「神の勝利」 コリントT 一五章二○ー三四節

 「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とパウロはいいます。そして、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と続きます。

 この「すべての人」とは、本当にすべての人なのでしょうか。つまりキリストを信じないで、福音を受け入れないで、あるいは、福音を知らないで死んだ人のことも含まれるのでしょうか。「すべての人」というのですから、それらの人も当然入るはずです。死がすべての人に及ぼすのならば、キリストの復活がすべての人に及ぼすのは当然でなければならない筈であります。

 同じ事をパウロはローマの信徒への手紙では、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊に注がれるのです」といっております。ここでは、残念ながら、「すべての人」ではなく、「多くの人」となっていて、なにか後退している感じをうけますが、しかしアダムという一人の人の罪が多くの人が死ぬことになったという時、死を免れない人はひとりもいないわけですから、ここでいわれている「多くの」ということは、「すべて」ということと同じであります。

 そしてパウロは、そこでは「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」といっているのですから、もしアダムの罪がすべての人に死をもたらすのならば、一人の人イエス・キリストの復活がすべての人に及ぼさない筈はないのです。

 クリスチャンでない人にも、キリストの恵みは及ぶのだろうか、洗礼をうけてない人にも、死からのよみがえりがあり、天国にいけるのだろうか。この事は異教の地であるわれわれ日本人には重大な問題であります。家族のなかにクリスチャンでない人が多くいるわれわれにとって、このことは重大な関心事であります。
 
 パウロは二九節で「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ、死者のために洗礼など受けるのですか」といっております。
 「死者のための洗礼」とは何か。これについての解釈は二百通りあるのだそうです。二百通りというのは、もちろく大げさでしょうが、それくらいこの解釈はむずかしいということです。二、三の例を紹介しますと、これは殉教者の墓の上で、洗礼が施されたのではないかという意味だという説があるそうです。しかしこの時はまだキリスト教の迫害はそれほど激しくはないから、殉教者の墓と言ってもそれほどあるわけではないだろうということです。
 あるいは、教会員が死んでその空席をうめるために洗礼を受ける人のことだという説もあるそうです。あるいは、死者に対する尊敬と愛情から洗礼を受ける人のことだという説もある。

 しかし、そのなかでも妥当な解釈は、洗礼を受けないで死んだ人、まだ求道中で、洗礼を受けるまでにいたらないで、その途中で死んでしまった人のためにその人の身代わりに洗礼を受けるということがあったのではいなかということであります。あるいは、すでにもう息を引き取ってしまって死んでしまった人だけど、つまり、お棺に入れる前に、その死者に洗礼を施すということがあったのではないかということであります。

 パウロはそれに対して、それがいいとか悪いとかはいっていないで、いや、やはり、これは少し馬鹿げたことだという思いをパウロはもっていたのかもしれません、それでわざわざその極端な例をもちだして、そこまで洗礼を施して、死者を葬ろうとするのは、なによりも死者の復活というものがあるからではないかと言おうとしているのではないかと思います。

死者のためのバプテスマというのは、これはやはりバプテスマというものを一種の迷信化していることで、やがてそうしたことは教会では行われなくなりました。

 こうしたことの背後には、二つのことがあると思います。一つは死者の復活というものがあると信じているから、そうするということ、もう一つはその死者の復活ということは、洗礼を受けたクリスチャンだけに起こるのではないかという恐れから、洗礼を受けないで死んでしまった人が可哀想だというわけで、あわててそういう洗礼が施されたのではないかということであります。

 それでは、もとにもどって、洗礼を受けないで死んだ人はどうなるのか、よみがえらないのか、天国にいけないのか、永遠に救われないで、滅びの世界に捨てられてしまうのか。

 これは家族に、あるいは親しい人のなかにクリスチャンでない人を沢山もっているわれわれ日本人には深刻な問題であります。信仰というものが、ただこの世だけの問題で、この世を生きる一種の思想とか哲学とか、高尚な処世術のようなものだったならば、そうしたことはなんの問題にもなりませんが、つまり自分だけ信じていればいいということになるわけですが、しかしここでは、死んだ者は最後には神によって生かされるんだ、よみがえらされるのだといわれていて、そのことを信じなければ、クリスチャンはもっとも惨めな存在だと言われているのですから、自分だけがよみがえって、俗にいえば、自分だけが天国にいって、家族の者が天国いけないということは大変深刻な問題であります。

 パウロは、キリストによつてすべての人が、すべての人です、多くの人ではないのです、アダムによってすべての人が死んだように、つまり死なない人はひとりもいないわけですから、そのすべての人がキリストによって生かされることになるといっているのです。この全ての人のなかには、とうぜんクリスチャンでない人も含まれている筈であります。

 そのあと、ただ順序があるといいます。最初にキリスト、ついでキリストが来られた時に、キリストに属している人たち、つまりクリスチャンであります。その次にそれでは、クリスチャンでない人とくるのかと思いましたら、パウロはそうはいわないで、二四節で、「ついで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」と続けるのです。
 もうまるで順序のことなど忘れてしまっているのです。
 つまり、ある人が言っておりますが、ここでは、順序のことが問題ではなく、よみがえる順序のことをいうのではなく、順序のことを語っていて、その順序のゆきつくところ、よみがえると言うことの目的を記しているのだというのです。

 われわれは、いつもわれわれの関心事は、自分はよみがえるのか、自分の親しい人はよみがえるのか、そういう自分が天国にいけるのかどうかということばかりに関心がいっておりますけれど、一番大事なことは、なんのためのよみがえりかということなのであります。

 われわれがよみがえる目的は、それは二三節にありますように、神がすべてにおいてすべてとなられるためだというのです。

 「すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡す」、この「すべての権威や勢力」というのは、サタンのことであります。サタン的な勢力のことであります。そして最後の敵として滅ぼされるのが死だというです。

 サタン的な勢力、悪魔は、いつもわれわれを死をもって脅かしたり、誘惑するわけです。死んだら終わりだ、だからこの世の生活をできる限り、面白楽しく過ごせばいい、なんといっても、お金が大事だといって誘惑する。真理とか信仰などというのも、結局は死んだら終わりなのだから、殉教の死をとげようなどと思うなといって誘惑したり、脅かせて、転向を迫るのであります。

 悪魔と罪は、いつも死をもってわれわれを脅かし、誘惑するのであります。神はその死を滅ぼしてくださるというのです。そして死が滅ぼされた後は、何が残るのか、神が神としてはっきりと崇められる時がくるというのです。

 パウロは、この世でキリストを信じない人は死んだあと、どうなるのか、クリスチャンでない人が死んだときには、その人はよみがえらないのか、というわれわれの深刻な問題には直接答えないで、神の勝利について語るのであります。
 われわれをおびやかす権威と勢力、それはその背後に死の恐怖があります、死んだあとに地獄で滅ばされるのではないかという死の恐怖、そういう恐怖が滅ぼされて神が勝利するのだというのです。

 神が勝利する、そのことを、この世で信仰をもてないで、もたないで死んでいった人たちに対してもわからせていただく、それがわれわれクリスチャンにとって、最大の慰めになるのではないか。われわれが福音を伝えられなかった人に対しても、最後のときには、それをわからせてくれることを信じられるからであります。

 キリストはわれわれの初穂としてよみがえってくださった。神はのあ十字架で死に、そして陰府の世界にまでくだったキリストをその陰府の世界からよみがえらせてくださった、そうであるならば、もうわれわれには、陰府の世界はないのです。地獄とか、煉獄とか、そういう悪の権威、勢力がふるう場所は一掃されたのであります。それがわれわれクリスチャンにとってのよみがえりであり、クリスチャンでない人にとってものよみがえりであります。

 もしよみがえった後の世界、つまり天国という世界が、この地上の単なる延長であるならば、それがたとえ、この世でのいいことばかり、楽しいことばかりが集大成されて、それが天国に持ち込まれ、それが天国であったとしたら、それはやがて退屈してくるのではないか、そして天国においても、そのうちに再び、人間の欲望が猛威をふるいだすのではないか。

 天国とは、神がすべてのものにあって、すべてとなってくださるところなのだ、ということであります。
 
 本当をいえば、聖書は天国について、あるいは終末の後の世界についてそれ以上のことは言おうとはしないです。ヨハネの黙示録でも、新しい天と新しい地については、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人が神の民となる。神みずから人と共にいてその神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」といっているだけで、そこでも語られているのは、その新しい世界は神が中心になる世界だということだけであります。

 神がすべてにおいてすべてとなられる、それでは、結局はご主人さまが交代しただけで、われわれは再び権威と勢力の支配下におかれて、戦々恐々といきなくてはならないのではないかと思われるかもしれません。

 しかし、この世の権威や勢力を滅ぼしたのはキリストなのであります。そのキリストはすべての人の僕になるために、すべての人に仕えるために来られ、最後にはご自分を主張なさらずに、父なる神に従順に従い、ご自分の命を十字架の上で捧げたかたなのです。

 謙遜の限りをつくし、ご自分を低くしたキリストがすべてを支配なさるのであります。しかも最後には、そのキリストご自身も父なる神に服従さなるのだというのです。すべての敵を滅ぼし、ご自分の足の下においたキリストは、暴君として君臨するのではない、ご自分もまた父なる神の前にひれ伏すかたなのだというのです。そして父なる神もまたそのキリストの謙遜を心から喜び、よしとし、高くひきあげ、あらゆる名にまさる名を与えたかたなのです。そうであるならば、この父なる神が暴君になる筈はないのであります。

 少し理屈ぽくなりますが、この父なる神はキリストと同じ三位一体の神だというのが教会の告白であります。父なる神はこのキリストの謙遜と全く同じ謙遜さをもって、われわれにとってすべてとなられというのですから、この世の、悪魔的な権威と勢力とは全くちがう支配者であることは明かであります。服従させる者がみずから服従することのできるかただからであります。

 聖書の信仰は、万人救済なのか、クリスチャンもクリスチャンでない人も、すべての人が救われるのか、ということは、キリスト教教理のなかでもいろいろと議論があるところであります。しかし、このコリント人の信徒の手紙の今日のテキストを見る限りは、「神がすべてにおいて、すべてになられるためだ」というのですから、当然すべての人が救われる、万人救済ということを信じていいし、信じなくてはならないと思います。

 しかし、ここでパウロがそのことを述べるときに、キリストに属さない人、つまりクリスチャンでない人もよみがえるとか救われるとかは、直接いわないで、すべての人がキリストの支配下のもとに服するのだという表現で、そのことをいっていることに注意したいと思います。

 つまり直ちにすべての人が救われるというのではなく、まずすべての人がキリストの支配下のもとに服するのだ、言葉を換えて言えば、キリストの裁きに服するのだということであります。ここでは、救われるという言葉ではなく、服従させられる、という言葉で、われわれの救いについて表現されているということなのであります。

 われわれクリスチャンはこの地上での生活で、神がすべてになってくださることの喜びと慰めを知っておりますが、まだそのことを知らない人に対しては、神はまずそのことを知らしめて、そのようにしてその人を救うのだということであります。
 ですから、万人救済ということは、甘い言葉ではなく、われわれクリスチャンにとっても、それはすべての人が神の前に服し、神の前で裁かれることを通しての救いなのだということを知っておりますから、それはパウロの言葉をかりていえば、「火の中をくぐってきた者のように、救われる、全身やけどだらけかもしれないけれど、しかし救われる」という信仰の確信をもつということですから、決して甘い救いではないのです。

 パウロは、この神によるよみがえりを信じているから、三○節から、自分はいつも死の危険、殉教の迫害のなかで、この福音を伝えているのだというのであります。死を恐れないで生きることができるのだというのです。復活信仰というものがどんなに力強い信仰かということであります