決められない人
AIが実用化された情報社会化した21世紀の今。人間の役割は正解のない不確定なものに対し、自己責任で決断を下すことに絞られてきた。とはいえ、肚を括って自己責任で道を選べない人が日本人には多い。そういう人間が大半と言ってもいいだろう。不和雷同でマジョリティーについて行けば失敗しないというか、自分で決めるリスクを取る勇気がなく、大勢に合わせていれば卒なく恙なく暮らせるという選択で人生を生きてきた人達だ。
こういう人達が大手を振って学歴だけで一流面していられるという社会構造は、これからの時代においては大きな欠点となる。まあ、この気風は200年以上無責任で平和に暮らしてこれた江戸時代の庶民感覚が養ったものだろう。責任は有責任階級たる武士層がとってくれるので、庶民は時々吹いてくるつむじ風のようなリスクを飄々とかわしてさえいれば、のほほんと気楽に生きられる。「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」という世界である。
そういう庶民感覚は、近代にになってからの脈々と受け継がれた。それは幸か不幸か、明治維新以降1970年代に至るまで、昭和20年代の戦後の一時期を除くと、テイクオフから高度成長という右肩上がりで経済が発展し続けてきたからだ。経済統計が極秘化されていたのであまり知られていないが、今でいうGDPを算出すると、制海権・制空権を保持していた昭和18年までは一貫して成長を続けていた。そのおこぼれに預かっていればお気楽な庶民生活は続いていたのだ。
右肩上がりの経済で圧倒的な追い風なら、それに乗っているだけでそこそこの成果は得られる。そこには努力も責任も何もない。近代日本においては「バスに乗り遅れない」ことさえ気を付ければ、何も努力することなくその分け前に預かり続けることができたのだ。これと江戸時代以来の無責任な庶民感覚が融合することで、日本独自の無責任大衆社会が20世紀に成立した。そしてだれも責任を持たず、判断をしなくても風任せという気風が蔓延した。
確かに経済が右肩上がりで、予定調和の範囲内でやっていればそこそこの成果を得られた高度成長期ならば、ある意味ローリスク・ローリターンでもそれなりにやっていくことができた。この時代ならば、下手にリスクを取ってハイリターンを得るより、しっかりローリスクなリターンを得る方が社会的に良しとされていた。決められる人も、決められない人も、そもそも決めなくていのだから差がつかないいい時代であった(もっともそういう時代でも敢えてハイリスク・ハイリターンに賭けて大成功を収めた人もいるが)。
いい学校を出ていい会社に入って卒なくこなせば、親方日の丸の安定性でそれなりにいい生活ができたという「昭和ドリーム」である。高級官僚がその典型である「肚を括らない」「責任を取らない」という秀才エリートが跋扈したのもむべなるかな。そしてそのようなやり方が役所や企業といった日本の大組織のデファクト・スタンダートとなってしまったのだから、グローバル化した世界経済から取り残されて失われた20年・30年となるのも必然だったといえよう。
これからの時代においてはリーダーは偏差値などではなく、本来のリーダーに求められる資質である「肚をくくって責任を取って進むべき道を決められる」能力の如何によって選ばれることが必須となる。「責任を取って決める」ためには理屈は必要ない。大切なのは蛮勇である。結果としてウマくいかなくても、その時に責任を取ればいいだけのことだ。決める時には勢いの方が重要であり、迷いなく決めてその結果がどうあっても全身で受け入れることだけがリーダーに求められる。
こういうリーダーの下であれば、フォロワーはリーダーの命に従っている限り責任を取る必要はない。責任は全て決めたリーダーが負うからだ。そうであるなら日本人の大多数を占める「決められない人」「責任を取れない人」にも居場所ができる。そういう意味では一挙両得だ。本来リーダーシップとはそういうものなのだ。古今東西、決められる人よりは決められない人の方が多い。そしてそういう人達を集めて組織として動かすことこそ、リーダーシップの本質だからだ。a
(26/06/05)
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