多様性を理解できない人





そもそも自分と他人が同じものを見ていても、それを同じように捉え同じようなカタチで理解しているという保証はどこにもない。結果的に認識・識別ができていること以上の共通性は、他人とのコミュニケーションの中では証明し切れない。結果的に言葉や行動に出てくる部分は共通であっても、内部における処理の仕組みは同じではない。一人一人の経験や理解力によって、みんな異なる内部処理をしているといっても過言ではないだろう。

単純な話、犬を見た時に頭の中にどんな「音」が鳴っているのかは、使っている言語によって異なる。日本語ネイティブなら「イヌ」だろうし、英語ネイティブなら「ドッグ」、中国語ネイティブなら「ゴウ」、韓国語ネイティブなら「ケー」だろう。まあバイリンガルで、日本で犬を見た時は「イヌ」でアメリカで犬を見た時は「ドッグ」が出てくるという人もいるかもしれないが、それにしても認識プロセスの中で媒介している「単語」が異なることは確かだ。

基本的に人間の認識とはこのようにブラックボックスで、インプットとアウトプットの関係は外部から見て把握できるが、内部でどういう処理が行われているかは「想像」の域を越える分析は不可能である。である以上、ブラックボックスの中を知ろう・理解しようという行為は意味をなさないが、インプット・アウトプットは同じであっても、内部処理のプロセスに関しては全く異なる可能性を担保しておく必要がある。ある事象への対応が同じだったからといって、違う事象でも自分と同じ保証はないのだ。

その一方でブラックボックスの中身という発想自体が抜け落ちてしまい、最初から相手も自分と同じ発想、同じ行動様式で動くとしか捉えられない人達も多い。特に日本人では多数に埋没しようとする烏合の衆的な行動や発想をする人が多いため、他人も自分と同じだろうとアタマから決め込んでしまっている人が間違いなく多数派であろう。これはある種の相手に対する甘えであり、相手と自分の違いを理解し認識しようという努力を行わない原因となっている。

彼等は、いわば「異なるOS」で動く人たちがいることがそもそもわからないのだ。基本的な挙動は自分と同じで、いわばアプリのようにその上に乗っかっている価値基準が違うだけとして相手を捉えてしまう。動作原理が同じで意見が違うなら、それはどちらかが正しくどちらかが間違っているという判断になる。おいおい、どっちが正しいかという一神教的な二元論に陥ってしまうことになる。そもそも自分と違う行動様式の人がいることを全く理解できないからこういう結果になる。

そもそも答えが違うのではなく、基本的な原理からして違うのであり、そういう人たち同士がどうすれば共存できるかを考えることが、真の意味での多様性を受け入れることになる。結局こういう人達は「多様性の本質とは何か」を永遠に理解できない。ゼロかイチかの二元論でしかモノを見れない人は、これからの世の中を生きてゆくには大きなハンディキャップを負うことになる。かといっていきなり多軸的価値観を理解しろと言ってもこれも至難の業だ。

そういう意味では一軸のリニアな構造しか理解できなくても、その中間値を取り得るスペクトラムという考え方や、同じ人が場合によってゼロになったりイチになったりするという確率論的な観念が理解できれば、ゼロイチの善悪二元論に陥ることはない。いわばニュートン物理学に対する量子力学のようなものだ。こういう視点に立てれば、世の中は正否や善悪という単純な二択ではなく、確率論的なスペクトラムであるということが理解可能になる。

しかし本当の意味での多様性を理解するには、この確率論的な軸が多軸になっている高次元空間のようなものを受け入れる必要がある。多様性を受け入れられることは、価値観における多軸性を理解できることと表裏一体の関係にあるからだ。二元論の人にはそこへの道はあまりに遠いが、これからの情報社会を縦横に渡ってゆくためには必須の能力となることは間違いない。これは鍛錬を積めば会得することができる能力であり、これからの教育に求められる課題の一つとなるだろう。


(26/05/29)

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