おこぼれに与ってきたきた人達




戦後の日本は冷戦構造の中で、吉田茂首相が提唱した「米国圏の防人となることで、国際政治の中での居場所を作りつつ、最前線の後方支援を行うことで財務的なバックアップを得る」という戦略でやってきたというのが、20世紀後半の日本の地政学的な位置づけである。いい悪いではなく、世界大戦の敗戦国となった一方世界は冷戦構造になった中では、日本が生き残るにはそれしかなかったのだろう。

サンフランシスコ講和条約を結んだ時には、連合国側は日本をどうやって宥めて自分たちの仲間にするのかと言うのが至上の課題だったと思われる。ある意味、欧米列強には行動様式が読めない東洋人の国をどう味方にするのかは極めて難しい問題だったろう。連合国側の一員となって求められることをやっていれば、それ以上の責任は求められないと言うポジショニングは、ある意味戦時中の脅しが効いた結果とも言える。

これが20世紀後半の日本社会の基本となった。日本という国自体が、西側諸国からは「役割を果たせばそれ以上の背伸びはしなくていいし、それに見合う報酬は与える」という位置付けに置かれ、受け身でバラ撒かれる西側最前線の補給廠とされてしまった以上、日本全国にそのフラクタルな分身のような「バラ撒き期待」の人々を増殖させてしまったのもむべなるかなである。

この構造が生み出した最大の癌が、バラ撒きにあずかることしか考えない左派野党とその支持者である。バラ撒きに縋ると言うのは、昭和の時代には街角でお恵みを強請っていた「乞食」と同じである。それに、左翼特有の「屁理屈で理論武装して正当化する」という行動様式が組み合わさっただけだ。何もそこには正当性はない。時として屁理屈は脅しとなるので、時として揺り集りに及んだ暴力的乞食のようなものだ。

バラ撒きは票を取れると言うのは、実は普通選挙が行われるようになった大正時代末から政治家の間では常識となっていた。「我田引鉄」と言う言葉が生まれたように、選挙区で争う各政党の議員にとっては「俺が村」に鉄道を敷き駅を作ることが直接的に自分の議員の椅子の安定化に繋がったので、競って線路を捻じ曲げ自分の選挙区に駅を作ることが繰り返された。これを当時の人は「我田引鉄」と揶揄した。

ある意味これは庶民の政治意識が熟成される前に大衆社会化し普通選挙を導入せざるを得なくなってしまったことの結果だが、これが昭和日本の政治のベースとなってしまった。戦前、既存の保守政党は戦争に反対したが、当時無産者政党と呼ばれた左翼系野党はみんな閉塞した状況を打破してくれそうな戦争に期待した。普通選挙と新聞に代表されるマスコミが軍部と一体となって戦争に突入した事実を忘れてはいけない。

戦後もこの構造は続き、反対するだけでバラ撒きをものにする野党と、それを抱き込む形で利権を作る官僚、そして官僚代表が立候補して議員となり政策としてそれを正当化する政治、この三つが茶番の対立を見せつつ、途方も無いバラ撒き体系として日本の行政機構を作ってしまったのが、55年体制の本質である。米国からのバラ撒かれ国家だった日本の内情としてのバラ撒き体制である。

そしてこのバラ撒き国家を鉄板のものとしたのが田中角栄首相だ。高度成長期の頃はまだ日本も貧しい開発途上国だったので、傾斜配分方式のように官僚機構が主導して限られたリソースの中でどうやって成長を担保するかと言う役割も大きかった。しかし高度成長が頂点に達する一方、ドルショック・オイルショックと世界経済の構造が一変した70年代に入ると、官僚の役割も見失われた。

その一方で70年代に入り日本も世界の先進国の一角に入るようになると、経済成長の恩恵をもっとバラ撒いて欲しいという市井の人々も多くなった。経済成長のための分配という役割を失ってしまった官僚、もっとばら撒いてほしいという欲深い市民、とにかく何でも票が得られればいいというイスに縋り付く議員。 もっと美味しいものを求めて疼く、この3つの勢力を「バラ撒き」で結びつければ鉄壁の政権構造ができると見抜いたのが田中角栄首相だ。

かくして田中派は、官僚出身者を多く取り込み、左翼的なバラ撒き政策を積極的にとりいれ、結果的に選挙で票を集めることに成功した。左派野党からも、自分たちの政策を実現できたという実績を作ることができ、間接的ながら支持を伸ばすことができる。三方一両得ところか四方、五方一両得である。誰もが経済成長の恩恵を得られるような超バラ撒きシステム。これこそが田中角栄政治の本質である。

そののち田中派の主流が自民党から脱党し、野党と組んで非自民連立の細川政権を樹立することになるが、こう見ていくとその布石は55年体制を裏側で支えていたバラ撒き構造にあることがわかる。なぜそれが対立になり脱党して新党を作ることに繋がったのか。今から考えれば、問題は明白だ。それはこの対立が異なるバラ撒き構造同士の対立だったところにある。

端的に言ってしまえば、旧来の族議員的な定型的な農政や公共事業へのバラ撒きか、一見公共福祉的な補助金のバラ撒きかという違いなのだ。このような構造の中ではまだ変化が期待できるとして、田中派+野党的な流れにバブル期の当時興隆していた新自由主義的な若手ビジネスマン層も支持してしまったところに最大の問題があったのだろう。

すでに時効だから言うが、実際私も当時新進党につながる人たちの選挙キャンペーンの制作に従事していたが、完全にそういうターゲットにそういうメッセージを伝えるのがコンセプトだった。旧来形のバラ撒きを改革するのは確かだったんだが、その先がバラ撒きをなくするのではなく、違う形のバラ撒きを実現しようとしていたのだ。

もうこう言う時代は終わりにしよう。世の中はもう21世紀の情報社会だ。数字がものをいう産業社会とは違う。数字の世界はAIに代表されるコンピュータシステムが卒なくやってくれる。人間系は能動的に付加価値を生み出さなくては意味がない。価値を生み出した人はきちんと評価され、受け身の人はそれなりに。これがこれからの社会の基本だ。未だに昭和頭の人は、まず時代が変わったことを認識すべきだ。


(26/08/14)

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