断末魔の権力
ここでもすでに何度となく論じてきたことだが、21世紀の情報社会への移行により、存在意義が薄れてきた人たちがいる。それは秀才エリートだ。日本においては幕末・明治維新以来の「追いつき追い越せ」政策の恩恵で、もっとも優遇されてきた人達である。世の中が情報社会となりAI情報システムが進歩することで、彼等の存在意義が失われていることについては、何度となく語っている。
確かに日本は江戸時代の鎖国政策が功を奏し、開国時にもそれなりに民度は高く経済力も強い国だったことは間違いない。ヨーロッパで市民文化が生まれる200年近く前に、すでに文化の主体が富裕市民だった国など、当時の世界中でも日本しかないのは間違いない。元禄文化は世界初の市民文化として誇るべきものだ。それは欧州で貴族文化に代わって市民文化が生まれた産業革命以降明確化する。
日本の磁器は17世紀からヨーロッパの王侯貴族のコレクションの対象となり、オランダ東インド会社の主要輸出品となっていた。富裕市民層が増えるとともに、その輸出量は増し、その緩衝材として浮世絵や黄表紙本の摺り損ね和紙が詰め込まれるようになった。これが市民文化が起こったヨーロッパで着目される。日本の市民文化たる「印刷物」が、当時富裕市民が勃興しつつあったヨーロッパ社会にインパクトを与えた。
その結果、貴族文化ではない市民文化である日本文化が、ヨーロッパ先進国の富裕層市民の間では極めてトレンディーとなり、彼等の支持の元にジャポニズムが大々的に流行することになる。それだけでなく、シンプルで合理的な日本の庶民文化がモダニズムの原点となったことは、デ・スティルと畳の関係を語るまでもなく、現代美術に興味のある人にとっては常識だろう。
さて、前置きが長くなったが、21世紀も佳境に入って情報社会も本格化してきた。すると、追うもの追われるものがハッキリしてくる。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」の平家物語の出だしではないが、かつて権勢を誇っていた人達も色を失い、追われる身となってしまう。その典型が、秀才エリートの骨頂たる「官僚・マスコミ・有識者」だ。
東大法学部とか早稲田大政経とかいわゆる「エリートコース」を目指し、そこに乗れば将来が約束されたと思ってきた人たちだ。確かに産業社会の20世紀においては、生産力と情報処理能力の不均衡があったので、生産力をフルに活かして最大利益を得るためには、本社機能というか人間系による情報処理が不可欠だし、そのためには人間AIとも言える秀才エリートを投入・活用する必要があった。
だが、それは過去の産業社会の不均衡な発展の時代の話だ。21世紀の今は全く状況が異なる。実は1980年代ぐらいからそういう傾向は始まっているのだが、本当に優秀に人間は自分でスタートアップしてやりたいことをやり、大きな組織に身を託して夢を叶える時代ではなくなってきていた。とはいえ「官僚・マスコミ・有識者」を目指す人達はそんな時代の変化も知らず、霞ヶ関や新聞社、有名大学の教授などを目指し続けていた。
彼等も馬鹿ではないので、気が付いたら自分達がヤバいところに来ていた事に気付いたのが、10年代以降なのだろう。このあたりから、行動がおかしくなる。自分達の権威が地に堕ちたことに気が付いてしまった。その事実を自覚しているからこそ、なんとか権威をキープすべく姑息な行動に出る。すなわち庶民に脅しをかけて、ビクビク怯える様を見ることで、まだ影響力を持っている気になりたがるのだ。
コロナ騒動がその典型だろう。「官僚・マスコミ・有識者」の連合軍が、所詮は風邪の変種だった新型コロナで脅しをかけて、ワクチンを打たせまくることで、怒涛のような利権の山を築いた。自分達の「御威光」があることを確認するためだけの蛮行である。その副作用で死んでしまった人も多いのだから、この愚行の責任は大きい。インパール作戦並みである。
ヤクザはカタギ衆には迷惑をかけないのが信条だが、せこいチンピラは一般人に脅しをかけて自分達の方が強い気になる。本当に奴らは肝っ玉が小さい。最近の気象庁の脅しも同罪だ。どうせマスコミの報道は全部フェイクニュースなんだから、逆張りした方がいいだろう。秀才を信じるな。それならAIを信じろ。とはいえ、自分で自分の道を決断できる人間がこれからの情報社会では最も必要とされているのは言うまでもないが。
(24/09/13)
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