ミクロ型人間とマクロ型人間





秀才は勉強と努力により得た知識を元に、演繹的に論理を構築し答えを導き出すところに特徴がある。すなわちステップ・バイ・ステップで、一歩づつゴールに近付いてゆくやり方を得意としている。このような演繹的手法のメリットは、きわめて安全重視で大失敗や破滅的な結果にはなりにくいところにある。また問題が起こっても、そのステップからやり直すことが可能なのでリカバーもしやすい。

このようなやり方の場合、成功のためにはステップごとに着実に失敗をしないように全力を尽くすことがカギとなる。完成したものは完成度が高く、目的には最適化したものとなる。しかしそこから生まれてくるモノは、あくまでも理屈・機能中心で夢がないモノとなってしまう。いわば演繹型発想のゴールは「想定内の完成形」であり、できることしかできない。カタチにする方が主眼となる。

かつてソニーの大賀社長が、技術者が作ってきたウォークマンの試作品に対し、大きさもコストも半分にしろと指示を出し、ソニーのエンジニアは期日までに見事それを成し遂げたという話は有名だが、この技術者の仕事はこの演繹的なソリューションの典型である。プロジェクトXではないが、日本のメーカーにはこのような成功事例があふれている。それは日本の技術者が演繹的発想のプロフェッショナルだからだ。

しかしここで着目すべきは、大賀社長のようにその指示を出した人間の発想である。大きさもコストも半分というのは、少なくとも理屈で演繹的に導き出したスペックではない。不可能と可能のギリギリのエッジがこの辺だろうという直感を元に、天から降ってきたスペックとして指示を出したものに違いない。そういう指示があればこそ、演繹的なソリューションも活きてくるというものである。

積み上げ型ではなく、最初から理想がありゴールが見えている。それをどうやって実現するかは後から考える。夢のあるプロジェクト、ワクワクするプロジェクトを起こすためには、こういう帰納的な発想をするリーダーが絶対に必要である。このように世の中には、最初からゴールが見えている人間と、言われなくては見ない人間とがいる。前者をマクロ型人間と、後者をミクロ型人間と呼ぼう。

ミクロ型人間は、産業社会の到来とともにその主役たる人材としてかつては重用されていたが、情報社会化した今となってはほぼAIで置き換えることが可能なことが見えてきた。問題は近代教育システムが、基本的にミクロ型人間を要請することに最適化したモノである点だ。今後制度改革があるにしても、当面の間はマクロ型人間をシステマティックに育成することはできず、本人の自覚に頼るしかない。

マクロ型のAIも、今のコンピュータの100万倍ぐらいの能力のある量子コンピュータが実用化され、ほとんど意味のない語呂合わせや思いつきのようなアイディアを恐ろしいほど作りそれを評価して選別するような仕組みが作れれば、実用に供せるかもしれない。しかしそれは相当に先のことであり、それまでの間はマクロ型人間を見つけてきては適材適所で活用するしかない。

幸い、マクロ型の発想をする人間は一定数存在する。境界領域で、演繹型の勉強をする中でその能力が退化してしまった人もある程度いるだろう。そういう意味では、まずは覚える教育を早くやめてしまうのが一番だ。勉強と努力はAIの時代には不要だ。若い時は好きなことだけやって、その能力を存分に伸ばすのがいい。これならばすぐにでもできるだろう。教育は苦行ではなく、思う存分楽しいことをやる場に変わるべきなのだ。


(26/05/22)

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