「キリストの愛に迫られて」 コリントU五章一一ー一五節

 パウロはコリント教会の人々に再び自分が神から遣わされた伝道者であることを証しようとするのであります。それは決して自己推薦しようとするのではないのだといいながら、内容的にはまぎれもない自己推薦であります。

 一一節「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは神にはありのままに知られています。わたしはあなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦しようというのではない。ただ内面ではなく、外面を誇っている人々応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しようとしているだけだ」というのです。

 ここではパウロはしきりに、自己推薦しようとするのではないといいながら、結局のところは自己推薦を繰り返しているのであります。そしてそれはなにも恥じる必要はないのであります。別に誇大広告するわけではなく、神の前にありのままに知られているように、あなたがたにもありのままに知られたいというだけのことだからであります。

 そして彼はこういいます。「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」。

 パウロは伝道するときに、まわりの者からみれば、正気でないように見えたのではないかと思われます。ここは口語訳のほうがいいと思います。「もしわたしたちが気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである」。

 主イエスも人々からは気が狂っているように見えたこともあったようであります。特にイエスの親兄弟からは、気が狂っているのではないと思われて、彼らはイエスをとりおさえにきたというところがあります。

 神のために気が狂う、神のこの自分に注がれている愛を思ったら、気が狂うほどに神に感謝したくなる、神を賛美したくなる、それが信仰者というものではないか。そういうことが一度もない人は信仰者といえるだろうか。もちろん、そんな心境に立つのはしょっちゅうではないと思います。そしてまたそれを人にみせるような形で表現するわけではないと思います。しかし心の中であったとしても、生涯に一度でもそのように神に対して熱い思いをもったことのないという人はいないのではないでしょうか。信仰者であるならば、なにも伝道者でなくても、信仰者であるならば、生涯に一度はそういう時をもつのではないでしょうか。

 あのイスラエルの王ダビデがそうでした。ダビデはさんざん苦労した末にようやくイスラエルの王となったときに、彼がまず第一にしたことは、それまで敵の手に奪われていた神の箱をこれから自分が政治を行うエルサレムの町に運び入れることができたときに、それを牛がひく台車にのせて運び込むときに、王みずからその列に加わり、そして裸同然の姿をして踊ったというのです。

 「ダビデは主の前で力の限り踊った」と聖書は記すのであります。しかし、彼の妻ミカルは窓からそれを見下ろして、心のうちに夫であるダビデをさげすんだ。そして夫が帰ったきたときに、妻はこういうのです。「今日イスラエル王はご立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になったのですから。空っぽの男が恥ずかしくもなく裸になるようなことをしたのですから」と皮肉のです。
 するとダビデはこういいます。「そうだ、お前の父やその家の誰でもなく、このわたしを選んで主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前で踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者になろう。しかしお前のいうはしためたちからは敬われるだろう」というのです。

 そして聖書はそのあと、恐ろしいことを記します。これ以降ダビデと妻ミカルとの間には死ぬ日まで、子供がなかったというのです。夫婦の関係が破綻したと記すのであります。

 自分を愛し、そして救ってくれた神の前に気の狂わんばかりに踊ることがなくて、どうして信仰者といえるのかということであります。実際に踊る踊らないは別にして、われわれもまた聖日ごとの礼拝においてそのような熱い思いをもって讃美歌を歌い、心の中で祈るのではないでしょうか。そのために聖日ごとの礼拝というものがあるのではないか。

 そしてそのあと、パウロはこういいます。「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためである」といいます。「正気であるなら、あなたがたのためだ」という。

 このことも伝道者には大切なことだ思います。どんなに神の前に気が狂ったようになったとしても、それをそのまま引きずってというか、持ち込んで伝道するのは危険であります。しばしばそういう伝道者とか牧師がおりますが、それは危険なことだと思います。

 感情というもの、あるいは、感動とというものは、大変個性的なもので、すべての人にそのまま伝わるとは限らないし、伝わったとしてもそれはなにか催眠術にかけるようにして、人を導くことになるからであります。

 伝道というのは、人を洗脳することでもないし、人を催眠術にかけることではない、あるいは自分の感動を人に押しつけることでもないのです。神の言葉を伝えることだからであります。

 言葉を伝えるときには、やはり冷静でなくてはならない、狂ったままでは伝わらないし、正気でなくてはならないと思います。つまり自分の受けた感動を客観的に、客観化して語らなくてはならないと思います。自分の主観的なものはできるだけ排除しなくてはならないからであります。

 さらにパウロはこういいます。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」ここは口語訳では「なぜならキリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」となっています。
 ここに伝道者パウロの伝道の秘密があったといえると思います。

 彼はキリスト者を迫害して、キリスト者を捕らえようとして息を弾ませて、ダマスコ街道を走っていたときに、キリストの声を聞くのであります。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」。サウロというのは、パウロのヘブル人としての名前の呼び名であります。

 パウロは地に倒れた。「あなたはどなたですか」と言いますと、その声は「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えるのであります。そしてそのあと、主はそのパウロにこういいます「起きて、町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知られされる」。

 この時、パウロは一気にキリストの愛に触れたのではないかと思います。自分が迫害しているのは、なにもキリスト本人ではないのです。キリスト教徒なのです。それを今キリストご自身が自分が傷を受け、打たれ、処刑されるものとして、受け止めている、どんなにキリストがキリストを信じる者を愛しておられるかということであります。そこにパウロはキリストの深い愛を感じたと思います。

 そしてそのキリストを迫害しているパウロに対して、「わたしはお前が迫害しているイエスである」といわれたあと、そのパウロになんの非難もしないで、「起きて町に入れ、そうすればお前のなすべき事が知られる」といわれる、そして事実、主は突然の出来事のために目が見えなくなったパウロのためにアナニアという人を用意していたのであります。

 主は自分を叱ろうとも、裁こうともせず、ただちに、自分の犯した罪の償いの具体的な道を用意してくださったいたのであります。それは福音を宣べ伝える仕事を彼に与えたということであります。

 パウロはこのキリストの愛に駆り立てられ、迫られて、今福音の宣教に立っているのだというのです。

 ときどき、宗教を伝える者が人を脅かして宗教に入らせようといたします。信じないで死んだら、地獄行きだといって脅すのであります。信じないと祟りがあるといって脅すのであります。
 それはある種のキリスト教の一派もまたそのようにして伝道をさせているようであります。そしてその派の伝道は実に熱心であります。

 しかしパウロは脅しで伝道しているのではないのです。キリストの愛によって、キリストの愛に促されて、迫られて、伝道しているのだというのです。

 ここでは、ただキリストの愛を伝えるというのではないのです。キリストの愛に駆り立てられて、迫られてというのです。「迫られて」というのですから、そうせずにはおられないということ、そうしないと逆にいても立ってもいられないということです。そうせざるを得ないからそうするということであります。

 われわれは何かをするときに、自分がこう「したい」と思ってすると思います。しかし、ただ自分がこう「したい」という気持だけでは、弱いのではないかと思います。その「したい」という気持が、そう「せずにはおれない」という駆り立てるもの、迫るものがないとなかなか長続きしないのではないかと思います。

 本当の仕事というのは、いつでもただ自分がこう「したい」という気持だけではなく、その「したい」という思いの上に、「そうせざるを得ない」という促しが加わって、初めて本当の仕事というものができるのではないかと思います。

 パウロはそのようにして、キリストの愛に駆り立てられ、迫られて、伝道しているのだというのです。

 そしてパウロはそのようにキリストの愛に駆り立てられるということは、そのキリストのために自分が死ぬことだ、そしてそのキリストのために生きることだというのであります。

 一四節「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだのだ。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることになるのです」といいます。
 その聖書の句をそのまま讃美歌にしたものがあります。三三七番です。
「わが生けるは主にこそよれ、死ぬるも、わが益、また幸なり。富も知恵も、皆主のため、力もくらいもまた主のため。迫めも飢えもみな主のため。うれいも悩みもまた主のため。主のためには十字架をとり、よろこび勇みて、我はすすまん」と歌うのです。今日の礼拝でもよほどこの讃美歌を選ぼうかと思いましたが、わたしはこの讃美歌を選ぼうかとするときに、いつもやめてしまうのです。こんな讃美歌はとても恥ずかしくて歌えないからであります。これはわれわれの現状とあまりにもかけ離れすぎているという気がして歌えないのです。

 それならば、この聖書の言葉はどうなのでしょうか。これは伝道者にだけあてはまる言葉なのでしょうか。しかし、パウロは全ての人がそうだといっているのです。

 われわれはこの讃美歌で歌われているような生き方をしたら、確かにわれわれは自分自身のために生きるのではなく、自分自身は死ぬという生き方にはなると思います。しかし、それだけでキリストのために生きるということを証できるだろうか。ここでは、パウロは「自分のために死んでくださったキリスト」と言っているだけではなく、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために」と、復活したキリストのために、といっているのです。

 神はあの十字架で死んだイエスを死なせぱっなしにしたのではなく、よみがえらせた、そしてそのよみがえりをわれわれにも見せてくださったのです。それはなによりも望みを失っているわれわれをもう一度元気づけ、励まし、生かすためでありました。自分に死んだわれわれをもう一度本当に生かすために、神はイエスをよみがえらせ、神おひとりで知らん顔をしておられたのではなく、われわれにそのよみがえりを示してくださり、信じさせてくださったのであります。

 われわれがキリストのために生きるということはどういう生き方をしたらいいかということであります。

 イエスの話されたたとえ話に、死んだあとわれわれは羊と山羊にわけられると
いう話があります。われわれは羊のほうにわけられた人のことはよく知っていると思います。それは自分の目の前にたまたま飢えた人がいたときに、その人にパンを与えた、のどがかわいた人に水を与えた、旅をしている人に親切にも宿を貸してあげた、裸の人をみて着物をきせてあげた、病気の人を見舞ってあげた、獄に捕らわれているを訪ねてあげた人であります。この人々はひとつも主のためにそんなことはしていたわけではないのです。それをキリストは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのだ」といわれて、その人たちは羊の群れにいれられるのであります。

 一方山羊のほうにわけられた人はどんな人だったかといえば、キリストから「呪われた者どもよ、私から離れ去り、悪魔とその手下どものために用意されている永遠の火に焼かれろ」といわれてしまうのです。それは「お前達はわたしが飢えていたときに、食べさせず、のどが渇いていたときに、飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときに、牢にいたときに訪ねてくれなかった」といわれてしまうのです。するとそういわれた人々となんといったかといいますと、「主よ、いつあなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話しませんでしたか」というのです。つまり、自分たちは主のためならば、なんだってする用意があったというわけです。主のためならば、自分の命だって投げ出す用意があったというのです。
すると主はこういわれる。「この最も小さい者のひとりにしなかったのは、わたしにしてくれなかったことだ」。

 つまり、主のために生きるということは、なにも主のために、主のために、神のために、神のために、と四六時中意識して、そんなことを大上段に振りかざして生きることではないということであります。
 主イエス・キリストが愛しておられたいと小さい者に自分のできる親切をすること、あるいは、そのいと小さき者を躓かせないということ、それが主のために生きるということではないかと思います。

 先日、テレビでモーツアルトのレクイエムが演奏されていて、そこでは日本語で歌詞がでますので、改めて何が歌われているかが分かってその曲がいっそう感銘深く味会うことができるのですが、その一節で、合唱のところで、「思い出したまえ」というところで、主の憐れみによって、「われを羊の群れのなかにおき、山羊の群れより引き離し、おんみの右に立たしめたまえ」というところがあって、あの生きているときは、必ずしも品行方正な生活を送ったわけではないモーツアルト、自由奔放な楽しい生活を送ったモーツアルトが死を前にしてどのような心境であったかがわかって感銘を受けました。そこでは徹底して、ただ主の憐れみで自分を救ってくださいと歌うのです。

 主イエスがご自分が十字架で死ぬのだと弟子達に公言したあとも、弟子達はそのイエスの言葉に何も感じないでいたときに、そのことを恐らく伝え聞いたひとりの女が高価な香油をイエスの頭に注いだ女がおりました。弟子達はなんでそんなもったいないことをするのか、それを売って貧しい人に施しほうがいいのにと、非難したときに、イエスは、「この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだ。この女のしたことは福音が宣べ伝えられる時に全世界に伝えられる」といわれたのです。

 この女は別にイエスの葬りの用意をしてあげようとしたわけではないと思います。ただ自分がかつてこのイエスからあたたかい言葉をかけられ、本当に自分の罪の赦しを受けた、そのことが忘れられなくて、死ぬ前にその感謝の思いを捧げただけだと思います。それがくすしくも、主のためにしたことになった、主の葬りの用意をすることになったのであります。

 主のために生きるということは、何よりも、この女のように、自分が主によって罪を赦されたものであることを、人々に証することであります。そして罪赦された者として生きるということであります。それはなにも香油を高いお金で売って、貧しい人々に施すことではないのであります。

 そしてモーツアルトが最後に歌ったように、「自分はふさわしくない者だったけれど、あなたの憐れみによって、あなたの恵みによって、われを永遠の火に焼かれないように救いたまえ。われを羊の群れのなかにおき、山羊の群れよりひきはなし、おんみの右に立たしたまえ」と、歌うことです。ただただ、それを主の憐れみを信じて、そのように歌うことであります。それはどんなに主の福音の証になるか、それが主のために生きるということであります。