「新しく創造される」 ガラテヤ書六章一一ー一八節

 パウロは、この手紙を終えるに当たって、「この通り、わたしは今こんな大きな字で、自分の手であなた方に書いています」といいます。どうもそれまでは、口述筆記だったのではないかとも言われています。パウロは大変目がわるかったようなので、そうしたのではないかということです。しかし今、手紙を終えるに当たって自らの手で署名するような意味で書くというのです。目が悪いパウロですから、「こんな大きな字で」というわけです。

 そしていわば、パウロはこの手紙の本題にもう一度もどるのです。それは異邦人でクリスチャンになった人でも、ユダヤ人と同じように割礼を受けるべきだというエルサレム教会のユダヤ人キリスト者に対して、あなたがたは「肉において、つまり人間的な意味で人からよく思われたいために、そしてキリストの十字架の故に迫害されたくないばっかりに、あなた方に無理矢理に割礼を施そうとしているのだ」というのです。

 これはパウロが今まで述べてきたことの繰り返しであります。ユダヤ人にとっては、自分たちは割礼を受けているということが、自分達の誇りであったのです。それは自分たちは神によって選ばれているという選民性の誇りであったのです。

それはパウロにいわせれば、人間的な誇り、肉の誇りだというのです。その誇りが人間に罪を犯させるのだ、誇りというもの、そのようにして自分を誇ろうとする、それが罪なのだ、それがなによりも罪の根源なのだ、キリストの十字架はその罪の根源を根底から否定したのではないか、クリスチャンになるということは、そうした人間的な誇り、肉の誇りから解放されることではないか、それなのにどうしていまだに割礼にこだわるのか、とパウロはいうのであります。

 キリストの十字架は、選民であるユダヤ人の誇りを徹底的に批判したものだったのです。それは何よりもユダヤ人の誇りとしていた律法を否定するものだったからです。それでユダヤ人たちはキリスト教徒を迫害したのです。それでキリスト者になったエルサレムにいるユダヤ人たちは、少しでもその迫害から逃れるために、ユダヤ人が一番誇りにしていた割礼をしていることを重んじ、異邦人でクリスチャンになった人にも割礼を施し、自分達の仲間に入れようといたのです。

 それでパウロはいいます。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならない」というのです。
割礼を受けているなどということで、自分を誇るなというのです。

 そしてパウロはいいます。「この十字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにされている」といいます。ここは口語訳は「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」となっております。

 これは随分、厳しいというか、ある意味では過激な言葉ではないでしょうか。ここのところで、竹森満佐一はこういうのです。「キリスト教はいわゆる禁欲主義ではないはずた。しかし、キリストのゆえに、一切のものに対して死ぬ、ということは、なまやさしい禁欲主義などの、とうてい及ぶところではありますまい。しかるに、実際にはキリスト者は、なんとなく文化的な事が好きで、そのゆえに、この世に対して死ぬどころか、もっともこの世的になる誘惑があるのではないか。福音によって、全く新しくなり、福音のゆえに、いっさいを捨てるということがどんなに難しいか」というのです。

 まことに厳しい言葉であります。
 「この十字架によって世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまった」という聖書の言葉、こういうところを説教するときに、わたしは一番困るというか、立ち止まってしまうところなのです。といいますのは、そんなことを口さきで説教しても、実際にそんなことができるのか、それを説教する自分自身はどうなのか、この世に対して死んでいるのか、この世的な文化的なものに対して自分は死んでいるか、なんの興味もないのかと問われるからであります。

 わたしは牧師になってこの四十一年間説教をしてきましたが、わたしが説教で志してきたことの一つのことは、観念的な説教はしたくないということでした。つまり、自分ができもしないこと、自分が実際にしていないことを、聖書にそう書いてあるからといって、それをただ口先で説教したくない、するまいということでした。実際の生活に即して聖書の言葉を説教したいということでした。

 わたしは若い頃は、英雄にあこがれたものであります。キリスト教にふれて、一番感激を覚えたのは、今ではもう若い人は知らないかもしれませんが、シュバイツアーでした。彼は、バッハのオルガンを演奏するにおいては、当時は第一人者でした。しかも哲学者としても、また神学者としても著名でした。しかし彼はあるとき、虐げられているアフリカの少年達のことを知って、アフリカに行って神の福音を宣べ伝えよという神の声を聞いた、そのアフリカの人々のために宣教しようと突然思いついて、今まで彼が勝ち得ていた名声をすべて捨てて、アフリカに行こうと決意するのであります。確か、それからアフリカの人々を救うために医学を学び、医者になり、アフリカに行くのであります。そういうシュバイツアーにあこがれたものでした。

 しかし、同時に自分はとうていシュバイツアーなんかにはなれないと言うことを思い知らされる毎日だったのです。だから自分はクリスチャンになれそうもないということだったのです。そしてシュバイツアーのような生き方をしないとクリスチャンになれないと思い続けた、つまりそれが律法主義というものであります。
 しかし、シュバイツアーのようになれなくても、いいのだ、そういうわたしを神は赦し、救ってくれるということがわたしにはわかって、クリスチャンになれたのです。律法主義から解放されたのです。このままのままでいい、神はこのままのわたしを受け入れ、愛し、赦してくださるという福音を信じることができたのです。

 わたしにとって、聖書で一番さけて通りたいところが、「自分を捨てて、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」というところであります。聖書を読んでいて、その箇所にくると、すっと素通りして読もうしてしまうのであります。シュバイツアーのようにキリストの十字架を負うことのできないわたしであります。そうした聖句は避けてとおりたいとところなのです。

 しかし、イエス・キリストは「自分を捨てて十字架を負いなさい」と命ずるのであります。しかし、われわれは自分から進んで十字架を負うという生き方ができるでしょうか。これはわたしにとっては、クリスチャンになってからの一番の悩みでした。それは牧師になって説教する立場にたって、ここをどのように説教したらよいかという課題でした。

 しかしわたしはこの問題ではこういうふうに考えました。十字架というのは、自ら負うとして負えるものではない。十字架を負うということは、他人によって負わされるものなのだ。自分が負わなくてならない十字架はどこにあるだろうかとうろうろ探しまわったところで、そのように自分が自分で負うとする十字架は結局は自分にとってかっこいい十字架、自分を誇ろうとする十字架でしかないと思います。自分にとって都合のよい十字架でしかないと思います。
 そんなものは十字架ではないということに気がつきました。

 十字架というのは、いつでも、人から負わされるもの、神から負わされものであります。そしてそれはなにも英雄的なことではなく、人によっては、親の介護ということかも知れない、妻や、あるいは夫の介護ということであるかも知れない。それは決して目立たない、地味なものであるかも知れないと思います。それが十字架を負うということであるかもしれない。

 ですから、自ら十字架を負うなどと肩を張って気張る必要はないのであって、神様は必ずその人にとって負わなくてはならい十字架を負わせられるのだから、それまでは十字架を負うことを逃げ回ったっていい、と少し無責任のようですがそう思うよになってほっとしたのであります。それは神様が負わせられる十字架なのですから、またその人にとってそれは必ず負える十字架であります。その十字架を負える力も同時に神様が与えてくれる十字架であります。

 わたしが牧師になって、説教するようになって、わたしはほぼ四十年にわたって、わたしが語ってきたこと、語ろうとして来たことは、自分自身に語ってきた、自分のために語ってきたということではないかと思います。
 言葉をかえていえば、自分にできもしないことは、絶対に語るまいということでした。

 わたしが説教で目指したことは、こういう言葉が適当かどうかわからないのですが、庶民の立場で語ろうということでした。シュバイツアーになれるような人にではなく、そういう人にはとうていなれそうもない人、ごくごく平凡な人、そういう人でも福音によって生きることができるのだ、福音はそういう人をも生かすことのできる力をもっているのだ、それを語りたかったのです。

 自分は一段高いところに立って語るのではなく、自分自身が福音を聞き、自分自身がその福音によって生かされる、その福音を語りたい、その福音を共有したい、それがわたしの説教するにあたって、第一に心がけたことでした。観念的な説教はしまいということだったのです。

 聖書の言葉をねじ曲げるわけにはいかない、それは何よりも神の言葉なのですから、それを自分ができないから、信じられないからといって、説教者が都合のよいように解釈するわけにはいかない。しかし、なんとかその聖書の言葉を自分にとって、本当の言葉にするためにはどうしたらよいか、それがわたしにとっての説教の一番の苦労ということでした。説教するときにいつも悪戦苦闘したことでした。

 そういうわたしにとって、今日与えられた聖書の箇所は大変困るところなのです。わたしは十字架によって救われておりながら、ひとつもこの世に対して死んでいないではないか。わたしは相変わらず、文化的なものが好きだし、この世的なことに関心があるし、文化的なものにあこがれる。電気製品で新しいのがでると真っ先に商品を見にいきたい、すぐ購入したくなるのです。音楽とか、そうした芸術的なものに強い関心をもっているのです。

 そういうわたしが「十字架によって、この世はわたしに対して死に、わたしはこの世に対して死んだ」などという説教をどうしたらできるかということなのです。パウロはできたかも知れない、わたしの尊敬してやまない竹森満佐一はできたかもしれない、しかしわたしはにはできない、できそうもない、それでも牧師なのか、それでもクリスチャンなのか。

 ずっと前に南佐織という歌手がいました。確かそういう名前だったと思いますが、彼女が自分はもう歌手を辞める、歌手生活を引退すると記者会見をした。その時、彼女はこういったというのです。それまで数々の賞をとってきたが、それらのトロフィーががらくたのように見えたというのです。

 それを見ていたある評論家が彼女の引退声明はほんものだと思ったといっていたのです。いろんな歌手が引退声明を出しては、また復帰するということを繰り返しているなかで、彼女の引退声明はほんものだといっていたのです。つまり、彼女にとって今まで一番大切だったものが、そうでなくなった、どうでもよくなった、がらくたに見えたというのです。価値の転換が起こったということであります。だからこの引退声明は本物だといっていたのであります。

 「この世はわたしに対して死に、わたしはこの世に対して死んだ」ということはそういう価値の転換が起こったということではないかと思うのです。全くこの世に対して無関心になったということではなく、山の中にこもってそれこそ隠遁生活をするというようなことではなく、この世に生活し、この世的なものを楽しみながら、しかしこの世的なものを絶対化しないという生き方、いつでもこの世的なものを捨てることがてぎる、そういう姿勢で生きるということではないかと思います。

 南佐織については、後日談があって、一昨年だったか忘れましたが、もう一度、歌手にもどりたいと言い出したという新聞記事をみて、わたしはなんだと思ったのです。彼女が実際に歌手生活にもどったのかどうかは知りませんが、われわれが何かを捨てる、この世に対して死ぬというのは、やはり、いつでも不徹底であるということではないかと思うのです。

 この世に対して死ぬんだいいながら、われわれはまたこの世に対していろんな形で執着し、そうしては、またああ、こんなことに執着していけないと反省する、そういうことの繰り返しではないかと思うのです。

 主イエスの言われた言葉に、「一日のうち、七度罪を犯し、七度悔い改めたら、赦してあげなさい」という言葉があります。たった一日のうちにですよ、七度罪を犯し、七度悔い改めるということはどういうことでしょうか。その場合の悔い改めというのは、いったいどういう悔い改めでしょうか。悔い改めたと思ったら、その悔い改めの言葉の舌の乾かないうちに罪を犯すということを繰り返すということです。たった一日のうちに七度というのですから。

 いかにこの悔い改めというものが口先だけの悔い改めかということが分かると思います。それでも、主イエスはともかく悔い改めますと告白したら、「赦してあげなさい」といわれたのです。われわれの悔い改めの不徹底さをイエスはよくご存じで、それでもその悔い改めを受け入れようとしておられるのであります。

 われわれもこの世に対して死んでは、またこの世的なものに対して引かれ、そうしては、またこの世的なものを追うことの空しさに気付くということの繰り返しなのではないか。それでもいいから、それを繰り返しなさい、と主イエスは言われているのではないか。

 しかしまた同時に竹森満佐一の次のような厳しい言葉も心に刻みつける必要があるのではないかと思います。こう書いているのです。「福音によって全く新しくなり、福音の中に一切を捨てるということが、どんなに難しいか。パウロはしまいに、それを言っておかねばならないと考えたのだ。いい加減な信仰は、パウロのような生活に耐えることはできない。しかも、徹底しえない信仰生活ほどみじめなものはないのではないか。だからパウロはわたしたちの主イエス・キリストの十字架以外、断じて誇ることはあってはならないっているのである」。

 徹底しえない信仰生活ほど惨めなものはない、という、この竹森満佐一の言葉もわれわれはしっかりと心に刻みつけておきたいと思うのです。

 そしてパウロはいいます。「割礼の有無は問題ではない、大切なのは新しく創造されることだ。」 

 ユダヤ人でクリスチャンになった人は、もう既にユダヤ人として割礼を受けてしまっているのです。ですから、それがあったっていいということです。ただキリストの十字架によって救われておりながら、その割礼を受けたということにこだわり、異邦人でクリスチャンになった人にも割礼を強いるという、ユダヤ人クリスチャンに姿勢は、自分たちの特権意識、選民意識を捨てきっていない、自分達は特別に選ばれたものだという既得権にあぐらをかいているということであります。クリスチャンになるということは、そうした既得権にあぐらをかくのをやめて、絶えず日々新しく再創造されていくということが大事なのだということであります。日々、新しくなるためには、日々古いものは捨てていかなくてはならないのであります。

 そしてパウロは最後にこういいます。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」と事実上のこの手紙の終わりにします。竹森満佐一がいうには、「これはずいぶんぶっきりぼうな終わりかただ。いいつくすべきことはぜんぶ言ってきた、福音は一つだ、あとは自分でやりなさいということだというのです」と言っているのであります。ある意味ではパウロらしいおわりかたであるかもしれません。あんまりべたべたしないということであります。

 「わたしはイエスの焼き印を身に受けているのだ」といいます。これは奴隷が自分は所有物だという徴としてつけるものだともいわれています。牛などの所有者がこれは自分のものだという徴として焼き印をおしますが、それと同じように、自分はイエスという焼き印をおされているというのです。パウロのイエス・キリストに対する熱い思いが伝わってくるのではないかと思います。