「悲しみ」 マタイによる福音書二六章三六ー四六節

 主イエス・キリストが悲しみを露わにした時があります。それはイエスが逮捕去られ前、ゲッセマネというところで、父なる神に祈ろうとした時であります。聖書はその時のイエスを「悲しみもだえ始められた」と記し、イエスご自身が「わたしは死ぬばかりに悲しい」といわれたと書くのであります。この時、イエスは何をそれほど悲しまれたのでしょうか。

 悲しみには、いろんな悲しみがあると思います。自分がなにか失敗して、それを悔やむ悲しみもあれば、人から何か言われて、傷つけられて悲しむということもあるかもしれません。そういう悲しみもあるかもしれませんが、しかしもっとも深い悲しみは、愛する人を失うという悲しみ、愛する人と別れなくてはならないという悲しみ、あるいは、愛する人から捨てられるという悲しみではないかと思います。愛する者から切り離されてしまうという悲しみであります。

わたしが親しくしております牧師が、三歳か四歳かになるお子さんが隣の家の池にはまって亡くされたと言う経験をなさいました。小さな池だったようですが、お姉ちゃんと遊びにいって、その子だけが池にはまってしまって、すぐ救急車で運ばれましたが、肺に水がたまって、入院して二、三日して死んでしまったという大変な悲しみに会われました。

一年くらい経ったと思いますが、近くで会がありましたので、その帰りに彼のところにお見舞いにいきました。一晩泊めてもらったのですが、彼はさすがに牧師ですから、落ち着いておりましたが、奥さんのほうはいまだにその悲しみから立ち直れなくて、わたしが行ってもその日は顔を出しませんでした。四国時代には、奥さんとも親しくしていたのですが、挨拶にも顔をみせませんでした。さすがに翌朝は、顔をだして朝食の準備はしてくれましたが、ほとんど会話らしい会話はできませんでした。一年経っても、外に買い物にも行けなかったそうです。亡くなられたお子さんの写真の前には、奥さんが自分で造ったぬいぐるみ人形が沢山かざられていて、それは異様な光景でした。

その牧師がその時こんな話しをしました。子供が亡くなったときに、近くの牧師がおくやみにきて、自分も同じように子供を失っているから、あなたの気持がよくわかるというのです。そして一緒に讃美歌を歌いましょう、お祈りをしましょうといって、慰めようとしたというのです。それは彼にはとてもわずらわしく、不快であったというのです。

その時に彼は思ったというのです。そういう深い悲しみを経験してみて、悲しみというのは、みなそれぞれに悲しいのであって、同じ悲しい経験をしたからといって、他人の悲しみがよくわかるなんてことは到底いえないのだ。悲しい経験をしてみてはじめて、人の悲しみが分かるとか、分かり合えるなんてことは到底言えないことがわかったというのです。

 愛する者を失うというのは、それほどに深いのです。トルストイのある小説の冒頭に「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という言葉があって、印象に残っています。悲しみというのは、それぞれに悲しいのであります。それほどに深いということであります。

誰かを失うとき、誰かが死んでしまうとき、あるいは、死なないまでも、その人と別れなくてならないというときに、もしその人を愛していなかったならば、別に悲しみは起こらないと思います。困るかもしれません。不便になると思うかもしれません。しかし悲しむことはないかもしれません。そこに愛がなかったならば、悲しみはおこらないと思います。悲しみが起こるということは、そこに愛があるからであります。

 イエス・キリストは逮捕される前に、ゲッセマネというところに行って、父なる神にこう祈っているのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。「杯」というのは、「苦き杯」ということで、十字架で死ぬということであります。つまり、「十字架という死を過ぎ去らせてください、十字架で死なせないでください」と祈っておられるのです。

 この祈りは、われわれを不思議な思いにさせます。なぜかといいますと、それまでイエスは再々にわたって、弟子達に自分は十字架で死ぬのだと告げているからであります。なぜこの期に及んで、「自分を十字架につけないでください」と祈られたかということであります。みっともないといえば、大変みっともないことであります。しかもそれを三人の弟子達の前で祈られ、その祈りの言葉を隠そうとなさらなかっのです。むしろ、この三人の弟子達に聞かせるようにして、この自分の祈りを、目を覚まして記憶しておいてくれるようにと、祈られたのであります。
 なぜ主イエスはこの期に及んで十字架で死ぬことをためらったのでしょうか。

 ここで注目しておきたいことは、この祈りをする前にイエスは、弟子達に「わたしは死ぬばかりに悲しい」といわれたということなのです。

 イエスはこの期に及んで、十字架の死を恐れたわけではないのです。十字架刑という、その肉体の苦痛を恐れたわけではないのです。あるいは死んだあと、どこにいくのかという不安に陥ったわけでもないのです。死ぬことを恐れたわけではなく、死ぬことを悲しまれたのです。恐れたのではなく、悲しまれたのです。このことが大事だと思うのです。

 イエスにとってこの悲しみはどういう悲しみだったのでしょうか。
 今イエスは、いわば敵の手によって殺されようとしているのです。敵の手に引き渡されようとしているのです。いわばサタンの手に引き渡されそうになっているのです。それは神から引き裂かれることなのです。イエスはこのゲッセマネの園で「本当にあなたはわたしが十字架で殺されることを望んでおられるのですか。これはあなのみこころなのですか、あなはわたしを敵の手に渡してをお見捨てになるのですか」と、父なる神に祈っているのです、問うているのです。

 「自分としてはどうしても今敵の手に陥りたくない。敵の手に陥って死にたくはない。しかしもしこれが本当にあなたが望んでおられること、これがあなたのみこころならば、わたしはあなたに従います。なぜなら、これがあなたのみこころであるならば、あなたの意志であるならば、それはあなたがわたしを見捨てていないということだからです。だから安心して死んでいけます。これはあなたのみこころなのですか」と問うているのです。

 しかし、父なる神はこのときイエスに何一つ答えようとしないのです。父なる神は全く沈黙しているのです。

 イエスは、このあとも、自分が十字架で死ぬということは、神に見捨てられるということになるのではないかということを、ずっと思い続けたようです。父なる神にその答えを聞こうとしていたと思います。しかし神の答えはなかった。

 イエスが十字架につけられたのが、朝の九時です。そして息を引き取ったのが午後の三時です。その間イエスは何一つ言葉を発していないのです。その六時間の間イエスは自分は本当に神に見捨てられてしまうのかと思い続け、その最後に出た言葉が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの絶叫になったのではないかと思います。それは自分は神に見捨てられてしまうという悲痛な悲しみの叫びであります。

 イエスはただ死ぬことを恐れたのではないのです。この死が神に見捨てられることになるのではないかと思い、悲しまれたのです。それはイエスにとって本当に悲しいことだったのです。死ぬばかりに悲しいことだったのです。つまり、イエスにとっては、神に見捨てられるということは死ぬばかりに悲しい、死ぬことよりも悲しいことだったのです。そしてそれは恐ろしいことだったのです。

 悲しみは、愛がある時であります。愛のない人は悲しまないと思います。悲しみというのがわからないと思います。悲しみが分からない人は愛がない人です。
 イエスは今、自分がもっとも愛している父なる神から切り裂かれ、見捨てられようとしているのであります。イエスにとってこんなに悲しいことはないのです。

 それに対してわれわれはどうでしょうか。われわれは神から見捨てられることを悲しいと思うだろうか。われわれは神から見捨てられることを怖いとは思うかもしれません。恐いとは思うかもしれません、しかし悲しいと思うだろうか。

 神に見捨てられることを怖いと思うのは、神に見捨てられて地獄に突き落とされるのではないかを恐れるからではないか。それは、神から切り離されるから怖いのではなく、ただ自分が地獄にいって自分が苦しめられるのが恐いだけの話しであります。それはどこまでいっても、自分中心なのです。自分が怖い目にあいたくないというだけの話です。それは神の愛から切り離されてることが悲しいというのではなく、ただ自分が恐い目に会うのがいやだというだけなのではないか。

それはちょうど、夫が死ぬのを恐れるのを、夫と一緒にいられなくなるということを悲しむのではなく、夫が死んだら、あとの生活費はどうなるのかと恐れるだけの話しと同じであります。夫と別れるのが悲しいのではなく、あとの生活が心配だというだけの話しなのです。

 しかしイエスのこの時の気持は、神から見捨てられることが悲しいと言うことなのです。父なる神との関係だけは何としてでも裂かれたくないと思ったのです。

 われわれはどうでしょうか。われわれはクリスチャンでありながら、本当に神から捨てられることを悲しいと思っているだろうか。われわれは人から捨てられることは悲しいと思うかもしれません。人から裏切られることは悲しいと思うし、口惜しいと思います。そのために、人から捨てられないためには、われわれは最後のところでは、神をも捨ててしまうことさえある、信仰すらすてることさえあるのではないかと思うのです。

たとえば、家族関係のなかで、夫からお前は教会に行ってはいけないといわれて、どんなにあっさりと信仰を捨ててしまうかであります。あるいは、会社の人間関係のあつれきを避けるために、自分がクリスチャンであることを隠して、日曜日に教会にいかなくなる、そうしたことをわれわれはやっているのではないか。
 そして、われわれは教会の中でも、その人間関係に躓いて、それがいやになってどんなにあっさりと教会から離れ、信仰を捨ててしまうかということであります。
 神との関係なんかは本当はどうでもいいのであって、やはり人の関係が大切なのであって、ということではないか。

 しかしそのことをさらに考えていきますと、われわれが人に捨てられるということが悲しいということでさえ、本当には人に捨てられることが悲しいのでなく、人との関係が裂かれること自体が悲しいのではなく、それは結局は人から捨てられて、自分が孤独なる、自分が困る立場に置かれる、そのことが恐いのであって、結局はただ自分がかわいいだけであって、結局は自分さえ良ければいいと思うところがあるのではないか。そうしますと、われわれは人の関係においてさえ、その関係が破れることを、切り裂かれることを、悲しんでいるのではなく、ただ自分の都合が悪くなる、その人がいなくなって、不便になるということを恐れているだけということなのかもしれません。

 われわれの罪は、そこにあるのではないか。自分さえ良ければいいという、密かな自己中心性、それがわれわれの罪というものではないか。それは少しむずかくいえば、少し気取ったいいかたをすれば、関係性の破壊ということです。これがわれわれ人間の罪ということではないかと思います。神との関係を破壊する、人との関係を破壊する、そしてただただ自分を中心にして生きていく。

われわれはもちろんひとりでは生きていけませんから、この自分のひとりの幸福を壊さない程度の交わりをわれわれは欲している、自分ひとりの幸福を壊さない程度の関係をもとうとしているだけなのではないか。ですから、自分の幸福をみだすほどにその関係が食い込んでくると、もうわれわれはその関係から逃れようとするのではないか。われわれが一番望んでいるのは、ほどほどの関係なのではないか。

 今、若い人が結婚をなかなかしたがらないのは、そのような深い関係をもちたくないということであって、深い関係が煩わしい、深い関係になって傷つくことが恐いというように、それはそれほどまでに、自己中心的になっていることではないか。それは幸福なことだろうか。

 われわれは自己中心的な人間であります。しかし、そういうわれわれでも、ある時に、愛する者を失ったときに、われわれは悲しみに突き落とされる。普段は、ただ自分に取って便利だから、自分にいろいろと経済的なものをあたえくれるからありがたいと思っているだけの関係でしかないとおもっていても、いざその人が死んでしまったときに、われわれはその人がどんなに大事な人だったかということがわかるのではないか。死なれてみて親の愛というものがわかる、あるいは夫の愛がわかる、妻の愛がわかる、それは単なる自分の利己的な思いを超えた関係だったということがかわるのでなはいか。

死なれてみて、はじめてその人との愛の関係がわかる、単なる経済的な関係だけだったのではなかったことがわかる、われわれにとって一番大事なことは、愛の関係だったのだということがわかるのではないか。

だれが言ったかもう忘れてしまいましたが、ある人が、自分にとって、仲のいい友達のことを思うと、みな愛する者を失った経験をしていることがわかった、その家で葬式をだしていたことがわかった、と面白いことをいっておりました。なぜ愛する者を失う経験をすると良い友達になれるのかというと、愛する者を失って、悲しみを経験して、愛の大切を知らされる。だからなんとなく、その人は優しい人間になっているということではないかと思います。

 聖書でいっている罪、キリスト教でいっている罪というのは、何かわるいことをしたとか、汚れたことをしたとか、不真面目な生活をしたとかということではないのです。罪とは関係性の破壊ということであります。そしてわれわれ人間はそのことがどんなに悲惨なことか、悲しいことであるかに気づいていないのです。自分ひとりさえ幸福でありさえすればいいと思っているのです。 

 そしてそれがどんなに悲惨なことでりあり、悲しいことであるかをわれわれはわからない。その人に死なれてみてはじめて、それがどんなに悲しいことであり、悲惨なことであるかがわかるのではないかと思います。
 神はそのことをわれわれ人間にわからせるために、神はご自分のひとり子イエスを十字架で死なせるのであります。父なる神は、今イエスを罪人のひとりとして、十字架で死なそうとしているのです。自分のことしか考えようとしない罪のなれの果ては、神に捨てられることなのだということをどうしてもわからせなくてはならなかったのです。
それ以外にわれわれは自分の罪を知ることができなかったのです。

 よく言われることですが、健康のありがたさというのは、いちど病気になってみないとわからないといわれます。病気になってはじめて健康のありがたさがわかるというのです。
 死なれてみて、はじめてその人の関係がどんなに大切だったかわかるのです。

 イエスをこよなく愛していた弟子達も、最後には結局は自己保身のために、イエスを裏切り、イエスを敵の手に渡してしまい、死なせてしまう、この時、弟子達もイエスに死なれてみて、本当に悲しかったと思います。神はその悲しさを味会わせることによって、われわれ人間に罪を悟らせたのであります。

わたしはもう七年にもなりますが、三十三歳の息子をガンのために失いました。死ぬ最後の一週間は、自分の死を敏感に感じたのか、病院で面会時間が来て、彼と別れなくてならないときに、彼は母親に「もう少しいてくれ、十分でもいいから、もう少しいてくれ、一分でもいいから、いてくれ」と、三十三になる男が母親にただをこねました。われわれ親が病室を去ろうする時にみせた彼のものすごいまなざし、親の顔をじっと見つめるまなざしに、こちらは耐えられないで目をそらしたほどであります。

 最後の時は、もう酸素吸入器をつけられましたが、まだ意識ははっきりしておりました。眼鏡をかけたままでしたので、わたしはいつも寝る時には眼鏡を外しますので、少しでも楽にさせてあげようと彼から眼鏡をとろうとしましたら、いきなり、大きな声で「取らないで」と叫んだのです。わたしは大変びっくりしました。それが彼とか私がかわした最後の言葉になりました。それから数分後息を引き取ったのであります。彼は最後まで、親の顔を自分の脳裏にやきつけておきたかったのではないかと思います。

 わたしは牧師でありながら、自分の息子を見舞うときには、聖書の話しもしないし、祈りもしませんでした。教会員を見舞う時には、もちろん必ずそうしておりましたが、自分の息子となると照れくさいということがあって、そんなことはできなかったのです。わたしは自分の子供には表だってキリスト教教育というものを何一つしていないのです。まあ、さぼりながらではありますが、礼拝には出て、わたしの説教を聞いてはいるのですから、改めて話すことはないなと思っていたのです。子供達はさいわいみな洗礼はうけていますが、みな高校生のときに洗礼を受けたわけですが、これもほとんど幼児洗礼みたいなもので面と向かって聖書の話しはしていないのです。

 そういうふうに子供たちと接触してきましたので、見舞いにいって、突然聖書の話をしたり、お祈りをしたりしたら、照れくさいということもありましたが、それ以上にわたしが恐れたのは、彼が自分の病気は深刻な状況で、死が近いのではないかと思うのではないかとということでした。彼にはガンであることは告知はしていたのです。しかし医者はこれは治るガンだといっていたし、放射線治療の結果ではガンは治っているといっていたので、われわれ親は安心しきっていたのです。
 
しかし一向に回復にむかわない、どんどん体力が衰えていくばかりだというときに、わたしもさすがにもしかしたら、駄目なのではないかと思うようになりました。なによりも、われわれ親が病室を去る時にみせた彼のものすごい悲しそうなまなざしをみた時に、これはただごとではないと思うようになりまして、ある時から帰り際に祈るようにしました。聖書も読むようにしました。彼もそれを望むようになりました。家内とは、友人の牧師にきてもらって、聖書の話しをしてもらおうかと話しあいました。
 
彼はもうその時は、自分の死を自覚していたのではないかと思います。そうしてその死に際しては、ただ親の愛、家族の愛だけではどうしてもだめだと思ったと思うのです。その時に切実に神の助けを求めていたのではないかと思います。

 彼が一時自宅に帰って、療養したときに、夜どんなに睡眠薬を飲んでも眠れない時に、三十三になる男がまるで幼児にもどったかのようにして、われわれ親に対して、一緒に讃美歌を歌ってくれとか祈ってくれとか、大きな声でわめいたことが何度もありました。彼が空で歌える讃美歌は「きよしこの夜」だけでしたので、それを深夜歌ったり、一緒に「主の祈り」をとなえたりしたことがあります。
 それはもうまるで赤ちゃんにもどったような状態でした。

わたしはそのことを思い起こすときに、人は生まれた時に赤ちゃんであるのと同じように、人は、死ぬときにも幼子にもどって、親に甘え、神様に甘えないと死ねないのではないかということなのです。主イエスが、「幼子のようにならなければ、天国に入れない」といわれたのは、このことだったのではないかと思ったのであります。

 われわれは死ぬ時には、そのように誰かがかたわらにいてもらいたいのです。

わたしはよく葬儀の時に引用する詩があります。それは永瀬清子さんの「悲しめる友よ」という題の詩です。
「悲しめる友よ、女性は男性よりさきに死んではいけない。男性よりも一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない。男性がひとりあとへ残ったならば、誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男よりも弱い者であるとか、理性的でないとか、世間をしらないとか、さまざに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。これらの仕事はどこの田舎の老婆も知っていることであり、女子大学で教えないだけなのだ」
 という詩であります。
 
 人が死ぬ時には、だれか愛する者がそのかたわらにいてあげなくてはならないというのです。それはもちろん男性とか女性とかと言う問題ではないのです。

 しかし、われわれ人間にそれができるだろうか。親はそれができるだろうか。わたしはできなかったのです。人間ではだめなのです。人間は一緒に死の陰の谷を歩むことはできないのです。それは神様しかおられないです。死ぬときに、詩の陰の谷を歩む時には、どうしても神さまが共にいていただかないとだめなのです。
 それなのに、われわれはその神様の関係をどんなに粗末にしてしまっているかということであります。

 父なる神はこのイエスを見捨てたままにはしませんでした。このイエスを神は三日後によみがえらせたからであります。イエスの復活は、神はイエスを最後には見捨てなかった、それはつまり、われわれ人間、われわれ罪人である人間を神は見捨てなかったということをわれわれに示しているのであります。

 そして、大事なことは、神はそのことを十字架という悲しみを味あわせることによってそのことをわれわれに示してくださったということです。それは十字架なき復活ではなく、十字架を通しての復活だったのであります。一度徹底的に神に捨てられる悲しみを味あわせて、その上でその悲しみを慰めてくださった、それがイエスの復活であります。

 神様に見捨てられるということがわれわれにとって、どんなに悲しいことか、そしてそれはどんなに恐ろしいことであるかを知ることです。その神様との関係をわわれわれがどんなに粗末にしてしまっているかということであります。

 今日はこのあと讃美歌を三九九番をうたいますが、これはわたしの好きな讃美歌の一つであります。これは「天のちからにいやしえぬ悲しみは、地にあらじ」と繰り返し、繰り返し、歌われる讃美歌です。ここでは痛みとか苦しみとはいっていないのです。「天のちからに癒し得ない悲しみは」と歌うのです。肉体の痛みや苦しみは、お医者さんに注射で緩和して貰う以外にないかもしれません。こればかりは祈っても緩和されないかもしせません。医者に頼る以外にないかもしれません。

 しかし、悲しみだけは、神様しかいやすことはできないというのです。そして神様はそれをしてくださるというのです。なぜなら、神は、愛において傷つき、愛に悲しんでいる者を慰めて下さるもっとも深い愛のかただからであります。