コミュニティー依存症
自分の足で立って一人で生きてゆけない人。何らかの組織に支えられて縋っていないと生きてゆけない人。日本人にはこういうタイプの人が多い。彼等はコミュニティー依存症であり、コミュニティーがなくてはどうやって生きてばいいのかわからない。つまるところ、よりどころとしてのコミュニティーが欲しい人なのだ。
近世までは、大家族や集落といった自分が所属する組織はすべてゲマインシャフトたる自然発生型のコミュニティーであった。この時代においては、自分の所属する組織としてアプリオリにコミュニティーが存在していたので、どんなにコミュニティー依存症の強い人間であっても、この問題で悩むことはなかった。
日本の近世である江戸時代は、当時のヨーロッパと比較しても庶民層の経済力が強く、すでに17世紀には、町人層が主体となる元禄文化が花開いていた。その分一般市民の社会的構造も高度化し、独自のコミュニティー構造が形成されていた。現代日本人にコミュニティー依存症が多いのは、この「江戸時代の刷り込み」の影響が大きい。
その後20世紀の声を聞くとともに、日本にも世界的な大衆社会化の波が押し寄せる。追いつき追い越せの文明開化で一気に産業革命が進み、都市部の企業や工場で働く人も増えてきた。それとともに、旧来の地方の農家のコミュニティーや都会の商家のコミュニティーに属せない人間も増えてきた。
ある意味、この問題は企業などの組織が疑似的に伝統的コミュニティー化し「日本型組織」となる方向で、解決が図られる。これは極めて成功し、彼等が社畜として強い忠誠心を発揮することで、高度成長期まで日本経済を発展させる上での原動力となったことは間違いない。少なくとも1970年代までは効果を発揮した。
その一方で同時進行的に、一人では生きてゆけないコミュニティー依存症だが、家族や企業など自分の所属しているコミュニティーとはうまくいっていない人も目立ってきた。大正時代になるとこの傾向はかなり顕著になり、昭和になるとともに社会の中でもその存在が目立つようになってきた。
そこをターゲットとして表れてきたのが、新興宗教と左翼である。新興宗教や左翼は、疑似コミュニティーとなって彼らの求める救いを提供することで、その勢力を拡大するようになった。ここに日本特有の組織構造ができあがった。今でもコミュニティー依存症の人達は創価学会と共産党の支持基盤となっている。
疑似コミュニティー化するカギは、傷を舐め合うところ、もたれ合うところにある。それが強くコミュニティー依存症の人を惹き付ける要因となっているのだが、その一方で内向きの求心力が強くなりすぎるので、組織が胡散臭くなりがちな理由ともなっている。21世紀に入り老人組織化してしまったのも、その必然的な帰結といえる。
今もコミュニティー依存症の人は多数存在する。しかし旧来の新興宗教や左翼の手法ではすくい上げられなくなってしまった。だがトクリュウのような犯罪組織や劇場型で票を集める政党など、インターネットを利用して人集めに成功しているところには、彼等が主役として流入していることは間違いない。
そもそもインターネットは散在する同質の人間を結び付け、コミュニティーを作る力が非常に強い。趣味を同じくしたり、推しを同じくしたりするサークルはレガシーメディアの時代に比べて飛躍的に増えた。これがあることで「救われている」人も多いし、ネット依存症になる裏にはこのようなメカニズムもある。
数の力をアピールするのであれば、こういうコミュニティー依存症の人を惹きつけるインターネット上の疑似コミュニティーを作ってしまうのが一番簡単だ。そしてこの数年間の選挙結果をみるならば、そのような戦術はある程度有効で一定の支持者を集められることが容易にわかる。
これは悪用しようとすればいくらでも悪用できる。そうなる前にホワイトナイトのネット宗教が現れて、こういう人達を本当の意味で救ってあげることが必要だ。純粋な気持ちで多くの人を救う。今これをやれば時代のヒーローになれることは間違いない。若かったらやりたかったな。
(25/07/18)
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