「霊の導きによって」 ガラテヤ書五章一六ー二六節

 パウロはこの手紙で、「われわれは律法によって義されるのではない、律法によって救われるのではない、何か善い行いをしたから救われるのではない、信仰によって義とされるのだ、信仰によってすくわれるのだ」と言ってきたのです。律法と対立するのは、信仰であるようにいってきたのです。

 しかし、一八節からは、霊の導きについて語りだすのであります。
「わたしが言いたいのは、こういうことだ。霊の導きに従って歩きなさい」。何かいきなり、聖霊の導きについて語りだすのであります。

 つまり、律法に対立するのは、信仰ではないのです、霊の導きだということなのです。聖霊の導き、そういうと何か大変わかりにくいので、言葉をかえていえば、神様の見えない働きと言い換えてもいいと思いますが、要するにわれわれを律法から解放し、われわれを真に生かすのは、信仰なんかではなく、神の霊の導きなのだというのです。
 
 聖霊の導き、それは決してなにか神秘的な体験をするとか、神秘的な霊によって動かされて生きるとか、そんなことではないのです。われわれを生かしてくれるのは、神の見えない働きがあるのだ、われわれの背後にいつもいつも神の働きがあるのだということであります。それを信じて歩んでいくのが、信仰によって生きるということなのです。

 ですから、律法主義から脱却し、解放されるためには、われわれの自分の信仰なんかではないのです。霊の導きなのです。

 われわれは律法の代わりに、信仰によって歩み出すのではないのです、律法の代わりにわれわれは霊の導きを信じて歩みだすのです。つまり、信仰によって義とされる、というときの「信仰」というのは、われわれの意識としての信仰、われわれの自覚としての信仰なんかではない、つまり、自分の信仰なんかではないということなのです。もしわれわれが自分の信仰で生きようとするならば、その信仰は再び自分の業としての信仰になってしまうのであります。そんな信仰ではたちまち行き詰まってしまうと思います。

 ですから、大事なのは、信仰ではない、自分の信仰ではない、といつもいつも自分の心に言い聞かせておかなくてはならないと思います。パウロは「不信心な者を義とするかたを信じる者は、その信仰が義とされる」というのです。しかしわれわれがいつも考えることは、「神は信仰のある人を義とするかたではないか」と思ってしまうことなのです。しかし、そうではないのです。「不信心なものを義としてくださるかた」なんです、そのかたを信じるのです。

 そしてパウロはいいます。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはない」といいます。ここで使われている「肉」というのは、いわゆる肉欲のことではありません。そうではなくて、ここでいわれている「肉」は人間中心的な生き方、もっと具体的にいえば、自分中心の生き方ということであります。そのなかにはもちろん一九節であげられている「肉のわざはあきらかである」といってあげられた悪徳表のなかにありますように、「姦淫、わいせつ、好色」といった、いわゆる肉欲もふくまれるわけですが、しかしそれだけではなく、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心」といったこともとりあげられておりますように、聖書がいっている「肉」というのは、肉欲という欲情のことではなく、自分中心の生き方のことであります。

 そして一七節から「肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは自分のしたいことができない」というのです。この句はわかりにくい言葉であります。これはこういうふうに考えたらいいのではないかと思います。霊と肉という勢力が拮抗しているなかで生きるのであるならば、自分のしたいことができなくなってしまう、ということです。

 しかし、われわれはもう霊の導きのなかに入れられているのだ、われわれ信仰者はもう決して、肉と霊とが同じ勢力で拮抗しあっているというなかで生きているのではない。神の霊の支配下で生きている、そうであるならば、人間的な自分中心の思いをその都度、その都度ふっきって、捨てて、霊の支配下のもとに自分をおこうと決断していくことだということであります。

 霊の支配下にあることを信じて歩むということは、絶えず自分の自己中心的な思いを、絶えず、その都度その都度ふっきって生きていくということであります。

 たとえば、人を愛するというときに、ときどきそういう人をみますけれど、もう根っから愛に満ちた人というかたがおります。人の悪をもうねっからみようとしない、善意の人という人がおります。愛というのがその人の性質にまで染みこんでしまっているような人がこの世の中には確かにいるのです。おそらくその人は生まれ育った環境が本当に恵まれて、両親の愛をふんだんに受けて育った人だと思います。それはみていてうらやましい限りであります。われわれはもうそういう人には到底なれないのです。
 しかしそういうわれわれでも、ある時に、一番大切なときに、自分の利己的な思いを捨てて、人のために奉仕する、そのために犠牲になる、そのように決断して、そっちを選択するという生き方をすることが出来ると思うのです。始終できるわけではないのですが、またいつもやすやすとできるわけではないのですが、それこそ苦渋の決断かもしれませんが、われわれにもそのように自分を捨てることが出来るときがある。
 その愛の表し方は自然ではないし、ぎこちないものであるかもしれません、しかしわれわれもまた神の導きを信じて人を赦し、愛すときがあります。それが霊に導かれて生きるということなのではないかと思うのです。

 それについては、この前の説教で言及しましたけれど、鈴木正久の説明をもう一度紹介したいと思います。

 一八節からパウロはこういうのですが、「霊に導かれているならば、あなたがたは律法の下にはいない」といったあと、一九節から「肉のわざは明らかだ、それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り」と列挙します。そしてそれに対して、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制だ」というのであります。

 このところで、鈴木正久はこう説明するのであります。口語訳によっておりますが、こういっています。「肉の働きというのは、決断しないで生きることにある。ここにでてくる不品行からはじまる泥酔、宴楽のすべては、はっきりと決心して行うというようなことではない。祈りをもって決心して好色になるとか、人をそねむことにするとかということはない。反対にこれらの肉の働きは、畑の雑草のように、わたしたちの心が油断しているとき、不決断であるとき、芽を出し、生い茂ってくるものだ。つまり、ずるずるべったりにそうなるのだ」といのうです。

 そしてそれに対して、霊の導きによって生きるということは、決断して生きることだというのです。「愛をもって仕える、ということは、ずるずるべったり愛をもって仕えようとなどということは起こりえない。他の人を心から愛し、これに仕えること、これはいつも決心を要する。まったく祈りをもって決断しなければできないことだ。したがって真実の自由とは、ずるずるべったりにわけのわからないことをやることではなく、真に自分の行くべき道を行くこと、なにをするかについて決心し、決断することだ」と述べているのであります。

 「自由とは主体性である。主体的であるとは、正しく決断できることだ 」というのであります。

 わたしはこれを読んだときに、本当にそうだなと思ったのです。われわれは悪い事をする時には、いつもずるずるべったり、何かに流されるようにして、決断をしないときにしてしまう。まるで悪魔に誘われるようにしてしまうということであります。

 もちろん、悪いことをするときにも、決断してやるときもあると思います。しかしその時には、いつでも戻ることができるのではないか。なぜかというと、罪の自覚があるからであります。
 また決断して何か悪いことをするときには、果たしてそれが本当に悪いことかどうか、たとえば、食べるに困って、もうどうしようもなく、悩みに悩んだ末に、人のパンを盗んでしまうという決断をして、パンを盗んでしまうときに、それが文字どうり悪いことなのかということであります。

 ともかく、われわれが悪に走る時には、本当にわれわれが不決断のとき、決断しないで歩んでいるときであります。

 それに対して、霊の導きによって歩むときには、決断がいる、これも考えさせられることであります。

 われわれは聖霊の導きによって生きるなどといわれると、それこそなにか神秘的な霊の力に夢遊病者のように動かされることだと想像していないでしょうか。それこそ誰かに洗脳させられて、教祖様のいいなりになって動きまわることが霊の導きによって歩むとことだと考えていないか。
 しかし、そうではないということであります。霊の導きによって歩むのは、決断がいる。どういう決断かといえば、自分の欲と闘って、それを振り切っていこうという決断を必要とするということであります。

 それが、二五節の言葉「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しよう」という言葉です。ここは口語訳のほうがいいと思います。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」と訳されております。別に「前進」なんかしなくてもいいのです。ここには前進なんていう意味はないのです、「歩こう」と言う言葉です。

 つまり、霊の導きによって生きるということは、聖霊のままに夢遊病者のようにして、無責任に、自分の意志をなくして生きるのではなく、ちゃんと自分の意志をもち、自分の意志で決断して、自分の責任で、歩むということであります。
「霊の導きに従って生きるならば、霊の導きを信じて、自分の決断で、自分自身の足で歩こうではないか」ということであります。

 前に大江健三郎があるテレビの座談会で、それは山田太一という脚本家と、もうひとり誰だか忘れましたが、そういった人を交えた対談なのですが、こんなことを言っていたのを思いだします。「サルトルというフランスの実存主義の作家が、われわれの人間関係は選びにあると言っている。どんなに憎んでいる親子関係でも、相手を殺さないいる限りは、子供は親を親として自分で選んでいる。親もどんなに気に食わない子供であっても、子供を殺さない限りは、親は子供として、その子を選んでいるのだ。夫婦の間でもどんなに憎しみ合っている夫婦でも、離婚していない限りは、夫婦としてお互いに選んでいるということなんだ。だから、人間の関係はどんな関係でも、人間の主体的な選びと言うことと無関係に成り立っているわけではない」といっているのです。

 そして大江健三郎は、「自分の長男は知的障害として生まれたけれど、自分はある時から、この子を自分の子供として受け入れようと決断し、選んでいる。子供のほうはどう思っているか分からないが、自分はこの子を自分の子どもとして選んでいる」といっているのであります。

大江健三郎は、自分の子供が脳に異常があるということを知らされたときに、絶望したというのです。ちょうどそのころ、広島の原爆の取材に言っているときに、広島で原爆で死んだ人の灯籠流しという行事があって、自分もそれに参加した。そのときに、彼は自分の子供の名前を書いて、灯籠で流そうとした。その時に彼と一緒にいた岩波書店の編集者が「何をするのか」といって、それをやめさせたというのです。そのとき、大江健三郎は、自分のしようとしていることに気がついた。そしてそれから、この子を自分の子として受け入れる決断をして、自分の子として選びとったというのです。
 
 「選ぶ」ということは、決断するということであります。

 大江健三郎がこういう発言をしたのは、この座談会で、山田太一が「家族の交わりは、いわば宿命的な人間関係の場だ。親と子という関係も互いに選べるわけではない。それは夫婦の関係でも、はじめは選んで夫婦になったのかもしれないが、相手のすべてを知って選んだわけではない、だからもう宿命的に夫婦になってしまったというところがある。その宿命的な、いわば上から与えられた関係をむしろ受け止めるということが大切なのではないか。その中で忍耐していく。その運命を引き受けていくということが大事なのではないか」と発言しているのです。

 それを受けて、大江健三郎が「そうではないのではないか、すべての人間関係は、選びとっている関係だ」というのです。

 このふたりの発言は、全く違ったことをいっいるようでありますが、しかし中身は同じだと思います。山田太一が「その運命を引き受けていくことが大事ではないか」というときには、やはりそこには、「引き受ける」という選びと決断があると思うからであります。

 結婚ということが、選びと決断であるとすれば、離婚ということだって、ひとつの選びと決断だと思います。愛のない関係をずるずるひきずって、生活するよりは、別れるという決断をする、それだって、立派なひとつの選びだし、決断であるし、霊の導きを信じて歩んでいこうという、新しい出発の決断であると思います。霊の導きを信じて歩むということは、強力な霊の導きを信じて、決断して自分の足で歩むということであります。

 ここでパウロは霊の結ぶ実として、「愛」に続いて、「喜び」をあげております。愛は確かに決断がいる、しかし喜びに決断がいるだろうかと思うかもしれません。しかしパウロは、ピリピの信徒への手紙をみますと、パウロが繰り返しいっていることは、「喜ぼう」「喜ぼう」といっていることであります。この手紙は「喜びの手紙」といわれているくらいに、「喜ぼう」という言葉が繰り返しでてくるのです。
 これはパウロが獄中のなかで書かれた手紙のようなのです。ですから、とても普通では、喜べる状況ではないのです。そのなかで「喜ぼう」というのです。ここでは獄中にいるパウロを苦しめるために、不純な動機からキリスト教を伝道する伝道者もいる、しかしパウロはその伝道者に対しても、「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのだから、わたしは喜んでいる、これからも喜びます」というのです。

 とても喜べる状況ではないのです。そのなかで、喜ぼうと自分自身にいいきかせ、またピリピの信徒に対して、「喜びなさい、重ねていうが、喜びなさい」と勧める、いや命令すらするのであります。

 つまり、喜びにも決断が必要だということであります。喜べない状況のなかで、そのままいったら、ただ悲しみのなかでずるずると引きずり込まれるという状況のなかで、霊の導きを信じて、よし喜ぼう、と無理をしてでも自分に言い聞かせて、悲しみをふっきって、喜ぶ、そういう決断をするということであります。

 ここには、肉の方は、肉のわざは明らかだ、といっているのに対して、霊のほうは、「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和 」と書いてあります。口語訳では、「肉の働きは明らかだ」と、「わざ」を「働き」と訳しております。働きというほうが訳としていいような気がします。それは肉が働いて、つまりわれわれの欲が働いて、なにか悪いことをするからであります。

 それに対して、霊のほうは、霊の結ぶ実なのです。われわれがなにか実を実らせるというようなことではなく、霊が実を結んでくださる、そういう思いをパウロはここでこめているのではないかと思います。
 われわれが霊の導きを信じて歩むとき、それはいつも自分の予想を超えて、豊かな実が結ばれていくのではないか。自分のちっぽな思いを超えて、霊の結んでくれる実は豊かであります。

 そして「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」とパウロはいいます。ここも口語訳のほうがいいと思います。「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった」と訳されていて、ここでは「自分の肉を」と訳しているのです。そして原語をみますと、「肉」の前には定冠詞がついておりますから、「自分の肉」と訳したほうがいいと思います。

 ここのとろで竹森満佐一はこういっているのです。「ここでいわれている情と欲といわれるものは、人間が自然に備えられている欲望のことではないと思う。従って、キリスト・イエスにある者は、禁欲主義者になるということではない。ここには、『自分の肉を』と書いてある。御霊に対して、肉と呼ばれる自分中心の欲望のことをいうのである」といっているのであります。

 われわれは禁欲主義者になる必要はないのです。大事なことは、自分中心の欲に引きずりまわされないことなのであります。それを十字架につけてしまう、つまりそれにひきずりまわさてしまいそうになるときに、それに逆らって、それに抗して、決断して、ふっきっていくということであります。
 われわれは禁欲主義者になる必要はないのです。その都度、その都度、自分の肉を捨てていくことであります。それならば、われわれにだってできることではないか。霊の導きを信じて、できることではないかと思います。

 そしてパウロはその結びとして、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみあったりするのはやめましょう」というのです。これはまた実に当たり前の平凡な勧めの言葉で終わるのであります。パウロはいつも現実的にものごとを考えている、倫理ということを普段の生活の中で考えているということであります。