都合のいいようにしかものを見られない人




最近のマスコミの報道が、記者会見などのフッテージから自分達の主張を正当化するのに都合のいいところだけど取り出して構成したフェイクニュースになっているものが多いというのはよく指摘されるところである。まあ、日本の新聞はルーツをたどると自由民権運動の機関紙に行き着くので、ファクトではなくプロパガンダというのはそのDNAの中に深く刻み込まれたものなのかもしれない。

もっとも、主観的な意見の前に事実の把握については客観性を持たなくてはいけないジャーナリズムだからこそ、こういう行為が批判されるのであって、都合のいいところしか聞かないもしくは聞けないという人は結構多くいる。というより、都合の悪いものは耳に入らず目も背けてしまうと言った方がより正解かもしれない。とにかくファクトをクールに見つめられること自体が「才能化」している。

マーケティングなどその典型だろう。広告会社や戦略コンサルにマーケティングコンサルを頼まなくとも、市場の状況を客観的に把握することができれば、おのずと正解は見えてくる。それができない人が多いから仕事が成り立ったという面もあるのだが。これからAIの時代になっても、自分の目でものを見て自分で考えることなくすぐAIに聞いてしまう人が多いのはすでに現状でも見えてきている。

少なくとも日本人においては客観的かつ公正にものを見られる人の方が少なく、何らかの先入観やバイアスからしかものを見られない人の方が圧倒的に多い。そしてそういう人は自分でものを考えるより、すぐ人の意見を聞いて参考にしてしまう。はっきり言ってこういうタイプの方がマジョリティーになっている。これには「追いつき追い越せ」に特化したベンチマーク前提の近代教育システムも影響していることだろう。

これで問題なのは、他人に答えを聞いたり、他人の意見を取り入れるにしても、自分に都合のいいものだけにバイアスをかけてしまうところだ。自分と同じ意見なら熱心に耳を傾けるが、自分と違う意見はハナから拒絶する。まあ自分が無関心なものなら好き嫌いはないので、「ごもっとも」としてひとまずそのまま受け入れる。これがごくごく一般的な対応かもしれない。

他人の意見を切り張りして自分の都合のいい部分だけを引用するのも、こういう行動様式の帰着としてとらえることができる。海外の歴史や文化的伝統を無視して、表面的な現象だけを取り出して自分の意見として語るいわゆる「出羽守」などがその典型だ。本人は偉そうに語ったりするが、本質が分かっている人の前では単に自分の底の浅さを露にしているだけのことである。

産業社会の20世紀ならばこれでもなんとか誤魔化せたかもしれないが、いまや21世紀の情報社会である。ファクトを知ろうと思えば誰でも知れる時代となった。まさに我田引水で自分の都合のいいようにモノを語ってきたレガシーメディアが、「裸の王様」となって情弱な人以外は見下してそっぽを向くようになったが、同じことが個人間においても起こってくるのである。

都合のいいようにしかものを見られない人は、その浅はかさが誰の目にも見えてくるようになる。虚言癖で嘘に噓を重ねて取り繕ってゆくうちに、居場所を失い破滅してしまう人間は昔からいた。それと同じように都合のいいようにしかものを見れない人は、言い訳に言い訳を重ねて自滅することになるのだろう。そういえば左翼やリベラルってこんな感じだよね。ダブルスタンダードのブーメランで自滅だし。

(26/09/04)

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