コンプレックスの塊





21世紀の情報社会が本格化すると共に、20世紀の産業社会においては「権威」とされていたものの化けの皮が剥がされて、その無内容な本質が誰の目にも明らかな「裸の王様」となってきた。その典型的なものが「左翼・リベラル」「アカデミズム」「マス・ジャーナリズム」だろう。これらに共通する「手口」は、情報落差の存在を悪用して屁理屈を捏ねることで自分達を権威付け、本質を知らせないことでその地位を安泰なものにしようしたところにある。

それらの中でも「アカデミズム」と「マス・ジャーナリズム」は、いわば「理屈を捏ねる」ことが「本職」なので、必然的にそうならざるを得ないリスク要素を内包している。だからこそ「正統派の学問」や「真実を伝えるジャーナリスト」は、常に客観性を重視することで、「ためにする理屈」に嵌り込まないよう努力をおこたらない。そしてそういう人達が頑張っているからこそ、裸の王様になっていない学者やジャーナリストも歴然と存在している。

ここで問題なのが「左翼・リベラル」である。彼らは自分達を正当化するためにはいくらでも理屈を捏造する。そしてフェイクの上に高尚な理論体系を構築することで、極めてレベルの高い人でなくては反論・反証ができないような「自己正当化の壁」を築き上げ自らのポジションを守り通そうとする。この「屁理屈こそ最大の武器」というのは、かつてエンゲルスがカール・マルクスの哲学を換骨奪胎してアジテーションのため理論にしてしまって以来の伝統とも言える。

そしてその「屁理屈の壁」で彼等が守り通したいものこそ、自分達のモチベーションの源が「権力の座につきたいのだが、正攻法では権力を手に入れられない」という「コンプレックスや僻み」にあるという真実である。彼等の理論を一つ一つ論破し、皮を一枚づつひっぺがしてゆくと、「猿の玉ネギ剥き」よろしく最後には何も残らず実は空っぽであることが分かってしまう。これが恐ろしくて、屁理屈の皮を何枚も何枚も飽くことなく貼り重ねてゆくのだ。

おい左翼、自分達のコンプレックスを理屈で正当化するな。それができたのは歴然とした情報落差が存在した20世紀だけだ。AIが実用化された21世紀の情報社会では、誰にでも全てが「お見通し」になっている。こうなったら生まれ持った実力、すなわち才能か財産かだけしか勝負の道具はない。もはや世の中がそのように変化してしまった以上、ごまかしは効かないのだ。中途半端に頭が良いってだけで、屁理屈で成り上がれると思うな。

彼等はそれなりに頭が良くてなまじ理解力がある分、自分達のどうしても敵わない相手の存在にすぐ気付いてしまう。能天気なアホだったらそれでも勝てるとかもしれないと思ってガチンコで勝負に行ってしまうのだろうが、それではあっさり負けることがわかってしまっているだけに、そんな無意味な自爆テロは避けたい。そこで大衆社会ならではの「数の力」を利用して、ゴールポストをずらし、自分に有利な土俵での勝負に持ち込もうとする。これが社会主義者や共産主義者の手口だった。

ここで大事になるのが、「公平」とか「弱者」とかいかにも社会正義のように響くキーワードだ。確かに情報に関して不均衡のあった産業社会においては、自分が置かれた現状に対して不満だけ持っていても、実態がわからないため、どうすればいいかわからないまま腹立たしさだけが満ち溢れている人は多かった。こういう人は現状打破の暴力には必要以上に期待して飛び乗ってくる。そこから答や結果が得られるモノでなくとも、体を動かしていれば何か変わった気分になれる。

暴力的であればあるほど、その暴力自体がストレス解消的な発散につながるので、論理的には破綻していても「現状をぶち壊せ」とばかりに渦中に入りたがる人々は多い。かくして「入り口」だけ屁理屈で理論武装し、その先はケイオスな暴力の渦に飲み込むことで一気に理性を失わせるという、左翼特有のオルグスタイルが出来上がる。これで過半数を取ろうという寸法だ。すなわちその本質は情報落差にあり、それがゆえに「騙し」が通用したのだ。

それが方便であり、左翼のエネルギーの本質が権力コンプレックスにあることは、情報社会が解き明かしてしまった。左翼・リベラルは概して情報化へのリテラシーが低いが、それはこの両者が本質的に相容れないものだからだ。だからSNS等を使えば使うほどブーメランになってボロが出る。もはや情報化した社会からも相手にされなくなり、残るのは自滅だけだ。とはいえ「最後っ屁」で自爆テロに走る危険性もあるので、これだけには注意が必要だが。



(25/10/24)

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