オリジナリティー





ストレートに言って日本人の9割は創作をしたことがない。アーティスト・クリエイターレベルの能力を持つ人は、甘く見ても1割あるかないかなのでそんなものだろう。質を問わずに何かオリジナルなものを作ったことがある人という形にさらにゆるくして、創作ではなく制作レベルでの経験を問うたとしてもせいぜい1/3いくかいかないかというレベルと思われる。そのくらい「何かを創れる」人は少ないのだ。

ここでも何度か触れているが、かつて電通の経営計画部門にいた時、「失敗の本質」の野中郁次郎先生が電通という組織のパワーの秘密を研究したいということで、2ヶ月に渡って社内でヒアリングを繰り返した時にコーディネーションとアテンドを担当した。その結論は「電通でも付加価値を生み出す人材は1割程度で、その強力な機関車(付加価値人材)のパワー(クリエイティビティー)で大量の荷物(金)を載せる貨車(一般社員)を牽引するシステムが強み」ということだった。

ということで残りの大多数の人達は、手を動かして物を作ってみたところでうまくいって製作レベルのことしかできない。要はモノマネかお手本通り作ったのか、そういう「できて当たり前」のレベルの作業である。つまりほとんどの日本人はモノを作り出したことがないのだ。これは日本の近代教育が「追いつき追い越せ」の促成栽培で、「お手本通り真似できれば合格」という方針だったこととも関係が深い。

という話をしても、ほとんどの人が鳩が豆鉄砲を喰らったようなキョトンとした顔をしてフリーズするだけだろう。そもそも何を言っているのかわからないという人が過半数と思われる。本当の意味で創作をしたことがない人が、創作とはどういう行為なのかを理解できるわけがない。そして創作行為の本質は、創作を行っている人をその脇から見てわかるようなものでもない。

このような概念は上位互換性はあるので、創作ができる人は制作や製作とはどんなレベルのものを容易に理解することができる。しかし製作しかできない人は、どんなに頑張ったところで自分のやっていることと制作や創作との違いを理解することができない。ましてや製作すらできない「何も作れない」人間(実はコイツらが一番多い)にとっては何をやっているかすら理解することができない。

正解があるもの、努力と勉強でなんとかなるものは、もはやAIが無敵の領域である。このためAIが出てくることにより、創作・制作・製作の違いが問われることになった。製作はもちろん、制作についてもかなりの領域でAIがソツなくこなしてくれる。AIと人間との役割分担の中で語られる「オリジナリティー」や「クリエイティビティー」というのは、まさに創作の領域の話である。

創作ができる人なら創作物・制作物・製作物の違いはすぐに見分けられるし、その付加価値のポイントもすぐにわかる。しかし、そのそもその違いが分かる人は少数派なのだから、頓珍漢な理屈が世の中にまかり通ることになる。というよりAIのアウトプットに関する議論は、ほとんどこういう創作・制作・製作の違いがわかっていない人々の間で行われている。

ましてやこの手の議論の常連であるジャーナリストや学識経験者は、まさに理屈と勉強の権化のような人達で、創作からは最も遠く離れた世界に住んでいる。そういう理由から創作の当事者からするとまったく的を射ていない不毛な議論が展開されているとしか思えないのが今の状況である。もっとも、そういうタイプのジャーナリストや学識経験者こそ、官僚同様AIが真っ先にとって代わる人種ではあるのだが。

そういう意味では、「オリジナリティー」や「クリエイティビティー」を創り出せる人にとっては今後も何も変わらない。単に製作段階での発注先が職人からコンピュータになるだけのことで本質は同じである。理解不足によるリディレクションやリテイクが減る分効率が上がり、生産性が上がってスループットとしては今までより「いい仕事」ができるだろう。ここにはメリットしかない。

ただし職人だったり官僚だったり、自分にオリジナリティーがなく、言われたことを的確にこなすのが仕事の人は、間違いなく機械に置き換わる。とはいえ、機械にも苦手なことはある。だからこそあとはいつも言っているように、ラストワンマイルを機械に指示されたようにこなす役割を果たせばいいだけのことだ。200年先はわからないが、当面のこととしてはは間違いない。指示待ちの人達は、コンピュータに使われる人間になってこそ幸せになれるのだ。



(25/09/19)

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