「わたしは主のはしためです」 ルカによる福音書一章二六ー三八節

 フランクルという人の書いた「夜と霧」という本がありますが、ナチによるユダヤ人大量虐殺のために、ただユダヤ人というだけの理由で強制収容所に入れられ、まだ働ける者は強制労働にかりだされ、働けない者はガス室にただちに入れられて殺されていった、その強制収容所の一つ、アウシュビッツの強制収容所に入れられていた精神医学者であったフランクルという人が自分の体験を静かに書き記した本ですが、その本の中に、一九四四年のクリスマスと一九四五年の新年との間にその収容所では今までなかったほどの大量の死亡者が出たということが記されております。

それは過酷な労働がその時期に科せられたわけでもなく、悪化した栄養状態によってでもなく、悪天候や新たに起こった伝染病によってでもないというのです。ただ一つ考えられることは、その収容所にいた囚人の多くの人がクリスマスには家に帰れるだろうという世間で行われる素朴な希望に身を任せた事実の中に求める以外にないというのです。クリスマスが近づいてくるのに収容所には何の明るいニュースも入ってこなかった。その漠然とした失望や落胆が人々を打ちのめして、生きる意欲を奪い、多くの人を死に向かわせたのだということであります。

その収容所にいた人々はみなユダヤ人であります。クリスチャンもいたかもしれませんが、多くは恐らくユダヤ教徒であります。そのユダヤ教徒の人たちが、クリスマスにはなにかいいことがあるのではないか、解放のきざしが起こるのではないかというかすかな希望をもったということは、考えるとおかしなことかもしれませんが、しかしクリスマス、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスには、それだけのイメージを引き起こさせるものがあるということなのかもしれません。クリスマスにはキリストを信じる者にとっても信じないものにとっても、なにかを期待させるものをもっているということであります。
 
しかしその期待ははずされてしまった。その希望は失望に終わってしまったのであります。そのために生きる力を失って多くの死者をだしたというのであります。

 中国の詩人の魯迅が引用して有名になった言葉にこういう言葉があるそうです。「絶望が虚妄なること まさに希望に相同じい」という言葉です。これはもともとはハンガリーの詩人のペテーフィ・シャンドルという人の詩の一節を魯迅が引用して有名になった言葉だそうです。「絶望が虚妄であること、つまり絶望がむなしいことは、希望がむなしいことと同じだ」ということであります。もう少し説明しますと、われわれ人間にとって希望というのは、いつも失望に終わってしまう、それはもうわれわれはいやというほど味をされてきているのであります。だから、希望が虚妄であるということは誰しも知っていることであります。しかしそれならば、絶望のほうが確かな人生の事実かといえば、いや絶望だって、それほど確かな事実ではない、絶望だってむなしいものだ、希望がそうであるように、ということであります。

 希望というものがむなしいように、われわれの絶望だってむなしい、絶望だって、確かではないのだから、自分勝手に絶望するな、自分勝手に絶望を決め込むなということを言おうとしたのではないかと思います。

 アウシュビッツの収容所に入れられていた人々がクリスマスにいだいた希望、そして絶望、それはどちらも虚妄にすぎなかった、クリスマスにはなにも起こらなかった、だから絶望してしまう、しかし本当はその絶望すら、それが人間が勝手にいだく絶望にすぎないのではないか。だからその絶望を最後の絶望として決め込むな、そのクリスマスになにも起こらなくても、だから絶望しきる必要はない、なぜなら、クリスマスに何か良いことが起こるだろうという希望が虚妄ならば、それがかなえられないからといって失望する、絶望する、それもまたむなしいことだからであります。われわれはしばしば自分の絶望を絶対化してしまって、生きる意欲を失ってしまうのであります。自分の絶望をそんなにおおげさに考えるなということであります。

ルカによる福音書が語るクリスマスの出来事は、ひとりの老人のザカリヤの希望と失望の物語から始められております。ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった、という物語から始められております。このふたりとも神のみ前に正しい人であった。しかしこのふたりには子がなかった。ある時そのザカリヤが主の聖所に入って香をたいていた時に、主の御使が現れて、「あなたの祈りが聞きいれられた、あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう」と告げられるのであります。

するとザカリヤはそれを信じられなくて「どうしてそんな事がわたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言った。すると御使は言った。「わたしは神のみ前に立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされた者である。時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起こる日まで、ものが言えなくなる」と言われてしまったというのであります。

天使から「あなたの祈りは聞かれた」というのですから、ザカリヤは「子供が与えられるようにと」と一生懸命に祈っていた筈であります。もう年をとって人間的には子が与えられることが不可能だと思われる年齢になってしまっていた、それでもそう祈っていた筈であります。しかしそう祈っておりながら、いざその望みがかなえられた時には、彼はそれを信じられなかったというのであります。

ザカリヤは、われわれがそうであるように、神ならば自分の願いをかなえてくださると、自分達に子供があたえられることを願って一生懸命祈っていたのであります。神に希望を託していた。しかしその希望は自分の思い通りにはかなえられなかった。彼はあきらめていた。口では祈っていながら、彼はもうあきらめていた。今神はそのあきらめを打ち砕いたのであります。彼のあきらめが虚妄にすぎないことを告げたのであります。

 もし彼が本当に神に望みを託していたのであるならば、いつまでも望みを失わないで、あきらめないで、希望を持ち続けるべきだったのであります。それが神を信じるということだったのであります。彼は神を信じていなかったのであります。それで天使から「時がくれば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになる」と言われてしまい、彼は子供がうまれ、その子にヨハネという名前を記すまで、口がきけない状態が続き、神に裁かれたというのであります。
 
ザカリヤはなぜ神に裁かれたのか。それは彼が自分勝手に神に望みをかけ、そして自分勝手に望みを失い、失望し、絶望していかたらであります。もし彼が本当に神に望みを託していたのであるならば、どんなに人間的可能性からいって、子が与えられることが不可能であっても、神を信じるならば、神に望みを託すのであるならば、自分勝手にあきらめることは許されないことなのであります。だから彼は裁かれたのであります。自分勝手な希望が虚妄になるのと同じように、自分勝手な絶望もまた虚妄にすぎないのであります。
 神を信じるということは、ほかならないい神を信じるということであるならば、どんな時にも望みを失わないということでなければならないのであります。なぜなら、神を信じるということは、「神にはなんでもできないことはありません」という神を信じるということだからであります。

ルカによる福音書は、続いて、このザカリヤと対照的にマリヤの信仰について述べるのであります。マリヤのところに御使ガブリエルがつかわされました。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」と天使はいいます。するとマリヤはひどく胸騒ぎし、それはなんだろうと思った。すると、御使は「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいている。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスとなづけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子ととなえられるでしょう」。その言葉を聞いてマリヤは驚きました。「どうしてそんなことがあり得るでしょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。これはザカリヤが御使の言葉に疑ったこととは違います。
これは神に対する疑いの言葉ではなく、「夫がないのに子が生まれるはずはない」という事実をのべただけであります。すると、御使は「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら、子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六ヶ月になっています。神にはなんでもできないことはありません」とマリヤに告げます。それを聞いてマリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と、その御使の言葉を受け入れたというのであります。

御子イエス・キリストの誕生には、このマリヤの神に対する信仰、「わたしは主のはしためです、わたしは主のしもべです、お言葉どおりになりますように」という神に対する信頼から始まるのであります。

これは処女降誕を告げております。処女降誕という出来事はわれわれには到底受け入れがたいことかもしれません。しかし聖書はただマリヤという処女に子が生まれたという奇跡を告げようとしているのではなく、この処女降誕という出来事の背後には、男性が排除されて、神の子が誕生したのだということを告げようとしているのであります。ここにはマリヤの婚約者ヨセフは一切登場しない。この後、マリヤはこの事を婚約者のヨセフに告げにいかないで、エリサベツのところに行くのであります。これも不思議であります。

ルカによる福音書の受胎告知、処女降誕の出来事は、男性であるザカリヤが裁かれて、口がきけなくなり、そしてヨセフは登場しないのであります。ある神学者がそのことをとらえて、処女降誕というのは、人間を代表する男性、つまり罪人を代表する男性が排除され、神の霊によって神の子が誕生するということをあらわしているのだというのであります。処女降誕を単なる奇跡として受け止めるには無理があるかもしれまんせが、そこには罪人を代表する男性が排除されるという神学的な意味と共にうけいれなくてはならないのだというのであります。
 
ルカ福音書のイエスの誕生の記事は、ザカリヤの不信が裁かれ、そして男性のヨセフがひとつもここには登場しないところから始められのであります。ヨセフが登場するのは、二章に入ってからで、そこでもヨセフは主役ではないのであります。それに対してマタイによる福音書では、御使はマリヤではなく、ヨセフに現れるのであります。ヨセフはマリヤが身重になったことを知ると、マリヤが不貞を働いたのだと思い、彼は正しい人であったので、ひそかに離縁しようとしたというのであります。そのヨセフに「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名付けなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と、告げられて、ヨセフはマリヤを受け入れたと述べるのであります。ここではヨセフが主役になっておりますが、しかしここでもまた男性ヨセフのいだく「正しさ」がしりぞけられて、神の正しさを受け入れさせられて、御子の誕生があったことを告げられているのであります。

ルカによる福音書は特に、ザカリヤの不信と対照的にマリヤの信仰、マリヤの御使に対する信頼を描いて御子イエスの誕生を告げるのであります。ザカリヤの不信とは、人間の勝手な希望とまたそのための勝手なあきらめ、失望、絶望であります。それが裁かれていくのであります。それに対するマリヤの信仰とは、信仰というよりは、信頼であります。「神にはなんでもできないことはありません」という御使の言葉に対する信頼であります。

 アウシュビッツの強制収容所にいる人々がクリスマスにいだいたものは、クリスマスに対する期待であります。しかしそれは神に対する信頼にはいたっていなかったのではないか。期待というのは、こちら側、期待する人間の願いであります。しかし信頼というのは、相手を信頼する、自分を信じるのではなく、相手を信頼する、相手に委ねるということであります。われわれの祈りは必ず期待から始められます。しかしそれがほかならない神に対する期待であるならば、それはどこかで信頼にかえられていかなくてはならない筈であります。期待から信頼に、それが祈りと言うものでなくては成らないはずであります。

もしクリスマスに対する期待が神に対する信頼に変えられていたのであるならば、たとえそのクリスマスに解放というニュースがなくても、なお希望を失うことはなかったのではないか。

キェルケゴールドという人が「死に至る病」という本を書きましたが、その本のなかで彼が言っていることは、死に至る病とは絶望のことだ、望みを失うということ、それが死に至る病だといっているのであります。それは精神の病気だけでなく、からだの病気でも病気の一番の問題はもうだめなのではないかとわれわれから希望を失わせることであります。

パウロが病気になった時に、彼はそれを始め、サタンの使いだと受け止めました。病というのは、サタンの使いなのです。ですから、われわれは簡単にこの病は神からのものだなどと受け止めてはいけないのです。それはサタンの使いなのですから、われわれは全力をあけでその病とたたかわなくてはならないのです。単純に病と仲良くなることはないのです。それでパウロは必死にその病と戦い、神に祈った。彼はなんと祈ったかといいます、「彼を去らせてくださるようにと三度も主に祈った」と、書いております。

つまり、彼はただ病をいやしてくださいと主に祈ったのではなく、その病の中にはいりこんでいるサタンの働きを過ぎ去らせてくださいと主に祈ったのであります。その祈りは聞かれたのです。主が言われた。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところにあらわれる」。病そのものはいやされなかったのです。しかしその病のなかに潜んでいるサタンには勝つことはできたのです。

サタンはどのようにその病にひそんでいたか。それは「もうお前はだめだ、もうお前は死ぬのだ、そして死んだらもう終わりだ」、そうパウロにささやきかけていたのであります。それに対する主の答えは、「そうではない、おまえは病気でも、たとえ病気のままでも、神の恵みはお前に働いているのだ、働くのだ。たとえ死んでも、望みを失うことはないと、いうことであります。
サタンの働きとは、われわれから希望をとりあげることであります。そして絶望させることであります。神に対する信頼を失わせることであります。しかし人間の絶望は虚妄にすぎないのであります。

神を信じるということは、年をとっても子が生まれるとか、処女降誕を信じなくてはならないとか、そういう荒唐無稽なことを信じなくてはならいということではないのです。ザカリヤのこと、マリヤの処女降誕が嘘だということではないのです。それは特別なことであります。われわれにはよくわからないところがあるかもしれませんが、それを受け入れるのです。そしてそのことをとうして、われわれは自分の現実の生活のなかで、「神にはできないことはありません」という御使の言葉を受け入れる、荒唐無稽にそのことを受け入れるのではなく、自分の現実のなかで現実的にそのことを受け入れるのです。つまりどんな時にも望みを失わない、自分の絶望が虚妄にすぎないことを知ることであります。

クリスマスにわれわれもマリヤと共に、「わたしは主のはしためです。お言葉とおりこの身になりますように」と祈りたいと思います。