リベラルという名のバラマキ
本当の意味での平等というのは、誰にでもチャンスがあり、出自や属性によって差別されないということだ。人種差別、性別差別、年齢差別、これらは全てある特定の属性の人達の門戸を閉ざしてしまうことにより引き起こされる。産業革命までの人類社会は富の総量を飛躍的に生み出すコトができなかった。このため富の蓄積とはとりも直さず既存の富の取り合いであり、既得権を握る側がその優位性を渡すまいといろいろな差別を行なっていた。
このように既得権者が圧力をかけることでそもそもスタートラインに立てなくなっていることこそ差別であり、これは絶対に許してはならない。この機会の平等を守ることこそ本当のリベラルであり、入り口にフィルターをかけようとする人こそ既得権益を重んじる差別主義者だ。まだ全世界の富が限られ、あらゆる差別でとの特権を守ろうとしていた時代には、社会の矛盾と闘い是正してゆくための「正義」としてリベラルな考え方は捉えられていたものだ。
本当のリベラルなら、公正なチャンスによりスタートラインに立った後も、公正かつ客観的な評価で選抜されることを望むだろう。選抜基準がはっきりしていて、それが客観的で手心を加えられないものであるものであることを求める。ただ結果は実力次第。成功する者もいれば、失敗する者もいる。そのような結果を受け入れる自由を含めて、自由と神の見えざる手を尊重するのが本当の平等であり、真の意味でのリベラルだったはずだ。
実力勝負は人間系では「情」があって難しいが、コンピュータには情はない。客観的で定量的な判断があるのみ。これからの情報社会においては、公明正大なAIがレフェリーとなることで、差別が行われることを防ぐことが可能になる。AIの世の中なら、情実のない客観的な評価ができるだろう。そこまでは行かなかったとしても、1980年代から情報化・可視化はかなり進んできた。そういう意味では現代の先進国ではかなりの度合いで「門戸開放」は達成されているといっていい。
その分、いまだに旧態依然とした独裁者が権力を握っている開発途上国はさておき、先進国においては機会の均等、差別の撤廃という意味では、リベラル活動家はやるコトがなくなってしまった。理想が実現したのだから、もう「活動」をやる必要性や理由はなくなってしまった。ある意味理想が実現したわけだが、「活動」を行うことそのものがレーゾンデートルとなってしまった「活動専従」の彼らに取っては、それでは自己否定に見えてしまうことになる。
そこで今度は左翼得意の「換骨奪胎」を行なって、「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求めるコトがリベラルなのだと、目的の読み替えを行い出した。この傾向は状況の変化が明確になった80年代から明確になってきた。結果の平等を求めるようになれば、そのゴールは目に見えてくる。いわゆる「公金ちゅーちゅー」、バラマキへのスネ齧りである。不幸なことに同時に鉄のカーテンの崩壊も起こり、彼等はイデオロギー的な後ろ盾も失ってしまった。
このような社会変化の劇流の中で「弱者」を作り出して、その「弱者」に寄り添うポーズを取るコトを自分達の活動のアイデンティティーにする、という20世紀末型の「リベラル」の基本動作が出来上がった。このようなモデルができあがったのは、ある意味「鶏と卵」の関係である。革新政党の中に入り込んだ「弱者」の活動家の中には、もっと昔から政府や地方公共団体の「補助金」にうまく寄生するノウハウを持った人達もいたからだ。
ここに「結果の平等」を求めるリベラルが、「弱者救済」というその理論的背景を振りかざして「公金ちゅーちゅー」を大々的におこなうという、20世紀末的な「野党利権」が生まれることになった。特に補助金バラ撒き政党である公明党が与党に入ってからは、この傾向が一段と強まった。このバラ撒き拡大には自民党内も含めた与党の一部と野党の利害関係が一致し、もともとのバラ撒き官庁の官僚達も相乗りして、数々の補助金とその受け皿団体が雨後の筍のようにうまれる体たらくとなっていた。
奇しくも、日本の憲政史上初めての女性総理大臣が誕生した。女性の権利拡大を求めてきた本来のリベラルからすれば、その所属政党がどこであろうと、歴史に残る偉業でそこは賞賛すべき大躍進である。しかしリベラルを自称する人には、それを認めようとしない人達がかなり多い。これがちょうど踏み絵となり、エセリベラルは化けの皮を剥がれ、少数派となってしまった真のリベラリストが復権するきっかけともなるのだろう。
(25/11/07)
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