四柱推命そぞろ歩き


 このページは四柱推命について何となく考えていることを文章にしたものです。
 今回、ソースをHTML5に書き換えるにあたり、タイトルを変えて、内容も四柱推命にしぼったページとしました。


― 目 次 ―


行運とは宿命である (2021/4/4)

 わざと刺激的なタイトルにしてみました(苦笑)。
 最近年をとったせいか、宿命ということについて考えることがよくあります。占術に携わる以上、程度は違うもののある程度宿命というものを意識せざるをえません。そして宿命ということについて考えることは四柱推命をやる上で非常に大事だと思っているのですが、多くはそこをあいまいにしていて、はっきりと書いている本が意外に見当たりません(もちろんないわけではない)。また中には考え違いをしている本もあり、四柱推命における宿命について私自身の考えの整理も含めてあらためて書いてみます。もっとも整理とはいいながら行き当たりばったりですが(苦笑)。

■ 四柱推命の周期性

 四柱推命が周期に基づく占いであることを否定する術者はいないでしょう。干支自体が60しかなくそれが年月日時で繰り返される以上、その周期性から完全に逃れることはできません。断っておきますが、周期性があるからといって自分と完全に同じ命式の人が過去や未来に「必ず」存在するといっているわけではありません。四柱の干支の並びは60×12×60×12=約52万通りしかないわけですが、月気深浅や時刻の深い浅いもありますし、時間を経るうちに月日の長さも変わっていきます。厳密に考えると全く同じ命式はまず存在しないといっていいでしょう。
 私のいう周期性とはそういう厳密なことではなく、四柱推命の論理(科学でいう論理ではないが)の構成が周期性を持っているということです。で、その周期性はとくに行運に顕れると思っています。
 意外と書いている人がいないのであらためて書きますと、よく四柱推命の本には「比肩の年は云々、劫財との年は云々」などと書いてありますが、比肩の年というのは10年ごとにあります。同様に劫財も10年ごと、食神も10年ごと、と変通星は須らく10年ごとにめぐってくるものです。で、陽日生まれの人は比肩の次の年に劫財がきますし、陰日生まれの人は比肩の次の年は傷官です。これはどの五行でも変わりません。それは当然で、年月日時の十干は甲乙丙丁…と五行相生の順に陽陰陽陰…と続くのですから、どの人でも同じです。もちろん喜忌は違いますし、行運の命式に対する作用も人ぞれぞれですので、順序が同じだから同じ運命というわけではないのですが、少なくとも変通星はある一定の順序で進行するということです。で、それは2種類しかありません。
 その順序を表にすると、

陽日生まれ:比肩劫財食神傷官偏財正財七殺正官偏印印綬
陰日生まれ:比肩傷官食神正財偏財正官七殺印綬偏印劫財

 比肩を出発点にしましたのでだいぶ違う印象がありますが、六親的にみれば、兄弟→子孫→妻財→官鬼→父母の順で陰日陽日とも同じです。
 これはなにも年運だけでなく、月運も同じです。ただし大運は順逆がありますので若干異にしますが、それでも4パターンしかありません。
 十二運に至っては、五行十二運だと胎→養→長生→…の順しかありませんし、陽順陰逆としても順序としては2パターンしかありません。
 この項のタイトルを「四柱推命の周期性」としましたが、私が言いたいことは、単に十干、十二支、六十干支といった周期性があるだけではなく、行運のパターンは実はもっと単純化されており、四柱推命の論理の中では、人の一生の流れはパターン化されているということです。あえて簡略化すると、妻財的な現象が起きる時期の次には官鬼的な現象が続くというのは(ほとんどの)人類に共通しているというようなことです。(ほとんどの、と書いた理由は四柱推命に当てはまらない人がいるため)

■ 四柱推命の宿命的側面

 前項で書いたように行運はパターン化されているわけですが、そもそも行運とは何でしょうか?以前も書いたことがありその繰り返しになりますが、ご容赦ください。
 四柱推命の行運には大運、小運、流年太歳、流月などありますが、それは生まれた瞬間に決まっているものです。例えば甲子年生まれの人は、10歳には甲戌年の流年なのであり、人によって乙亥年になったり癸酉年になったりということはありません。
 大運にしても、立運の差はありますが、甲子月生まれの人は10歳のときは乙丑運か癸亥運なのであって、10歳で壬戌運や丙寅運になるということはありません。なお初代高木乗師は大運の年数のとり方が特殊でしたが、だからといって生まれた時点で計算された大運と、その後10年たったときに再計算すると違う大運が得られるということではありません。
 これは固定された暦と固定された時点を基にする占術であればどれも同じです。四柱推命で占ったことが、10年後に占うとまた変わるということは原理的にありえません。もちろん環境が変わって表れ方が異なるということはあります。
 テレビなどで、双子の話が出てきて、お互い知らずに離れて暮らしていたのに同じような人生を送っている、という話をミステリとして取り上げられたりしますが、私にいわせると占術的には至極当然なので、むしろ双子が全く違う人生を送っているというのであれば不思議だし、占術の研究対象になると思います。ただ、例えば夫の名前が全く同じというレベルになると、ちょっと四柱推命では解けませんが…。(例えば木が付く名前を好むというようなことは得られますが、全く同じとなると霊的な作用の結果だと思いますね)

■ 再び開運法について

 別の章で開運法について書いたとおり、四柱推命についていえば、周期性をもったある意味宿命的な占術である、ということから、それ(周期性と限界)を知ることこそが最高の(四柱推命における)開運法だと思います。
 その具体的な方法について何人かの方々にはすでに話したことなのですが、ある程度の年齢の方ならば、過去を徹底的に振り返ることで、開運の鍵が見出せるということです。で、これは誰でもなく自分自身でしかできません。というのは、その時々で身の回りに起きる現象と、そのときに自分が何を考えどのように行動したかを振り返る必要があり、これは本人にしかわかりません。したがってこの開運法については、誰かの例をとりあげて検証することができず、万人に当てはまる方法なのかわかりません。しかし私自身については、この方法が非常に有効だと思っています。以下私の例を述べますが、これが絶対ではなくあくまで参考と思ってください。

 私の場合は、十二運の影響よりも十干の影響の方が強いようで、10年周期が強く出ていることがわかりました。人によっては十二支の影響の方が強い人もいるかもしれません。まずは人生のイベントを振り返ってみて、周期に気づくこと(意識すること)が出発点です。私の本業は会社員でしかも転勤族なので、比較的周期がわかりやすいということはあるかもしれませんが。
 私の場合は5の年、すなわち2015年、2005年、1995年は立場が大きく変化する年で、いずれの年も転勤、転居を行っています。またその前年(4の年)がまた特徴的で、4の年は比較的落ち着いた年なのですが、次の年以降の準備をさせられる年になっています(多くは無意識のうちに、たまに気づいて意識的にやることもあったが)。そして、この4の年での行動が翌年や翌々年の運に大きく作用していることがわかりました。
 では、4の年、5の年が、四柱推命でいうところの何に当たるかを考えると、私にとって4の年、5の年というのは、変通性でいえば印の年であり(というと日干がばれてしまいますが)、まさに学びや地位(昇進や左遷)が現象として表れてくる時期です。
 もう一つ、私にとって4,5の年は大運の干から支への切り替わりの年に当たります。一般の四柱推命では大運は一つの干支で10年としますが、私は干と支で5年ずつという説をとっています。この干から支へ切り替わるのが4から5の年です。
 ということは、お気づきでしょうが、私の大運の切り替わりは0の年ということになるのですが、その年はあまりはっきりしていなくて、むしろ9の年の方が変化が大きく出ます。大運の切り替わりより、その大運干支の干と支の間の方が強く出るというのが私の行運の「くせ」みたいなものでしょう。

 まとめると、私の開運のカギは4の年をいかに過ごすかであり、この年に来年以降のことを見越して、勉強をするなり関係者との良好な関係を構築するなりしておけば、その翌年の変化も良いものになっただろうと思います。
 実は、私がこの周期に気づいたのはせいぜいここ十年ぐらいのことで、50歳を過ぎてから人生を振り返ることが増え、ようやくその周期に気づいたということです。四柱推命歴も約40年もたとうかというのに、今ごろ気づくとは、いかに自分のことは見えていなかったか、ということなのでしょう。
 とすると、私の次の転機は2025年ということになります。何が起きるかは乞うご期待ですが、おそらく3年後ぐらいには道筋がある程度見えてくるでしょう。

■ あまり具体的ではない私のやり方

 私の例を述べましたが、漠然としていてわかりにくかったと思います。具体的に説明したいのですが、プライバシーにかかわることですのでこの程度で勘弁してください。
 私はこの過去を振り返り周期性を探す作業を布団(あるいはベッド)の中で行っていました。命式は頭に入っていますし、流年月干支はだいたい覚えてます(さすがに日干支までは覚えていませんが)ので、紙に書かなくても頭の中で喜忌や干支関係などを割り出し考えることができます。それには布団の中(電気が消えた暗いところ)で思考をめぐらせるのが私には最も合っています。思考の途中で寝てもいいですし。
 みなさんにも、寝る前や夜中起きたときに思いをめぐらせることをすすめます。
 そうしていると、よかったこと悪かったこと、あるいは悔しかったこと恐ろしかったことなど、さまざまなことが思い出されるでしょう。私は年もとりとくに思い残すこともないので、それらのことに対してもはや悲しんだり後悔したりということもなく淡々と記憶がたどれるのですが、まあ多くの人は心穏やかにはいられないかもしれません。
 それはそれで自身で解消していただくとして、そうやって記憶をたどっていくと、周期性に気づくと同時に、偶然と思えることが幾重にも重なり一つの事象というかストーリーができていることが感じられるようになるでしょう。別に偶然と思えることはドラマや世にも不思議な話の中だけあるのではなく、身近に起きていることです。この偶然の重なりを考えたときに、私はそこに必然性というか宿命みたいなものを感じます。
 まあ、そうでなくても、占術をやる以上(程度の差はあるにせよ)宿命というものを信じなければ意味がありません。
 そして、宿命が周期性を持ち、本人がその周期に気づくならば、実は占術などは必要ないのかもしれません。単に日々起きたことを日記につければいいという話になりますが、ただ日記をつけるというのは占術以上にハードルが高い気がします(少なくとも私には)。

■ 行運あるいは宿命について補足

 「行運とは宿命である」という文脈から脱線してしまいました(笑)。
 私の言いたいことの一つは、命式を先天運、行運を後天運などと言う術者がいますが(昔は。まあ今はいないかもしれませんが)、これは明らかに誤りで、行運は生まれた瞬間に決まるものであり生まれてから身につけるものではありません。すなわち、誰がなんといおうと四柱推命は宿命的な占術(先の言葉でいえば先天的な占術)に間違いありません。

 しかしながら、宿命があるということと占術で何でもわかるというのは別の問題です。まして四柱推命ならなおさらで、四柱推命では細かい事象までは見ることはできない、また四柱推命に当てはまらない人も一定程度いるというのが大方の術者の意見でしょう。すなわち何でもわかるということはまずないといえます。
 前者についていえば、例えば投資で十何億円失うというのは破財として四柱推命で予測はできるでしょうが、小銭を落として十何円かを失うというのは、これは破財としては予想はできません。というのは生活(財)にほとんど影響しないと思われるからです。せいぜい注意力の低下としてあらわれるだけで、それが小銭を落とす形で出るのか、それとも何かにつまずいて転んで擦り傷を負うという形で出るのかは、四柱推命だけではわかりません。それがわかるには予知能力や霊能力、インスピレーションみたいなものが必要でしょう。
 また後者についていえば、例えば釈迦の一生は四柱推命でわかるとは思えません。また生まれながらにして神佑天助を持った人も世の中にはいるようで、そういう人は宿命など埒の外でしょう。四柱推命のみならずあらゆる占術でも推し量ることのできない人です。
 これを読んでいるあなたも占術、いや宿命というものを超越している一人かもしれませんね。

 四柱推命の限界はこれでひとまずおいて、では宿命というものがあるとして、人間には全く意志による選択の余地は残されていないのか?哲学上の大きな課題で私ごときにわかる問題ではありません。ただ私は意志の入る余地はあるのではないかと思っています。まあ願望に近いですが。
 これを考える一つのヒントが、タイムマシンパラドックスです。詳しくはネットや関連書籍を参照してください。
 一つの考え方は並行宇宙仮説。選択肢の数だけ世界が存在するというものです。これは理論としては成り立ちえるのでしょうが私には理解不能。この場合は違う世界に入ったら宿命が無効になってしまうというもの。すなわちその人は違う世界に入ることで宿命を乗り越えたということです。ひょっとすると今も誰かが違う世界を作ってしまい、その中に我々は生きているのかもしれません。
 もう一つは、個人の意志といっても摂動の範囲内で大枠の方向は決まっているという考え方です。いわゆる「事後選択モデル」に近いかもしれません。細かな変動は起こり得ても未来に起こることと矛盾することは起きないという考え方です。たとえていえば惑星の軌道のようなもので、軌道計算で過去や未来の近似解は得られるが、実際の観測をすると近似解とは微妙に違うというような現象です。ちょっとはしょりすぎなので、詳しくは「摂動」で検索してみてください。すなわち占術は大枠(近似)をとらえており、個人の意志はしょせん摂動にすぎない(といえば言い過ぎか)という考えです。
 実は、これが私の宿命あるいは運命あるいは運勢の考えです。もちろん個人の意志が大きく作用する場合もなくはないでしょうが、そうなると摂動とは言えなくなります。そもそも四柱推命が当てはまるような人はおそらく摂動程度で収まるでしょう。これは意志が全く入らないというわけではなく、意志の入る余地にも限界があるということです。繰り返すようですが、だからといって意志や努力が無駄だといっているわけではありません。

 話にまとまりがなくなりました。すみません。ほんとに「そぞろ歩き」になってしまいました(苦笑)。


三柱推命の是非 (2009/9/27)

 三柱推命とは私の造語ではありますが、ひょっとすると他に使っている人もいるかもしれません。時柱を考慮しない四柱推命のことです。
 台湾の四柱推命本を多数所有していますが、台湾の本で時柱のない命式をほとんど見たことがありません(全くゼロではありませんが)。三柱のみで占う人がいるのかもしれませんが、私は寡聞にして知りません。むしろ、時柱を推測する方が重要で、そういうことを書いた本はあります。もっとも、日柱のみを使う「一柱推命」もありますし、逆に時柱をさらに細かく分けた五柱推命や、四柱に生まれた場所を付け加える推命もあります。ただそれらは例外であり、大多数は四柱八字を使って占います。
 ここでの話はそれらの解説ではなく、「日本で広く(?)行われている三柱による推命は果たして意味があるのか?」というのがテーマです。

■ とりあえずの結論

 結論からいえば、妥協的な結論で申し訳ないのですが、「意味があるが、注意が必要」と考えています。
 ごくたまに、親戚や友人から鑑定を依頼されることがあるのですが、その際生まれた時間まではわからないという人が多く、その場合は13種類(子時から翌日の子時まで)の命式を作成するということをします。また、生時推測法というテーマのページもありますので、私の方法というか、時柱を推測する方法はそこを参照してください。

■ 三柱と四柱の違い?

 この文章を書いているのが2003年9月27日ですので、この日を例にとると、年月日柱は、それぞれ癸未、辛酉、癸卯となります。
 この三柱だけでみると、日干癸は秋生まれで月干に印、年干に比肩があるので、地支には通根していないものの三柱の中では強い干ということができます。月支蔵干は辛ですが、月支と日支が冲であり辛の強さは減じられることになります。年支は五行的には土です。そこで、五行の強さを論ずれは、水、金が強く、ついで土となり、木、火は弱いと判断されます。(ただし未には木、火の蔵干があることは注意)
 では、これに時干支をふっていくとどうなるか。細かい議論は省いて、五行の強弱だけに着目すると、13の命式のうち水が強いものが5つ、金が強いものが2つ、土が強いものが2つ、木が強いものが3つ、火が強いものが1つという結果になりました。

 蓋然性から言えば、やはり三柱での傾向と一致することがわかりますが、金水の強いものが13分の7ということでは約5割ということですから、当たる可能性は半々ということになります。
 これは、先にカッコ書きしたように、未が木、火の根になることが利いていますので、他の日の場合は、もうすこし当たる可能性が高くなると思います。

 以上議論は例を挙げて三柱と四柱の推命の五行強弱の一致をみたもので、干関係などは考慮していない非常に大雑把なものです。一例一例を細かくみれば、三柱と四柱の微妙な違いが出てくるかもしれませんが、それは煩雑になるので私はしません。

■ 三柱でもいいけど、個々人には難しい

 気をつけなければならないのは、水と火は対立する五行ですから、水が強いのと火が強いのでは全く反対の結論となってしまう、そのような可能性があるということです。この日の例でいえば、巳時に生まれた場合、時柱は丁巳となり、丁は年支、時支に通根し最も強いと考えなければなりません。もちろん、日主癸から剋されるので、力は減じられるのですが。

 また剋関係が強い金と木の場合も逆の結論になれば、大きく違いが出るでしょう。
 よって、とくに行運をみる場合、三柱の結論とは全く異なる結論になります。「注意が必要」というのはこういうことです。

 三柱で性格傾向や社会運などをみるのは、まあ確率も比較的高いので可能と思いますが、行運や家庭運、子供運は三柱でみることはあまりおすすめできません。

■ 丙午年には意味がある?

 ちょっと論を広げて、「よく丙午年生まれの女性は夫を剋す」などと生まれ年だけで占うことはできるのか?ちょっと四柱推命的に考えてみましょう。

 丙午年の場合、年柱は五行的にはすべて火ですから、その年に生まれた人は五行的に火の強い人が多いということが推察されます。『四柱推命学入門』(緒方泰洲著)によれば、火は「焦り易く気忙しく、自尊心を有し立居振舞い礼儀を意味する」ということだそうですから、丙午年生まれの人には、そのような性格の人がやや多いという判断ができます。

 幼稚園や学校などでは、年ごとに生徒の傾向が違うようで、生まれ年だけで看るのは全く根拠が無いとは言えないように思います。もっとも占い自体に根拠がないといえばまあそれまでなのですが。

 当然のことながら、これは個人レベルに落としてしまうと当てはまらなくなるというのは言うまでもありません。

 なお、気学では生まれ年(本命)を重視しますので、また別の説明がされるでしょうが、ここではあくまでも四柱推命にこだわって説明にトライしています。
 お気づきとは思いますが、生まれ年で考えたことと同じことが生まれ月でも言えます。まして、四柱推命では月支蔵干を重視しますので、なおさらです。

■ それでも当てる占師は当てる

 最後になってこれまでの話を否定するようなことを言いますが、私が昔学生のころ、時柱抜きでプロに占ってもらったところ、かなり的確に当てられてしまいました。そのとき、なぜそういう結果が得られるのかを質問すればよかったのですが、気後れして追求せずじまいでした。鑑定の達人(例えば増永篤彦氏)にとっては、三柱でも四柱でも問題ないということなのでしょうか。 

 しかし、今にして思えば、命式は立てていたものの、三柱推命(その占師は四柱推命と言っていましたが)ではなく私の人相や話ぶりで判断していたのかもしれません。もうその占師も亡くなってしまわれたので確かめようもありません。


自分と同じ四柱である確率 (2008/4)

 今回は占いというよりも数字のお遊び的な話を。
 はたして自分と同じ四柱の人はどのくらいいるのか?なぜこのような問いを考えたかというと、現在命式データベースを作成中で、いろいろな古今東西、いろんな人の命式を集めているわけですが、いったい昔の人の命式を集めてみたとき、果たして自分と同じ命式の人に出会えるのかどうか、何人以上集めれば自分と同じ命式に出会うかということを考えたわけであります。
 もう一つ。昔の四柱推命の本に、四柱に60干支があるので60の4乗すなわち1296万通りの命式がある、だから精密な占いである、などと吹聴しているものもありました。その数字自体間違いなのですが、それもあってちょっと数字的に考えてみようと思った次第です。

■ 現存する日本人の命式の数

 まずは、現存する日本人に限定して考えてみることにしましょう。(なおこの話は2008年4月現在の話です)前提ですが、同一年であれば生まれた日、時間による出生率の差はないものとしましょう。統計的に丙午年生まれの人は極端に少ないことがわかってますので年については差があります。

 全国の人口は約1億2800万人(2008年の話)で、それまでの最高齢は119歳です。まあ今は110歳以上の人はいませんが。平均寿命は男女とも80歳を超えていますので、まず60歳までは年に数十万人以上はいるものと思います。ところで、1か月は約30日ですから、60歳未満の人の命式の数は、60年干支×12月干支×30日干支×12時干支=259,200通り、ということになります。1か月の日数が正確ではないので約26万通りとしましょう。

では60歳から上の人の命式はどうでしょうか?
60年というとうるう年が15回ある計算になりますから、365×60+15=21,915日ということになります。すなわち、日干支は60年で15日程度ずれることになりますから、60歳から120歳未満の人で60歳以下の人と四柱が一致しないのは、60歳未満の約半分で129,600通りです。もっとも110歳以上の人はごく限られますので、その6分の5程度とすれば108,000通りです。

 とすると、現存する日本人の四柱の数は、およそ37万通りだろうと考えられます。これは想像以上に少ないと思うのですが、みなさんはいかがですか?

■ 自分と同じ命式の人と出会う確率

 ネットで自分と同じ年の人間は約150万人います。1年は365日で1日に12刻(子刻から亥刻まで)ありますから、1年で4380刻あることになり、平均的に生まれたとすれば、150万人の4380分の1、すなわち350人程度が同じ時刻の生まれと考えられます。では60年前の生まれの人、すなわち自分より60歳上の人はどうでしょうか。万年暦をひもとくと可能性はありますが、平均寿命をはるかに超えるので実際にはおそらくいないでしょう。日干支が一致するのは21900日前、すなわち同じ月なら自分より15日後に生まれた人になります。私の場合は、15日後でも同じ月なので同じ日時干支をもつ人がいる可能性はあるわけですが、月の後半に生まれた人の場合は15日後では次の月になるので、60年前に同じ命式を持つ人がいる可能性は全くのゼロとなります。

 したがって、60歳上の人は考える必要はなく私と同じ年齢で同じ四柱を持つ確率を考えればいいわけです。1億2800万分の350、すなわち0.000273%となります。単位を変えると2.73ppmということになります。ただし、これは老若男女をすべて含む数字ですから、実際に会う人で同じ四柱を持つ確率はもっと高くなります。しかしppmオーダーですから、そうそうは見つからないということになりますね。

■ 同じ四柱を持つ人が見つかる確率

 上の確率をもとに何人分の命式を集めれば自分と同じ命式の人に出会うかを計算すると、25万人ていどの命式を集めれば50%の確率で自分と同じ四柱を持つ人が見つかるという計算になります。これは男女を区別していませんので、男性だけに限れば50万人程度集めなければならないということになります。これはちょっと大変ですね。

 仮に現存しない人や中国や台湾、韓国の人も含めて探すとしても、せいぜい半分にしかなりませんから、やはり25万人程度の命式を集めなければなりません。現在5千人ほどの命式を集めていますが、全然足りません。

 結論としては、普通に考えれば自分と同じ四柱を持つ人に会う可能性はほぼゼロということになります。自分の人生の参考にしたいからという理由で過去の命式を集めるのは、ま、無駄な努力です。過去の命式は、四柱推命なり他の占いの勉強や検証のために集めるというのが正解でしょう。

 しかしながら、今はインターネットという手段があります。現存する人で自分と同じ年齢の人を6000人以上集めれば50%の確率で同じ四柱を持つ人に出会うことになります。単に6000人を集めるのは難しいでしょうが、ネットで告知すればまるっきり不可能ということでもなさそうです。また、〇月〇日生まれの人、と告知すれば、何人かは集まるでしょう。

 では、単に同一四柱の人が見つかる可能性はどうか。確率の計算方法ですが、どの二人組をとっても同一四柱でない場合の確率を求めることになります。そこで計算してみると、これは極めて少なくてすみ、おおむね700人程度の命式を集めると50%の確率で同一四柱の人が見つかる計算となります。1000人集めれば、まず95%以上の確率で同一四柱の人が見つかります。実際、私も1500人程度の命式を整理していますが、4例見つかっています。(ちなみに2020年現在では5千人弱の命式が手元にあります)
 これが三柱だと、すなわち年月日柱同一ということだと、200例ほど集めれば見つかる計算になります。

■ 結論はとくにありません

 ただ、そうまでして自分と同一の四柱を持つ人を探してどうするのという問題があります。自分より年上の人であれば、その人の人生を参考にもできるでしょうが、自分と同じ年であれば参考になりません。苦労して探すだけの価値があるかどうかははなはだ疑問です。
 以上、あくまで私の個人的な興味で調べた結果です。結論はとくにありません。なお本計算では、月令や夜子時については考慮していません。


大運の計算方法

 大運の計算方法については、本文中では詳しい説明はしていませんが、ここでは、私なりの考え方と計算方法を説明しましょう。

■ 前提条件

 大運とは何か。この前提として、どうやら中国占術においては、人の一生はちょうど季節が1年で巡るのと同じように、120年で繰り返される、と考えているようです。例えば、春生まれの人は、生まれたときは春であり、その後人生の夏を迎え、秋、冬を経てまた春に戻る。それに120年かかる、という考えが根底にあるようです。実際、120歳を超えて生きた人はいないとはいいませんが非常にまれであり、人間の寿命の限界は120歳であると考えるのは妥当だと考えます。そういう前提だと大運の一運が10年というのはまあわかりますね。

 ところが、事はもう少し複雑で、そういうふうに、春夏秋冬の順ではなく、季節を逆行する人もいると考えます。すなわち、生まれたときは春でも、その後人生の冬を迎え、秋、夏を経てまた春に戻るという人もいる。これがいわゆる大運の順逆という考え方です。

■ 順運、逆運と立運

 陰陽説においては男が陽であり女が陰なので、あっさり陽順陰逆として、男を季節の順行、女を季節の逆行とすれば話は簡単ですが、なぜか陽年生まれの男を順、陰年生まれの男を逆とし、女性は反対で、陰年生まれの女を順、陽年生まれの女を逆としています。男は陽だから陽と陽で順、女は陰だから陰と陰で順というのはわかりますが、ではなぜ生年なのか、月や日ではないのかは疑問が残ります。その理由は私は知りません。中国の昔の哲学などを紐解けばわかるのかもしれませんが。

 ともかく、順逆は決まりました。次は出発点です。

 人生120年が季節の一巡に相当するということは、120年が1年にあたるということです。すると一つの季節は30年に相当し、1ヶ月は10年に相当するということになります。さらに1ヶ月は約30日ですから、約3日が1年ということになります。仮に春生まれだとすると、春のどの時点で生まれたかを出発点とします。春は寅月から始まりますから、寅月の初日から何日たったところかを見ます。

 例で説明しましょう。2008年3月20日は春分ですが、この日に生まれた人の場合、ちょうど春の真ん中で、卯月の16日目に当たります。寅月の初日からは1ヶ月と16日たったことになります。1ヶ月は10年にあたります。16日は3日が1年とすると、5.3年に相当します。すなわち、この人は人生の春の季節が始まって15.3年のところにいるということになります。
 この人が順運の人なら、次は夏に向かいます。夏は巳月から始まりますが、巳月までは卯月の残り14日と辰月が残っています。すなわち14を3で割ると4.7ですから、辰月の10年を加えて、夏まで14.7年が残っていることになります。つまり、人生の夏に到達するのは生まれてから14.7年後ということです。
 逆運の人の場合は、冬に向かうのですから、冬に到達するまでに15.3年かかるわけです。

 以上が大運の基本的な考え方です。季節の配当は亥子丑が冬、寅卯辰が春、巳午未が夏、申酉戌が冬であり、それぞれの十二支,すなわち1か月が10年に相当します。
 立運というのは、季節ではなくこの十二支(1か月)の移り変わりの端数の年数を指します。すなわち、次の季節への年数の10の位を除いた年数ということです。先の例でいけば、順運の人は4.7年ですし、逆運の人は5.3年ということになります。

■ 大運の遁干法

 大運では遁干法という考え方は使われませんが、あえて遁干法という言い方をします。

 確かに人の一生を季節に置き換えたという前提にたてば、生月支が出発点であるというのはいいとして、ではその支に対する天干は何でしょうか? 結論からいえば生月干を基準として順に、あるいは逆に付するということになるわけですが、それはなぜでしょうか。

 これは、あくまで私の仮説です。まだ明確にこのことを議論した術者はいないと思います。
 それは、大運というシステムが年(干支)を中心に考えるシステムだからです。はたして順逆を決めるときに使った要素は何だったでしょうか?性別と生まれた年の陰陽でした。すなわち生年が大運というシステムを作る根本になっているわけです。日干支は関係ありません。生年干をもとに十二支に天干を付す(すなわち遁干)とすれば、これは生月干と同じになります。そして普通はその旬をめぐることになります。

 例えば、2008年3月20日生まれの場合、大運の出発点は卯です。また2008年の年干は戊です。戊天干の場合は甲寅旬ですから遁干は乙となります。結果的には生月干と同じになるわけですが、そして乙卯を出発として、順運なら丙辰、丁巳、戊午・・・となりますし、逆運なら甲寅、癸丑、壬子・・・となります。
 以上をまとめると、順運ならば立運4.7年ですから、丙辰は4.7~14.7歳にあたり、丁巳は14.7歳~24.7歳、以下同じようになります。逆運ならば、甲寅は5.3~15.3歳にあたり、癸丑は15.3~25.3歳、以下同じようになります。

 中国や韓国では数え年でいうのが普通ですから、通常は小数点以下は切り上げるか、さらに1歳加えることになります。日本は満年齢ですから、切り捨てもしくは四捨五入でいいでしょう。私は四捨五入としています。そのわけは大運の切り替わりが必ずしもスッパリと決まるわけではなく、前後の大運の影響があると考えるからです。

 なお、この大運を10年ひとまとめと見るか、上下5年に区切るかという議論があることは、本文中で紹介したとおりです。これは大運の計算とはまた別の話となります。

■ 大運の厳密な計算

 実は、「1年は3日に相当する」というのはあくまで簡便法なのであり、もし厳密にやろうとするなら、これは太陽黄経で計算する必要があるというのが私の考えです。これは今までごく少数の人しか指摘していないことでしょう。
 現在の二十四節気は太陽黄経で計算されている以上、大運も太陽黄経で計算しなければ一貫性が保てません。もし恒気法のように日数で節月を決めているなら、日数基準で行うのがよいと思いますが、今どき恒気法を使う人はいないでしょうし、暦もそうなっていません。ちなみに日数で行うなら、365.2422/120=3.044日を1年相当とするのがよいと思います。

 前に述べたように節月は太陽黄経で計算されており、その角度は30度となっています。ですから120年を360度に当たるとするなら、30度というのはちょうど10年相当であり、1ヶ月は10年ということになります。ですから、立運は0~10年が正しいのであり、11年という立運はありえません。ただし、中国や韓国では数え年ですから11年という立運はありえます。しかし満年齢を採用している場合には11年ということは本来ないはずです。しかし、実際には10年以上の立運を採用している書もあるようです。それは大運の立運を、節入り日からの日数を単純に3で割っているからです。
 実は夏月は30日以上あり、実際午月は約31.4日あります。それを単純に3で割れば10.4年ということになります。太陽は、夏は1日に0.96度程度しか進みませんから、30度の角度進むのに31.4日かかるというわけです。

 それではどういう計算をすればいいのでしょうか。それは、節入り日から誕生日までの太陽の進む角度を求めて、それを3で割れば立運の年数が計算できます。
 例えば、2008年6月30日の太陽の黄経は98.5度です。節入り日は6月5日でそのときの黄経は75度ですから、差の23.5度を3で割ると、7.83となります。すなわち立運(逆運の場合)は7.8年ということになります。これを単純に日数でやると、26日を3で割って8.7年となり、その開きは1年近くになります。

 これを回避するには、その時間の太陽黄経を知ればいいのですが、普通の暦には太陽黄経などは書いておらず、節入り日(二十四節気)ぐらいしか書かれていません。もし日数を使うなら節入り日からの日数を少ない方を計算に使うというのすすめます。すなわち、6月30日の場合は6月の節入り日を使うのではなく、7月の節入り日、7月7日を使うということです。この場合は8日あり、それを3で割って2.7年を順運の場合の立運とし、10から2.7を引いた7.3年を逆運の立運とするわけです。こうすれば角度との差は半年以下に縮まります。

 と、ここまで書いてきて言うのも何ですが、実は私は大運(立運)を厳密に計算することはあまり意味がないと思っています。人間の運命なんて数日でドラスティックに変わるわけではありませんし、過去の影響を引きずって生きているわけですから。だから四捨五入でいいと考えているわけです。ですから、ここでの話はあくまでも理屈であり、実用上は太陽黄経にこだわるのは意味のない話であります。こういうと身も蓋もないですが。
 しかしながら、10年を超える立運を出すのは「ちょっと違うんじゃない?」と思います。もとになった考え方をはっきりさせることは大事なんじゃないかと思います。



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