現実を直視すること
産業革命以降約200年続いた産業社会においては、「右肩上がり」というのが基本的なキーワードだった。成長こそが虹色の未来を約束するというのが、産業社会の基本的な認識であり原動力となっていた。産業革命以前の中世からの貧しい欧州世界で起こった、産業革命による生産力の爆発的増大とその後の発明発見の連続は、当時の人達に「今は苦しくても未来は」という希望を与えるに充分なものだったろう。
いつも言っているが、マルクスが考えていた理想の未来社会とは、産業革命直後のまだ貧しかった西欧社会が求めた理想である。この先生産力が右肩上がりで上昇し、経済規模も青天井で拡大してゆくことで、社会の誰もがその恩恵に預かって幸せに暮らせるユートピアがやってくるというのがヴィジョナリストであるマルクスが描いた理想の未来だ。エンゲルスが換骨奪胎した、奪い合いの共産社会では決してない。
ひとまずこの200年、人間社会はそこに向かって邁進してきたのは歴史が示している。地域や民族により得られた恩恵に濃淡の差があったからこそ、紛争や戦争も頻発したが、それを乗り越えて、夢の実現に一歩一歩近付いてきたことは間違いない。先進国の人々が常識のように思っている、「毎年昇給があるからローンを組んで家を買ってしまおう」みたいな発想はその恩恵をフルに得ていたからこそできたことだ。
このように産業社会においては常に右肩上がりの「追い風」が吹いているというのが常識だった。そしてそういう「追い風」に乗ってウマく成功するというのが、世渡りの基本的なスタンスだった。すくなくとも20世紀においてはそれは間違っていなかったし、そういう「追い風」への便乗こそが経済の発展をもたらしたことも間違いない。昭和30年代の日本の高度成長などその典型的な事例ということができる。
しかし、21世紀に入り人類社会は情報社会という新しいフェイズへと入った。ここにおいてはもはや追い風は吹かない。これが今までの産業社会とは決定的に異なる点だ。苦労の末成功を手にした者の後を追いかければ、二番煎じ・三番煎じでも少しは分け前にありつけたのがアナログな産業社会である。情報社会においては、勝者総取りなので出涸らしはもはや残っていない。凪の中で、自らの力で前に進むしかないのだ。
もちろん情報社会においても「バスに乗り遅れるな」で、新しい道を拓いた人をみつけてその手法を取り入れることで新たな分野の可能性を追いかけるというやり方もある。ただしこれが通じるのは手法だけで、その土俵は横展した別の領域でなくては成功はできない。そのためにはそもそも「この辺りに道が拓けそうだ」という土地勘がなくては、成功は遂げられないのが実情だ。
ここでいっている「土地勘」とは、時代の構造を読み解きチャンスのありそうな鉱脈を見つけ取る力である。すなわち時代そのものを解っていなくては成功できないスキームになっているということだ。これは知識や思い入れからではなく、現実をあるがままに直視し、あるがままの構造を認識することから始まる。しかしあるがままに見たからと言って、だれもがそこの本質を見抜けるわけではない。
このカギになる力は、勉強や努力ではどうしようもない、ある種の「嗅覚」のような感覚だ。感じ取れる人はあるがままにみればそこに可能性と答えが見えてくる。あとはミッシングリンクを埋めるだけだ。これからの時代、論理的にミッシングリンクを埋めるのはAIがやってくれるだろう。この「嗅覚」こそ情報社会の金の卵を生み出すカギだ。まずは現実を直視してそこに何が見えるか。見えた人には未来が待っている。
(26/08/28)
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