「わたしたちのよみがえり」 コリントT 一五章一二ー二八節

 聖霊を受けた弟子達の宣教の言葉は、「十字架で死んだイエスを神がよみがえらせた」ということであります。ペテロの説教がそうでした。「あなたがたは律法わ知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったからです」というのです。そして最後に「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはならない。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」ということでした。それ聞いて人々は心を打たれ、悔い改め、イエスの名による洗礼を受けたというのです。

 使徒言行録をみますと、弟子達の宣教の言葉の中心は、「十字架で死んだイエスを神がよみがえらせた」ということであります。それを聞いて人々は、心打たれ、悔い改め、救われたというのです。ここでは、「あなたがたも神を信じたら、死んでもよみがえるのだ」ということはひとことも言われていないのです。もっぱら、ただイエスのよみがえりだけが宣教され、それによって人々が救われていったということは、考えてみれば、大変不思議なことではないでしょうか。

 イエスがよみがえったという信仰と、われわれがよみがえるのだという信仰が芽生えてくるのは、少し時間的にずれがあったのではないか。使徒言行録を見る限りは、弟子達の宣教の言葉には、イエスのよみがえりの言葉はあっても、われわれ人間のよみがえりのことにはふれていないのであります。

 使徒言行録は、後半はパウロの活躍が中心になりますが、そのパウロの説教でもそのことは言えるのであります。使徒言行録には、パウロがアンティオキアでした説教が載っておりますが、そこでも十二弟子の説教と同じ内容で、「神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださった」といって、詩編の言葉を引用して、「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことは」聖書が預言しているというのです。そして「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」なっております。

 そのパウロがアテネで説教したときには、「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」というのです。そうすると、アテネの人々は死者の復活のことを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」といって去っていったというのです。

 その後にパウロはエルサレムで迫害にあって捕らえられて、最高法院の議員たちの前で弁明させられたときに、そこにファリサイ派の人々とサドカイ派の人々がいたので、彼らの間に分裂を起こそうとしてこういうのです。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」というところがでてまいります。れはユダヤ人の中でもサドカイ派の人々は、死人のよみがえりを信じない、しかしファリサイ派の人々は死者の復活を信じていたからであります。

 それはともかく、ここでパウロが「死者が復活するという望みを抱いている事で裁判にかけられている」というときに、これは単にイエスの復活だけのことをいっているのか、イエスの復活によって、われわれもまた死からよみがえるのだという望みが与えられたということにまで含んでいるのか、はっきりしませんが、しかしここにきて、パウロのなかに、あるいは初代教会のなかに、イエスのよみがえりを信じることによって、われわれもまたよみがえるという信仰、死者が復活するという望み、が芽生えてきたと考えてもいいのではないかと思います。

 しかし、それにしても、弟子達の最初の宣教の中心は、十字架にかけられて死んだイエスを神がよみがえらせたということで、われわれ人間のよみがえりについてはひとことも言及されていなかったということ、そしてそれを聞いて人々は心打たれ、悔い改め、救われていったということは、不思議なことだし、驚くべきことなのではないか。

 われわれはどうでしょうか。それを信じるかどうかは別として、われわれの最大の関心事は、わたしがよみがえるかどうかということではないか。わたしが死んでも生き返ることができる、死後の世界というものがなんらかの形で存在していて、死が最後の壁ではないことが信じられるようになる、それをなによりも願い、それが信じられて、救われるのではないか。

 イエスひとりの復活の事実を突きつけられ、イエスを神がよみがえらせたといわれ、たとえそれが本当のことであっても、それがどうしたのだとわれわれだったならば、いいたくなるのではないか。
 「わたし」は、どうなのかということが、われわれにとっての関心事なのではないか。それがなければ救いにはならないのではないか。

 しかし、初代教会の弟子達の宣教の内容の中心は、ただイエスを神がよみがえらせたということだけであった、それによって、人々は悔い改め、救われのであります。

 そういいますと、ヨハネによる福音書には、イエスの言葉として、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」という言葉があるではないかといわれるかもしれませんが、しかしヨハネによる福音書は、聖書のなかでは、一番あとで書かれた書物であります。

 ヨハネ福音書は、イエス・キリストの復活というのは、なんだったのかということが教会のなかで考え抜かれ、それが熟成していって、その考えをイエスの言葉として表現した福音書であることはあきらかであります。

 十字架で死んだイエスを神がよみがえらせたという宣教と、そのイエス・キリストを信じた時に、われわれもよみがえるのだという宣教との間には、時間的ずれがあったということ、そしてはじめは、人々は十字架で死んだイエスが復活したということを聞いただけで、心打たれ、悔い改め、救われたということは、深く考えさせられることであります。

 わたしの神学校時代に、神学生の一人が、自分はキリストの復活は信じることができるが、自分が死んでもよみがえるということは信じることができないといって、議論になったことがあったことを思いだします。それに対して、それはおかしい、パウロはキリストはわれわれの初穂となって死者の中からよみがえったのだと書いているのだから、われわれ自身のよみがえりを信じないのは聖書に反するといって議論したものであります。

 その神学生は大変謙虚な人で、というか、あまり自信のない性格の人で、恐らく彼はキリストの復活という奇跡を否定するのではなく、自分のような罪人がよみがえるなんてことは到底考えられない、信じられないということだったのでないかと思います。キリストは神の子であったし、罪を犯したことのない立派な人だから、復活ということがあっても不思議はないが、自分のような者がよみがえるなんてことは信じられないということのようでした。 

 イエスはよみがったという事実と、われわれ人間もよみがえるのだという信仰が芽生えてくるには、時間的ずれがあった、ある一定の時の経過が必要だったと思います。しかしそれは恐らくあっというまに、そのずれはなくなったのだと思います。それはイエスをよみがえらせたのは神であったという信仰が与えられたからであります。しかもあの十字架で殺されたイエス、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」といって、絶望して死んでいったいエス、そして完全に墓に葬られてしまったイエス、そのイエスを神がよみがえらせたのだという事実を受け入れたときに、弟子達の間にも、ただちに、あのイエスをよみがえらせたのが神なのであるなら、その神はわれわれも、罪に満ちたわれわれもまたよみがえらせてくださるに違いないという信仰が生まれたのであります。

 もしイエスがいわば自力でよみがえったのなら、それはイエスが神の子であったから、それができたのだろうという話で終わってしまったと思います。

 しかし、イエスをよみがえらせたのは、神だった。キイワードは、神であります。それはイエスが神の子であったからというのでもなく、イエスの功徳だったからでもなく、そうではなく、罪人のひとりに数えられたイエス、十字架にかけられて死んだイエスを神がよみがえらせたから、われわれもまた神がよみがえらせてくださるという信仰、あの自信のない神学生をもよみがえらせてくださるという信仰が与えられるのであります。

 しかし、今日、いや古代の人々にとっても、死人のよみがえりというのは、われわれ人間が一番願っていることにはちがいないけれど、死者の復活ということは、宣教のつまずきになっているのではないかと思います。それを宣教のもっとも重要なこととして、宣べ伝えるということは、キリスト教信仰を受け入れることができないつまずきになっているのではないか。

 もしキリスト教のなかに復活信仰というものがなかったならば、もっとわかりやすい、信じやすい、崇高な教えとして今日でも広まっていくのではないか。今日われわれにとっては、この復活信仰というのは、われわれが一番願っていることでありながら、それは信仰の障害になっているのではないか。
 
 しかし、パウロはこういいます。一九節、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中でもっとも惨めな者です」といいます。これも新共同訳はなんともはっきりしない訳になっていると思います。ここは口語訳では「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中でもっともあわれむべき存在となる」となっていて、ここで「単なる望みをいだいているだけ」と意訳することによって、「われわれがキリストにあって望みをもつのは、単なるこの地上の、この世だけの、われわれがこの地上に生きている間だけの望みではなく、この世を超えた世界に対しても望みをもっている、つまり死を超えた復活の望みを、キリストにあって与えられている」という意味をわれわれに伝えようとしているのであります。

 つまり新共同訳の訳を生かすならば、このほうが原文に忠実なわけですが、「だけで」という言葉を、「キリストに望みをかけているだけ」というように訳すのではなく、「この世の生活だけで」と、この世の生活のほうに、この「だけ」という言葉を関連させて、「この世の生活だけで、キリストに望みをかけているとすれば」というように訳にすべきだと思います。

 もし、キリスト教といものが、あのアテネの人々がパウロをあざ笑ったように、この世の生活の中だけでしか通用しないものであるならば、それは単なる思想とか哲学とか、もっとわるくいけば、単なる道徳訓、処世術になりさがってしまうと思います。

 二○節ではこういいます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることなるのです。」

 アダムとエバの話は神話であります。人間の罪はどこから来たのか、そしてそれによって死はどこから来たのかを考えて考え抜いて創られた神話であります。人間の罪はその人本人の心の中から出たともいえるし、いやそんな単純ものではなく、一人の人間の責任範囲を超えてそれは蛇のような存在、つまりは悪魔のような存在の誘いを受けて、つまりはそれは人間の外から起こったことだし、また単なる個人というひとりの人間の心の邪悪とかということよりも、人間の歴史が長い間にわたって培ってきた遺伝子のようなものが悪さをして、このどうしようもない罪の歴史があるのだと考えた人々によって創られていった神話であります。

 その罪を犯したアダムに対する神の罰が、死だったというのです。そしてその罪と死を神はひとりの人キリストの十字架と復活によって、解決してくださったのであります。キリストに罪を贖わせるために、十字架で見捨てて死なせ、その死を神がよみがえらせてくださって、そのようにして罪の赦しをわれわれに明らかにしてくださったのであります。

 ですから、自分のよみがえりは信じられないということは、罪の赦しは信じるけれど、自分のよみがえりは信じないということになってしまう。われわれがもし罪の赦しは信じるけれど、自分のよみがえりは信じられないとすれば、それは罪の赦しを信じたことにはならないのではないかと思います。

 というのは、罪の赦しとは、罪はわれわれ人間の力では、われわれがどんなに悔い改めようと、再び罪を犯してしまう弱い存在で、到底自分の力では罪を克服できない、罪はただ神によって赦していただく以外に解決のしようがなかったということす。つまり、罪の赦しで一番大事なことは、神が赦してくださったということなのです。

 そしてその赦しは、あの罪を犯したアダムに科せられた死という罰を神が赦し、神がその死を突破してくださった、神はわれわれの罪をそれほどまでに徹底して赦してくださったということ、それが復活という出来事だったからであります。それが復活信仰なのであります。
 ですから、罪の赦しは信じるけれど、復活は信じないということは、神を信じないということなのです。それではひとつも罪の赦しを信じたことにはならないのであります。

 ですから、復活は信じないけれど、罪の赦しは信じるという時には、その罪の赦しは神によって罪赦されたという信仰ではなく、なにか偉い人からお前の罪を赦してあげようという言葉を聞いたということだけに終わるのかもしれないと思います。あるいは、自分が悔い改めて、自力で自分の罪を赦すようになったと言うことだけかも知れないのです。

 その復活信仰というのは、われわれが罪赦されてもう死なないのだという信仰ではないのです。ヨハネによる福音書では、キリストが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」といわれたあと、「生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」と続きますが、これは言葉では「決して死ぬことはない」といわれていますが、ここでいいたいことは、その前半の言葉、「わたしを信じる者は死んでも生きる」ということの言い換えであり、それをさらに強めた言葉であります。なぜなら、これはラザロという死んでしまった若者をキリストがよみがえらせるという中でいわれた言葉だからであります。

 われわれはキリストを信じても死ぬのです。復活信仰というのは、死なない信仰ではないのです。死んでも生かされる、いや、死んでも生かしてくださる神がおられるという信仰であります。ですから、われわれは死なないようにということにムキになって執着する必要はないのです。何が何でも延命措置をしなくてはならないというような生き方をする必要はないのです。

 ある人が言っておりましたが、われわれ現代人は、「あきらめ」というのを忘れている。われわれはあきらめることを身につけなくてはならないという意味のことをいっておりましたが、これはクリスチャンの人でないひとがいっているのですが、それはわれわれクリスチャンにとっても同じだと思うのです。しかしわれわれの場合には、それは単なるあきらめではなく、神によって人間的なものをあきらめさせられて、そしてあらためて、神によって望みを与えられるということなのだと思うのです。

 ですから、単なるあきらめではなく、希望をもつということです。しかし、ある意味では、言葉は悪いですが、あきらめなのです。それが人間の謙虚さというものだと思うのです。死を前にしてあきらめるということがどうしても必要なのです。死なないということに執着してはならないのです。

 あきらめるという人間の謙虚さが必要だと思うのです。そのときに、われわれがあきらめたときに、向こうから神によって希望の光があたえられてくるのではないか。

 罪を犯したアダムに死という罰が与えられたという神話は、本当に不思議な話であります。死という罰が与えられたということは、これは単なる罰ではなく、死という罰を与えられることによって、ああ、人間は土の器にすぎない、塵から創られた存在だから、ちりに帰ろうという謙虚さが与えられる、そして神の前にひれ伏せられる、神を崇める道が死によって与えられる、だから、この死という罰は単なる罰ではなく、救いの道なのです。恵みだったのです。

 われわれは死ぬときに一番信仰的になるのではないかと思うのです。われわれは死ぬときに、自分が死ぬときに、そして自分の愛する者が死ぬときに、そのときにはじめて真剣に神に祈り、神を信じるようになるのではないかと思うのです。そうして最後には、その死を神に委ねるのです。

 死後の世界のことは本当はよくはわからないのです。ある意味ではどうでもいいのです。ただその死を、死後の世界のことを神に委ねるのです。それが復活を信じるということです。

 福音書には、復活などはあり得ないということを主張していたサドカイ派の人々が、その証拠として、この地上で何回も再婚した人は天国にいったとしたら、誰の奥さんになるのですかと笑い話のような屁理屈をイエスにぶつけた時に、イエスは「天国においては、もはやめとったり嫁いだりことはない」といって、死後の世界のことをこの地上の秩序であれこれ身勝手な想像をたくましくするなと戒めるのです。そしてそのあと、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というのです。

 そしてルカによる福音書だけは、そのあと、「人はみな神に生きるものだからである」と付け加えているのです。これは口語訳聖書でそうなっているのですが、新共同訳では「すべての人はみな神によって生きているからである」という訳になっております。
 しかし原文をみたら、口語訳のほうが正しいのです。ただそれでは意味があまりはっきりしないので、いろんな聖書が苦心して訳しているのです。
 しかし、わたしは口語訳の「人はみな神に生きるものだからだ」という直訳はなかなか味のある訳で、このほうがいいと思います。
 
 死後の世界のことはわれわれには本当のところはよくわからないのです。ただ言えることは、人はみな神に生きるものだ、神のみに顔を向けて生きるようになるのだということであります。
 
 二三節からのところは、この次学びたいと思いますが、その最後の結びの言葉、二八節の最後「神がすべてにおいてすべてとなられるためである」という言葉を読んで終わりたいと思います。