下という意味では、順序も大事なのだが、1ページ目に出ていれば、1番目も2番目も、余り意味はない。いくつか並んでいる中から、面白そうなのを選ぶだけである。細かい順位に意味はなく、大事なのは「それが上位グループにある」という、「メジャー感」なのだ。みんなが選んでいるものを選んでおけば、当面問題はないだろう、という気分は、一層強まっている。オンライン書店等の「おすすめ」がウケるのも、そのベースは共通だ。そういう中で、敢えて他人と違う自分ならではの選択をするというのは、余程のマニアか世捨て人、ということなる。

今の30代では、ステージの上やグラウンドの上、ピッチの上にいるヤツがモテるワケではない。そういうアーティストやスポーツマンの存在感はあるものの、それは決して女のコの「恋愛対象」とはならなくなってしまった。傑出したスポーツマンやアーティストは、いわゆる「おたく」と同じ、自分たちとは違う「普通でないヒト」である。そもそも「違う生き物」と思っているのだから、恋愛の対象にはならない。それを一緒に「見に行く」男のコこそが、パートナーであり、恋愛の対象なのである。観客とプレイヤーの間には、決して超えられない意識の壁があるのだ。

「最新の流行」を追うのも同じである。雑誌のお墨付通りの格好をしていれば、同じ様な格好をしている多くの仲間達に紛れることができる。お花畑の中ならば、花に擬態するのがいちばん目立たずにすむ原理だ。自分を主張するのではなく、まるで保護色の擬態のように、自分を見せないために流行を追う。個性を出したくないからこそ、必死に流行を追いかけ、ハヤっている格好をする。自分の個性を消したいがために、みんなと同じ目立つ格好をするのだ。だから「流行」としては、誰にでもわかる特徴的なポイントがあったほうがいいし、それが仲間かどうかを分ける踏み絵になる。それは仲間意識を明確にするためには、常に村八分の生け贄を奉ることも必要だからだ。結局、これもまた「オリて、マスに紛れる」というモチベーションのなせるワザなのだが。

【数をとるのか、質をとるのか】

これからの時代に、マスメディアが成り立つためには、オピニオンとかジャーナリズム的なものを持ち出してはならない。その逆こそ真であり、送り手の側の意思を出さず、徹底して受け手にすり寄ったものにしないと、リーチは取れない。大衆の側が選択権を持っている以上、この買い手市場を制するには、彼らの潜在意識の中にあるニーズを捕まえることが重要である。その意味では「大衆化」と「コモディティー化」こそが、マスメディアをマスたらしめるのだ。

いまやマスメディアは、大衆のご機嫌を取ってこそ成り立ちうるものとなった。超然として自分の主張を展開するメディアなど、犬も喰わない。したがって、ジャーナリズムでは、マス足りえない。マスでいたいなら、ジャーナリズムを捨てなくてはならない。人が集まるところに、自然に金は集まる。ジャーナリズムでいたいなら、数を追うな。誰も振り向かなくとも、一人で叫べ。ビジネスモデルを変えなくては、大衆には支持されないし、ビジネスとして成り立たない。これがイヤなら、ジャーナリストが大好きな「民主主義」を捨てるしかないのだ。いや、ロングテールを狙えばいい、という向きもあるかもしれない。「ロングテール」でもそれなりの収益は上がるが、決してスケールやシェアは取れない。「マス」を捕まえる「ショートヘッド」があってこそ、「ロングテール」が存在することを肝に命ずる必要がある。スケールを活かした、ビッグなビジネスモデルを狙うのか、スケールは小さいが、利益率は高いビジネスモデルを狙うのか。構造が違う以上、この両立は不可能だ。最初から、ネラった方に最適化する必要がある。

ロングテールを狙う戦略に必要なマーケティング手法は、マス狙いとは全く異なる。ロングテールを攻め落とすには、コア・ユーザーたる500人から1000人を相手に、極めて付加価値の高い商品を、ヒューマンリレーションを活かして販売することが核となる。いわば「セレブリティー・マーケティング」とでもよべる戦略である。もちろんコミュニケーションのしかた、商品や店舗の見せ方、あらゆる面で、セレブリティー・マーケティングならではの手法や技法が必要となる。

今でも、この手の商品はある。高級ブランド商品の「常連」さんとか、外商のいわゆる「お帳場」とか、極めて消費額の高い層をイメージしがちだが、そういうモノだけではない。実は、高級ホビーの世界、それもオヤジホビーの世界は、ほとんどこれなのだ。マスによる不特定多数の獲得でない。限られた顧客のリストの中から、見込み顧客を絞り込むマイニングでもない。特定のユーザーの指向に合わせて、個々に品揃えをする。一人一人の顧客を知ることから始まるマーケティングだ。元来、商売とはそういうものだった。個人レベルでやっている商売なら、こういうキメの細かい対応ができるが、組織でやっている商売では、とても対応しきれない。結局は、組織のスケールを活かし、コストリダクションを図る分、マスを狙わざるを得なくなる。ロングテール狙いで、個人商店がインターネットを利用して強みを発揮しているというのも、故なきことではない。

【21世紀のマス・マーケティング】

今までみてきたように、21世紀に入ると、世代交代により、情報に関するパラダイムシフトが引き起こされた。それは、これからの時代においては、情報が空気や水と同様、超「コモディティー化」し、情報が情報のままでは、全く価値を持たなくなることを意味する。新人類世代以下の層にとって、情報とはあって当り前だし、ごろごろその辺にいくらでも転がっているものである。情報が価値を持つ時代においては、情報の集大成としての「知識」を保有していることが意味を持っていた。これは、高度成長期を含む産業社会の段階においては、社会の「常識」でもあった。もちろん、ビジネスにおいても同じである。当然マーケティングにおいても、「知識」が大いに意味を持った時代だった。当時はマス・マーケティングの絶頂期であり、「知っていることが、マス・マーケティング」だった。

この構図が頂点に近づいたのは、旧来の価値観を持った人間が主流でありながら、環境としては情報化が進み始めた1980年代である。「何が当るか」を知っているマーケッターと、「何が流行っているか」を知りたがる消費者。商品やサービスをめぐる「知識」や「情報」を、マーケッターと消費者が共有し、相互にキャッチボールすることで、どんどん市場を拡大する。この共犯関係が絶頂期を迎えたのが、あのバブル経済である。このフレームの中では、マーケッターも消費者も同じ穴のムジナだ。知識があれば、どの立場にあろうと同罪の共犯関係ができあがっていた。元来、「知識」はそれ自体拡散し、常識化する性質を持っている。知識に絶対はなく、単に時間軸での相対関係でしかない。単に「時間軸上でより早く知識を入手している」かどうか、「早く知識を入手するノウハウ」を持っているかどうかだけの違いである。しかし、1980年代にはパソコンやネットワークが登場し、ある程度情報化が進展したため、誰でも「早く知識を入手する」ことが可能になった。かくして、マーケティングにおいても、「知識の共有化」が達成されることになった。こうなると、ある種、全部当りクジの懸賞みたいなものである。どこもかしこも、「バスに乗り遅れるな」という状況になる。この関係性自体はバブル崩壊後も尾をひいた。1990年代に「メガヒット」が起こった秘密もまた、この共犯関係にある。

一旦増大したエントロピーは、元には戻らない。知識が即時にあらゆるヒトに伝わるモノとなってしまった以上、もはや「知識」や「情報」が、マスを扱うカギとなる時代は終わった。しかし、みんなが同じところに「オリて」群れている以上、巨大な集団自体は存在している。そして、彼ら・彼女らを一様に振り向かせるカギは、「好きなこと」「楽しいこと」「面白いこと」である。これらは、定量的には計れないインパクトである。だが、その「秘孔」を突きさえすれば、たちどころにマスは動き出す。これは、誰でもできるような形式知化・マニュアル化は難しいが、天性の才能を持っている人間にとっては、決して難しいことではないだろう。もっとも大衆がターゲットになるというのは、金科玉条ではない。今、マス・マーケティングが「大衆」をターゲットとするのは、「大衆相手」が商売になるからだ。理由はそれだけだ。だからこそ、大衆が貧困化してしまえば、「タダ数が多いだけの集団」になってしまう可能性も、なきにしもあらずだが。





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