新リべラリズム
なぜか21世紀に入り「リベラル」というと、自分と違う意見は邪教のように否定する権威主義で教条主義的な集団を示す言葉になってしまった。まあこれは世の中が産業社会から情報社会に進化したことで、左翼の居場所が氷河が崩れ落ちるように狭まると共に先鋭化・過激化していったことにより、左翼との結びつきが強かった「リベラル派」も彼らと軌を一にしてエキセントリックにならざるを得なかったのだろう。その証拠にこれは世界的に共通する傾向だ。
本来のリベラルとは、異なる意見にも寛容で多様性を認めそれを担保することを重視する人たちのはずだ。人があるがままでいることを認め合い許すのが本来のリベラルである。そしてそのような姿勢こそが21世紀の情報社会化した人間社会においては最も需要なファクターとなる。本来のリベラルが求められているところに、それと180°反対の主義主張をする人が自ら「リベラル」を標榜する。社会構造の変わり目とはいえなんと皮肉なことだろうか。
そういう意味では機会の平等を重視し、公序良俗に反しない限り他人の行動には一切関心を持たないし規制もみとまないという「リバタリアン」こそ21世紀的なリベラルのあり方である。そういう視点では、機会の平等を重視し公権力による規制やバラ撒きを否定する市場競争重視の新自由主義的な考え方こそ、21世紀的なリベラルを先取りしたものといえる。自由な競争を担保するものこそ、機会の平等と他人に干渉しない自由な環境にあるからだ。
情報社会においては、コンピュータの行動には「絶対的な正しさ」がありそれが基準となるが、人間の行動においては「絶対的な正しさ」がないため自由な発想・行動を取れる。これこそが情報社会における人間の人間たる役割であり、今まで何度も述べてきたようにAI時代の機械と人間との役割分担の基本となる。これこそが20世紀的な産業社会のスキームから大きく変わるポイントだ。だからこそ情報社会においては「自由」が担保されることがなによりも重要である。
正解がないことに対して、果敢にチャレンジすることこそ人間の果たすべき役割であり、そのチャレンジを支えるものこそ自由である。そのチャレンジは成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。やる時点においては何も保証がない。はっきり言って失敗することの方が多いだろう。しかし、その積み重ねが21世紀的な社会においては人類を進歩させる原動力となるのだ。それを自己責任において行える環境こそ、情報社会の発展の原動力である。
いや、数百万年に及ぶホモサピエンスの歴史の中では、学習より果敢なチャレンジの方が、人類文化の形成と発展のためによほど尽くしたことだろう。よくネタとして引き合いに出されるが、フグの調理法を編み出すまでには夥しい数の生贄が有ったに違いない。その結果としてテッチリ・テッサなどの食文化が花開いた。人類の歴史はこういうトライ・アンド・エラーの積み重ねの上に築かれている。そういう意味で情報社会は、近世・近代社会という歪んだ社会を脱して、人間本来の姿に戻ったとも言える。
そしてこれを担保するものこそ多様性だ。本来のリベラルは多様性を重視し、他人に迷惑をかけず自己責任で行動できる範囲においては、何人も相手の行動に反対したり批判したり阻止したりすることはないという主張のはずだ。しかし、左翼が偽装手段としてリベラルを取り込んだことから、実際にリベラル派と呼ばれる人たちは多様性を認めず自分たちの主張だけが正しく、その「教義」に共鳴するものだけが救われるという「一神教」な人々になってしまった。
本来リベラルとは一神教ではなく八百万の神でなくてはおかしい。そういう文脈では、アニミズム的に神を捉える日本人の宗教観は情報社会に極めて適合している。「絶対正義」があるわけではなく、全てのものがそれぞれにおいて正しいという考え方だ21世紀の情報社会にフィットした、新たなリベラルを定義し直す時こそ今なのだ。そしてそれはリバタリアニズムや新自由主義の延長上の「何でもあり」「何でも許される」行動様式の上にこそ築かれるものなのだ。
(26/08/21)
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