「神われらと共に」 マタイ福音書一章一八ー二五節

クリスマスというのは、神がご自分のひとり子をこの世に送られた日であります。今われわれはこの日を喜びの日として祝っておりますが、この日は本当に喜びの日なのだろうか。

 といいますのは、神がご自分のひとり子をこの世に送ったということは、こういうふうに考えることもできると思うのです。地方に住んでいた若者が都会で大学に通うために、下宿生活を送っている。親から仕送りをうけているわけです。いつもは、電報か葉書で、金を送ってくれといって、それに応えて親から現金封筒かなにかでお金が送られてきた。しかしあるとき、突然親がいきなり下宿に現れたとしたら、どうでしょうか。若者は喜ぶでしょうか。とまどうのではないでしょうか。とまどうだけではなく、それは大変迷惑なことなのではないでしょうか。

 親が来るということは、自分の普段のだらしない生活がそのまま見られてしまうということであります。暴露されてしまうということであります。若者にとっては、親なんか来てくれないで、ただ必要な現金だけが現金封筒で送られてきてくれたほうがどれだけありがたいことであるか分からないのです。そのほうがどれだけ便利であるかわからないのです。

 クリスマスは神様がご自分のひとり子をこの世に送ってくださった日であります。それは今まで子供の求めに応じて、現金封筒でお金を送ってきた親がいきなり自分の生活している現場に乗り込んできたということであります。それはわれわれのだらしのない生活が暴露されるということなのであります。

 マタイ福音書では、東から来た占星術の博士たちがある異様に光り輝く星をみて、これは将来のユダヤ人の王が生まれるという徴だと思い、その星はどこを指し示しているのかと尋ねてエルサレムにやってきたというのです。「そのかたはどこにおられるのか」とエルサレムの街で尋ね回った。そのことを聞いた時の王様ヘロデは、自分の地位が危うくされるというので、その将来王となるかも知れないというイエスを抹殺しようとした。しかしその居場所みつけられなかったので、イエスの生まれたとされていたベツレヘムとその付近の二歳以下の子をことごとく殺していったというのです。その殺された親の悲しみの叫びがいたるところで聞こえたというのです。

神のひとり子がこの世に送られてきたということは、地上にいる人々にとっては、決して喜びの日ではなかった。ある意味では、大迷惑だったのであります。
それはわれわれ人間の悪が露わにされることだったのです。

 イエス・キリストという光はわれわれのどのような悪を露わにしたのでしょうか。それは自分の悪に苦しんでいる人、自分の罪に悩み悲しんでいる人の心をさらに暴き立てようとして来たのでしょうか。自分の罪に悩み苦しんで人に対して、さらにその罪をあらわにし、さらに苦しませ、悲しませるためにきたのでしょうか。そうではないのだと聖書は語っております。イエス・キリストはこう呼びかけているからであります。「重荷を負うて苦しんでいる人はわたしのところにきなさい、休ませてあげよう」といわれたのであります。自分の罪に苦しみ、悲しんでいる人、姦淫を犯して、その現場を取り押さえられ、こんな女は石で殺してしまえとののしられている女、に対して、「わたしはお前は罰しない。わたしはお前の罪を赦す。今後は自分の罪と弱さと闘っていきなさい」といわれたのです。
イエスは、自分の罪と自分の弱さに苦しんでいる人に対して、さらにその罪を暴き立てるために来たのではないのです。

 ではどういう悪をあらわにしようとなさったのか。ヘロデ王のように、自分の権力に執着し、それを守るためならば、平気で幼い子の命を奪っていく人間の悪をあらわにしました。しかしそればかりではなく、自分の悪に気づいていないで、それどころか、これが正しいのだと、自分の正しさを主張してやまない義人、自分は正しいと思っている人、当時の正義の代表者、律法学者やファリサイ派の人々、祭司長の、その正しさを問題にし、それが本当に正しいのかとわれわれに問いかけ、その罪をあらわにするために、そのためにこの世に来たのであります。

しかし、それだけではないのです。われわれ人間のもつ正しさそのものを問題にするために、神はひとり子イエス・キリストをこの世におくられたのであります。

 聖書は、その御子の誕生の記事をこのように書き始めるのであります。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことが表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書き始めるのであります。

 自分の婚約者が自分の身に覚えがないのに妊娠している、そのことを知ったヨセフはただちに憤ったに違いないと思います。マリアは他の男と姦淫したと思ったわけです。それでただちに離縁しようとした。婚約を解消しようとしたのであります。正しい人間だったならば、だれでもそうするだろうと思います。

 聖書は、「夫ヨセフは正しい人であったので」と書きますが、その正しさとは、彼は正しい人であったから、自分の婚約者の裏切りと不倫に憤り、離縁しようとしたとは書かないで、「夫ヨセフは正しいひとであったので」、マリアのこのことがおもてざたになるのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したと記すのであります。

 つまり、ヨセフは正しい人であったので、不倫という事実に耐えられなくて、婚約者の不倫を知って、ただちに縁を切ろうとたというのではなく、ヨセフはこのことでマリアのことが表沙汰になって、みんなから罵倒され、あざけられ、石打の刑に処せられることを望まず、だから、「ひそかに」縁を切ろうとした、このところで、ヨセフは正しい人であったので、と聖書は書くのであります。

つまり、ヨセフは人間のもつ正しさのもっとも良質の正しさをもった人間であったということであります。ヨセフはマリアの不倫を知って、ただ正義をふりかざし、マリアを糾弾するという、正義の志というような正しい人ではなく、人の過ちをも最大限に許し、被ってあげようとする優しさをもった正しい人間であったということであります。不倫をしたに違いないマリアの罪を公に暴き立てて、彼女を追い込もうとしないで、その恥じを被ってあげようとしたのであります。ここに彼が正しい人であったと記しているのであります。正しさとは優しさであります。

 ここで思い出すのは以前に、説教で紹介したことのある吉野弘という方の「祝婚歌」という詩であります。 こういう詩です。
 「二人が睦まじくいるためには  愚かでいるほうがいい  立派すぎないほうがいい  立派すぎることは  長持ちしないことだと気付いているほうがいい  完璧をめざさないほうがいい  完璧なんて不自然なことだと  うそぶいているほうがいい  二人のうちどちらかが  ふざけているほうがいい  ずっこけているほうがいい  互いに非難することがあっても  非難できる資格が自分にあったかどうか  あとで疑わしくなるほうがいい  正しいことを言うときは  少しひかえめにするほうがいい  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと  気付いているほうがいい  立派でありたいとか  正しくありたいとかいう  無理な緊張には  色目を使わず  ゆったり ゆたかに  光を浴びているほうがいい」

こういう詩です。「正しいことを言うときには、少しひかえめにするほうがいい」というのです。われわれが正しさをいうときには、どこかに必ず自分の正しさの主張という、自分が自分がという自我の主張があるからであります。

 この吉野弘さんの詩を説教で紹介しましたら、そのあと、この「祝婚歌」について茨木のり子さんという詩人がある文を書いていて、その文章をわたしのところに送ってきてくださったかたがあって、茨木のり子さんが大変面白いことを書いておりました。

 茨木のり子さんはこの吉野弘さんの「祝婚歌」に感動して、吉野弘の詩集のどこにも載っていないので、吉野さんに直接この詩はどこに載っているのかと電話したら、あの詩はあまりにも他愛ない詩だから、詩集にいれなかったというのです。日本ではこういうわかりやすい詩というのは、詩として劣るという評価を受けるらしいのです。

そして茨木のり子さんは、この詩は結婚式の披露宴で読まれるだけでなく、離婚問題をあつかつている女性弁護士も、その離婚の調停で離婚しようとしているふたりに紹介することがあるというのです。

 茨木のり子さんの親戚の娘がドイツのカトリックの青年と国際結婚するとことになったといのうのです。そして式のときに相手は聖書の一部、あの有名な「コリント人への手紙の愛の賛歌」を読むから、こちらも日本の詩のなかでなにかを紹介して欲しいということであって、その詩の選択を頼まれたとき、茨木のり子さんはすぐこの「祝婚歌」を選んだというのです。
 
この「祝婚歌」という詩は、ヨーロッパの思考法、徹底的に原理を追求するヨーロッパの思考法とは、対極にある詩だから、ある意味では、これは聖書の一節に十分拮抗できるのではないかと彼女は思ったというのです。それでこれを紹介したら、若いふたりはとても気に入ってくれたというのです。相手のカトリックのドイツの青年も気に入ってくれた。それでこれをドイツ語に訳してわたしたところ、式のときにこの詩が聖歌隊によって歌われた。そうしたら、出席した会衆に大きな感動を与えたというのです。神父もこの詩についてかなり長い解説をしていたというのです。この詩はあの原理を追求するドイツでも受け入れられたというのは、興味深いことであると茨木のり子さんは書いているのであります。

われわれは人間関係のなかで、正しさを求めるときに、どこかぎくしゃくしたところがでてくるのではないでしょうか。親子の間で、あるいは、特に夫婦の間で正しさを主張しようとすると必ずぎくしゃくしたものが起こるのではないでしょうか。

 ヨセフは正しいひとでした。ですから、客観的にいったら、婚約者のマリアは自分以外の他の男と密通したのではないかと思い、縁を切ろうとしましたが、しかしそのとき、ヨセフは自分の正しさをあからさまに主張しようとはしないで、それをおさえて「ひそかに」ひそかに、離縁しようとしたというであります。
吉野弘の詩にあるように、「正しいことをいうときには少し控えめにするほうがいい」とありますが、ヨセフはそうしたのであります。
 ヨセフは人間のもつ最良の正しさをもっている人でした。

 しかし神はそのヨセフに対してこう告げるのであります。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と、神は天使を通して告げるのであります。
そうしてヨセフはこの神の言葉を受け入れて、マリアを妻として迎えたというのです。

 客観的にいったら、自分を裏切り、他の男と関係をもったかもしれないマリアを自分の妻として迎えよといわれるのです。

これは人間の常識を越え、人間の理性を超えた出来事でした。それはヨセフには考えられない出来事でした。しかしヨセフはこれを受け入れたのであります。ヨセフがマリアを受け入れることができた背後には、マリアが子を宿していながら、なんら悪びれるところがない様子でヨセフに接している、その清純な顔つき、行動もまた、ヨセフが天使の御告げを受け入れることのできた支えになったかもしれません。しかしもちろん、ヨセフはここで神の介入、天使の声を聞かなければ、到底マリアを受け入れることができなかったことは間違いのないことであります。

 ヨセフが「ひそかに離縁しようとした」という人間のもつ最良の正しさを、神は静かに退け、それを打ち砕いて、神の正しさ、神の義を示そうとするのであります。それは「ひそかに離縁しよう」とするヨセフのもつもっとも良質の正しさを超えて、人間の常識からいえば、姦淫を犯して妊娠したかもしれないマリアを妻として迎えよ、という神の正しさであります。
 なぜなら、このようにして誕生したイエス・キリストは、人間の罪をあらわにはしましたが、最後にはそのわれわれ人間の罪を赦すということにおいて、神の正しさをわれわれに示してくださったからであります。

 「正しいことをいうときには、少し控えめにするほうがいい。正しいことをいうときには、相手を傷つけやすいものだと気づいていたほうがいい」という吉野弘さんのいう「正しさ」を超えて、相手の罪を赦すというところに、神の正しさが示されるのであります。

 マリアは姦淫をしてイエスを宿したというのではないのです。姦淫をして生まれた子を受け入れよとヨセフは命じられたのではないのです。こではマリアは姦淫によって子を宿しているのではない、神の霊によって子を宿してるのだといわれ、だからマリアを受け入れよといわれているのです。

 しかし人間の正しさというものの常識からいえば、姦淫したとしかおもわれないマリアを受け入れるという決断がここでなされたのです。

 ヨセフは確かに、マリアをあからさまに告発しないで、石打の刑から逃れさせようとして、ひそかに離縁しようとしたのであります。ここには人間のもつ最良の優しさがあるかもしれません。しかしそこでは、まだまだ自分の正しさを守る、自分の立場を守る、ということ、自分を守るということは保持されているのであります。 

 旧約聖書にホセア書があります。その冒頭で、預言者ホセアは神からこういわれるのです。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と告げられるのであります。預言者ホセアの妻は姦淫をした。そして子供を身ごもった。預言者ホセアはもちろん苦悩して、妻と離婚しようとするのです。そのとき神から「姦淫をした妻を迎え入れよ」といわれるのです。

 なぜそのようなことを預言者にさせるかというと、今神みずから、自分が選んだ民、自分が愛して止まないイスラエルの民に裏切られている、しかし神はその民を赦し、なおも愛し続けようとしているからだ、その神の愛を預言するために召された預言者はみずから、まず自分自身が淫行に走った妻を赦し、受け入れよ、といわれるのです。

 のちに預言者ホセアは、その中で神の言葉としてこのように告げるのであります。少し意訳して引用しますが「ああ、イスラエルよ、お前を見捨てることができるか。お前を見捨てることができるか。わたしは激しく心動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることはない。イスラエルを再び滅ばさない。わたしは神であって、人ではなく、お前達のうちにあって聖なる者。怒りをもって臨むことはしない」と預言するのであります。
 
わたしは人ではなく、神だから、お前たちのなかにあって、聖なるものだから、もはやお前達の罪を告発し、暴き立て、裁くことをしないで、赦すというのです。これが神の正しさだというのです。

 神はわれわれ人間の罪を裁くというところにおいて、神の正しさをしめされたのではなく、われわれ人間の罪を赦すという愛のなかに、神の正しさ、神の義を示したのです。それがイエス・キリストをこの世に誕生させたというクリスマスの出来事であります。
 
 ヨセフは自分の持っている最良の正しさをもって、マリアをひそかに離縁しようとしました。その正しさは、確かに優しさという正しさでした。しかしそこにはやはり最後のところで、自分の立場を守る、あるいは自分の正義感を守る、自分の潔癖感を維持するという、自分を守るという主張を捨ててはいないのです。ですから、この優しさは、場合によっては、状況によっては、いつあの自分の立場を守ろうとしてイエスが生まれたというベツレヘムの付近の幼子をことごとく殺していくというあのヘロデ王の自己保身という罪に転落する、それとつながっているのだということをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 善良な市民がいつヒットラーのナチズムに荷担して、罪のないユダヤ人の大量虐殺にまわるかわからないのであります。

 聖書はこのマリアの子を「イエスとなづけなさい」というと共に、これは「おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という名前がつけられるというのです。インマヌエルとは、「神我らと共に」という意味であります。

 われわれの罪を露わにし、ただそれを糾弾するためにきたのではなく、われわれの罪を赦すためにこの世に来てくださったイエス・キリスト、そのかたによって神がわれわれと共にいますということがあきらかにされたのだというのです。

 ずつと以前にある新聞にひとりの看護婦さんの書いた記事を読んだことがあります。患者さんが看護婦に、もう苦しいからいっそのこと、注射でもうって、死なせてくれ、訴えるというのです。 そのとき患者はどの看護婦にたいしてもそのように訴えるのではないというのです。そう訴える患者に対して、「はい、わかりました。そのように医者に伝えます」とすぐ応じる看護婦には絶対にそんなことは訴えないというのです。患者からそう訴えられたときに、大変困惑し、「そんなこといわれてもそれはできないのよね」といって、患者の苦しみと痛み、その孤独と不安をわかって、共に苦しんでくれる看護婦を選んで訴えるものだというのです。そしてその人はこう書くのです。「本当の安楽死とは、痛みを和らげる注射をうつことではなく、自分を愛してくれてきた家族とか、それまで献身的につくしてくれた医者とか看護婦に見守られながら、息を引き取ることができると言うこと、これが本当の安楽死なのだ」と書いていたのであります。

 イエス・キリストを通して示された神は、われわれの痛みと苦しみを共に担い、共に苦しんでくださる神、われわれの罪をただ糾弾して裁かれるのではなく、われわれの罪を赦してくださる神、その神がわれわれと共にいてくださるのであります。