「命理正宗」格局解説 抄訳その11

年上官星格、従化格、夾丘拱財格、歳徳扶殺格、専財格


はじめに

 その11ということで、年時上官星格、従化格、夾丘拱財格、歳徳扶殺格、専財格を訳します。



年時上官星格

 楠曰く、
 年時上官星格とは、弱い官星が喜神であるのは多くは貴であり、財が官を生じることを喜ぶ。あるいは年上日支下にある場合もこの格とする。ただ月上正官はこれを用いるべき理屈がない。この理論については、以下にあげる時上官星の類をみてみると、もともと官星は弱く、傷官の剋をもっともおそれる。時上財庫格というのは、たとえば壬癸日で戌時であるときである。もし癸日でまた時上財官格であるときは、だいたいは虚財を喜び、行運で旺じれば富貴となる。
 纂要歌に曰く、
 年上官星は歳徳として、財に逢い印が身宮を強めるのを喜び、七殺が官位に居るのに逢わなければ、富貴栄華は石崇(昔の大金持ち)にも匹敵する。
 少し意味がわかりにくいと思いますが、要するに財官があって弱いときにそれを強めれば富貴だということでしょう。なぜ月上正官は用いるべき理屈がない(原文は、但月上正官、世無可用之理)かという説明はなく、ここはよくわかりません。月上にあると官が虚でなく強すぎるということでしょうか。
 特別に格として取り上げる必要があるのかは疑問です。
 以下に3つの例が挙げられますが、これは格局命式例集のところで取り上げることにします。



従化格

 楠曰く、
 従化格とは、書には化を得て従を得るとあり、功名をあげるとある。ただし、六陰日主の場合、身弱の方が多く従化となり、多くは富貴をつかさどる。例えば乙日で庚辰時生まれの場合、地支に巳酉丑がそろったり、辰戌丑未の四字が多かったりすれば、また乙庚が金と化して、西方運に行けば富貴は疑いない。ひとたび丙丁運にあえば、金を破り即ち死す。以下に説くように、従化格類については、六陽日干の場合は従化にならない。
 化するかどうかについては、術者のあいだでも多くの考え方があります。ここでは、地支において、化する五行と同じまたは生ずる五行が強ければ、化するとしています。例であれば、乙庚が金化するのは、地支が金局をなすとか、土支が多い場合ということです。この辺は術者によっては異論があるでしょうが、とりあえずはそのまま訳しています。

 格解にいう、
 十干化合論は、淵海子平の十段錦を参考にせよ。
 賦にいう、
 古人が命式について論ずるに、まず従化するかどうかをみて、従化しなければ、財官を論ずる。財官が取れなければ、格局をみる。もし従化が局を成せば、それは富貴が備わっているとみる。
従化というのがすべて富貴かどうかは異論のあるところです。ただ、まず従化をみるというのは、そのとおりでしょう。
 甲己は化土従木、乙庚は化金従火、戊癸は化火従水、丁壬は化木従火、丙辛は化水従火である。
 化格についてみると、真の化格は高位に就くが、仮の化格は、孤児異姓である。龍に逢えば即ち化する。飛龍は天にあり、大人を見るに利有り。(以下の従化の例は省略)
最後の句は、易経の九五の部分です。気が同じならば感応するということからこの句が挿入されたものと思います。詳しくは易経の解説書を見てください。
 四言独歩にいう、
 十干の化神は、影があって形がない、無の中から有を生じ、禍福は憑き難い。このことは、化合はもっぱら頼ることができないということである。
 元理賦にいう、
 不化不従は、昇進が止まっている人であり、得化得従は功名のあらわれている人である。化がなり禄旺であれば生、化がなり禄絶であれば死である。この言の化合は参考にすること。
 補して曰く、
 化がなるという命式で、木局の行運を要して、禄旺であればすなわち発するというのは、たとえば丁壬化木で、月令が喜神の寅で、あるいは東南の行運では発福するということである。その他の例もこれにならう。化がなるという命式で、最も恐れるのは禄馬が衰絶の地に行くことである。例えば戊癸化火で、水の行運に行くこと、丁壬化木で、金の行運に行くことである。軽ければ職を罷免されるし、重ければ生命を失う。金局がなくとももし辰戌丑があって多く金を生ずれば、またこの格にいれる。
 化格というのを整理してみますと、一般には化格はその五行が強くなりますから、従旺強格と同じようにみて、その化する五行を強める五行が喜神ということになります。例えば、丁壬の化木格の場合、地支に木が多い場合に化するわけですから、天干地支ともに木が多く、木をより強める水木が喜神ということになります。
 例は、格局命式例集のところで取り上げることにします。



夾丘拱財格

 楠曰く、
 夾丘拱財格は、ただ癸酉日癸亥時、甲寅日甲子時の場合をいう。癸酉日は酉と亥の間に戌をはさみ戌中には丁火と戊土があって財官となる。酉と亥の間に戌がとどまり、どこかに行ってしまうことはできない。甲寅の場合は、寅と子の間に丑があり、丑中に財官がある。寅と子に丑がはさまれてとどまり、どこかに行ってしまうことはできない。もし日時が冲刑されれば挟むことはできない。また地支に子が多ければ、挟むことは堅固となる。他の日干ではこの格は成立しない。
 格解引詩に曰く、
 己卯が己巳時に逢い、黒鶏が水猪に遇うを得て奇、金馬木猿相見た後、夾丘財庫は福相随する。
 黒鶏とは癸酉です。黒は玄武で水を示します。あとは簡単でしょう。
 旧注にいう、己卯日己巳時は辰を挟み、水庫を財とする。癸酉日癸亥時は戌をはさみ火庫を財とする。庚午日甲申時は未をはさみ木庫を財とする。拱禄格に似ているが、虚位を填実する必要はない。月時の冲を恐れ、あるいは日干を冲する七殺を恐れる。
 ここは月時というより日時だと思います。
 虚位を填実する必要がないとは、間に来るべき支(辰、戌、未)が表立って存在しなくてよいという意味です。
 補して曰く、
 財は空亡を恐れる。戌亥は甲子旬中の空亡であり、癸酉は甲子旬の中の日干支である。空亡の財庫をはさむのは難しい。前に既に拱貴はとれないと論じたが、これもどうして拱財することができようか。ある人はいう、拱禄は天乙貴人を挟むことである。しかし辰戌はいわば辺鄙悪弱の地であるから、天乙貴人にはならない。これを貴人を挟むとは、ますますわけがわからない。庚午日甲申時は財支をはさんでしかも干は相剋である。これは牽強付会であり、ゆえに淵源詩歌ではもともとこの拱財格はない。
 後半の話は、ちょっとすんなり理解できないですね。癸酉の拱財戌は空亡だとわざわざ言っているんですから。甲寅日だって丑は空亡でしょう。
 私は、再三言いますが、こういう挟んだだけで表に出てきていない支を論ずることは意味がなく、つまりはこのような格は考えなくてよいという立場です。



歳徳扶殺格

 楠曰く、
 歳徳扶殺格とは、日主が健旺で、年歳上に七殺が透出している場合、あるいは仮のこの殺が多い場合に、これを権威とする。四柱八字で、年上の官殺は一年をつかさどり、この殺は日時とは違うものである。もし年柱の天干地支にともに殺があって、さらに時日に殺があれば、多くは殺重身軽として、殺を制する行運がよい。もし年上の殺が軽ければ、また殺が強い行運がよい。軽重はいろいろで人によりその都度考える。
 補して曰く、
 まず歳徳扶殺というのは、淵海注にいわく、甲日庚年がこれである。年というのは君の位であり、日というのは臣下の位である。臣下は君の権威を得る。また年は祖先であり日は自分である。年の殺が制せられれば、祖先はかつて要職に就いていたとする。
 纂要歌に曰く、
 年上偏官は歳殺とし、食神印綬があれば福は興隆、官星財旺の地に会わなければ、官職に就き前途は開ける。
 古歌に曰く、
 歳徳で壬日で戊年であって、財が旺じ身強であれば禄は自ずからついてくる。更に運で財の強い行運にいけば、文章が上手く聡明でしかも忠実である。
 扶殺格を問えば、格解に所収する詩歌では、命式や行運で財旺殺を生じるのを喜ぶとある。纂要の所載では食神印綬が殺を制するを喜ぶとある。化殺格も同じ。しかしてこの違いは何であろうか?だいたい身強で殺に根がなければ、財旺生殺を喜び、制はよくない。ゆえにはじめから鬼軽を犯すといい、制はかえってよくない。身弱で殺に根があれば、食印が化するのを制するのを喜び、財が生ずるのはよくない。ゆえに、殺旺で制があるのはかえって貴の本となり、両者にはそれぞれよいという理由がある。論ずる者はまさに軽重を比較検討し、詩を説く者は、貴は思ったようにはならない。
このの部分の原文は「貴以意逆志」で、このように訳したのですが、誤訳かもしれません。
 淵海注に曰く、
 例えば甲日生まれで戊己年生まれであればこれである。もし財が命式にあって気が有れば、すなわち主にその人は家業に継ぐことになり、身弱ならば代々の家業(や土地)から離れることになる。故にいわく、年上財官は富貴の家に生まれ、必ず身旺でなければならない、というのはこれに当たるといえる。
 要するに年干に官殺がある場合、官殺が喜神であればそれを助け、忌神であれば抑えるというわけです。あえて独立した格とする必要はないように思います。



専財格

 纂要にいう、
 もし甲日で己巳時に生まれれば、これを専財格という。最も財官が旺じるのを喜び、福を発し貴を発する。比劫が財官を分け奪うのはよくない。
 故に歌に曰く、日時秀気は最も尋ねがたい、甲日巳時は福が集まり、ただ比肩が分けて奪い去るのを恐れる。資財成敗は侵さず。これは即ち時馬格と理屈は同じである。もし庚辛日生まれで寅卯時であれば、また壬癸日生まれで巳午時、丙丁日生まれで申酉時、戊己日生まれで亥子時、もまたみな専財格である。格解が所収する古歌でも、纂要と言葉は違うが意味は同じである。ただし所収の旧注は牽強であるので従ってはならない。
 旧注が何を言っているのか知りませんので、何が牽強なのかはわかりません。が、専財格自体も、生日と生時だけで判断するのは危険です。とはいえ、一般に財が喜神の場合には比劫を恐れるというのは、正しい理屈です。格として独立すべきかは議論のあるところでしょうが、時支が財で喜神だという条件付きなら格として捉えていいかもしれません。



訳者のあとがき

 このへんになると怪しい格が多くなりますが、さらに怪しい格が続きます。ただ、格として独立させるかどうかは別として、言っている内容そのものは、だいたいは理屈にあっていると思います。
 さらに翻訳は続きます。


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