「病をいやすイエス」 ルカ福音書四章三一ー四四節

 イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々に教えました。その言葉に権威があったので、彼らはその教えに驚いた。すると、汚れた霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫びだした。それでイエスはその人からその汚れた霊を追い出したのであります。イエスが宣教を開始した時の第一声は、マルコ福音では「神の国が近づいた」と宣言し、ルカによる福音書では、「めぐみの年が成就した」と宣言したと記されております。そうしてマルコもルカも、そのあとイエスが最初になさったことが、汚れた霊を追い出したということだったと記すのであります。

 今日の説教の題は、「病をいやすイエス」という題をつけましたが、本当は「悪霊を追い出すイエス」あるいは「汚れた霊を追い出すイエス」にしたかったのですが、いつもいいますように、説教題を記した看板をだしますので、そんな題をつけますと、なにかオカルト的な感じがしますので、「病をいやすイエス」という題にしました。新約聖書では、この汚れた悪霊と病気との関係がはっきりしないところがあります。重い病気にかかった人のことを悪霊にとりつかれた結果そうなったのだというところもあります。たとえば、十八年も病をわずらっていた女に対して、イエスは「十八年間もサタンに縛られていたアブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」と言っております。ですから、聖書の時代には、病は、とくに重い病は、悪霊によってそういう病気になったのだという考えがまだあった時代です。それはたんに精神的な病だけでなく、肉体の病についてもそういわれているのであります。ここでは、「十八年間もサタンに縛られていたアブラハムの娘」となっておりますから、サタン、つまり悪魔と、悪霊との関係も問題になるかもしれま せん。
 一体、サタンといわれる悪魔と、悪霊、汚れた霊とどういう関係にあるのか、そしてそれと病気との関係はなにか、聖書にははっきりしないところがあります。
 今日考えみたいことは、悪魔と汚れた悪霊とどう違うのかということであります。それは密接な関係にあることは間違いはないと思います。たとえば、ヨハネの黙示録では、「悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣窟」を神は終末の時に滅ぼすと預言されておりますので、悪魔と汚れた霊とは同じだといってもいいかもしれません。

 しかし今日の聖書の箇所にあります「汚れた悪霊」と、前に学びましたイエスを荒野で試みた「悪魔」とは明らかに違う存在として描かれているのではないかと思われます。荒野でイエスを試みた悪魔、つまりサタンはイエスと対等に渡り合う、堂々とした存在として描かれてるおります。それに対して今日の聖書の箇所にでてまいります「汚れた悪霊」は、イエスに対して「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」というのです。それに対してイエスが「黙れ、この人から出てゆけ」と命じますと、「悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った」と記されていて、あの荒野でイエスと堂々とわたりあったサタンとはどうも違うように書かれているのであります。
 イエスはある時こうも言っております。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と宣言しているのであります。しかしまた聖書では、「終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを討ち滅ぼし、国を父なる神に渡される」と記されていて、悪魔そのものを滅ぼすのは終末の時だというのであります。そうしますと、悪魔と汚れた悪霊とはやはり少し区別して考えたほうがいいように思われます。このことについてこれ以上深入りするつもりはありませんが、鬼神学とか悪魔学とかという分野があるようですが、そんなものは結局わからないことをわかったようにいうだけの話しでこれ以上深入りする必要はないとおもいますが、ただイエスによって、汚れた悪霊は追い出された、その支配は神の支配にとって代わられたのだという点は、聖書でははっきりと示されていると思います。そしてイエスがこの世に来たことによって、悪霊、汚れた霊は追い出された、しかしその背後にある悪魔そのものは、終末の時に完全に滅ぼされるのだというのが聖書の述べるところだと考えてもいいのではないかと思い ます。
 今日はイエスによって追い出された悪霊、汚れた霊について学んでみたいと思います。

 聖書に出てまいります、この汚れた悪霊は、いわゆる悪魔、サタンとは違って、人間に対して独立した存在としてではなく、人間の心に住みつく、何かに依存してすみつかないと存在できないものとして描かれているのが特徴であります。今日のテキストでは、「汚れた悪霊にとりつかれた人」と描かれ、イエスから「黙れ、この人から出て行け」と命じられると、「悪霊は彼を人なかに倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った」と記されております。他の箇所では、悪霊にとりつかれた人の前にイエスが来た時、悪霊は自分達がその人からおいだされるのではないかと察知して、イエスに対してこういうのです。「自分たちを底知れぬ所に落ちていかないようにしてくれ」と懇願し、そこに豚がたくさんいたので、「その豚の中にはいることを許してくれ」と願ったというのです。悪霊は自分達だけでは生存できない、なにものかに依存し、寄生虫のように寄生しないと存在できないものとして描かれております。人間から追い出されるならば、せめて豚の中に入ることを許してくれというのです。
 イエスがパリサイ人や律法学者を批判したたとえでは、「汚れた霊が人から出ると、安住の地を探し求めて水のないところを探し回るけれど、なかなかみつからないので、もといた場所にきてみると、その人の心のなかはそうじがしてある上に、飾り付けがしてあったので、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてその人の中に住み着いてしまった。そうなると、その人の状態は前の状態よりももっと悪くなる」と、イエスは皮肉るのであります。自分たちは完全だ、自分たちは汚れた霊を見事に追い出してやったなどと自慢している、自分たちは律法を守ることによって立派な人間になったなどとおごり高ぶり、そうしてだらしのない人間を批判し、裁いていると、悪霊はそういう人間の完璧主義という心のなか、きれいずきの人の心のなかに住み着いてしまうというのであります。このたとえでも、汚れた霊は人から追い出されると、自分の行き場を求めて探し求めるというのです。つまり悪霊は自分ひとりでは存在できないで、なにかにすがっていかないと生きていけないものとして描かれているのではないかと思います。
 それは繰り返すようですが、あの荒野でイエスと対等に堂々とわたりあったサタンとは違うものとして、もっと弱々しいものとして描かれているのではないかと思います。そしてその悪霊が住み着く人間は、その人間その人が実はなにものかに依存しないと生きていけない人間なのではないか。そういう病に陥っている人なのではないか、その心の隙につけ込まれて悪霊を自分の中に住まわせてしまっているのではないか。それは律法を守ることによって自分は完全になった、きれいになったと自分で自分を認めて、そうして自分で自分を守ろうとする、そういう完璧主義者、そういう自己義認にたよって生きようとする人、その人もやはりそういう自己義認に依存して生きようとしている人なのではないかと思います。
 つまり悪霊に住み着かれてしまっている人は、どこか大変依存心の強い人、自立していない人、なにものかに支配されないと生きていけない人なのではないか。

 その汚れた悪霊につかれた人は安息日に会堂にいたのであります。会堂にいて、聖書の話しを聞いていたのであります。静かに聖書の話しを聞くのが好きだったのであります。そこは大変居心地のよい場所だったのであります。ある意味では、この人は宗教が好きだったのです。信仰が好きだった。しかしそこにイエスが来た。そしてそのイエスの言葉には権威があった。人をただ安住させるというような甘い言葉ではなかった。人の魂を揺さぶるような権威ある言葉を語った。それで彼はそれまでおとなしく聖書の話しを聞いていたのですが、突然「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と叫びだしたのです。
今日日本の社会では、宗教が問題になっております。それはいわゆるカルト的な宗教であります。カルト的な宗教というのは、いわゆる迷信まがいのオカルト的な宗教とはまた違うのです。キリスト教のある種の派も、カルト集団として警戒されております。その教会では別にオカルト的なことをいうわけではない、見た目はまともであります。そしてその教会では若い人がたくさんあつまります。しかしその伝道のやりかたは徹底していて、ひとたびその集会に出席しますと、もう何人かの人が彼を徹底的に信仰に導くために指導する。追い回すといってもいいぐらいに、その人の私生活まで入り込んでいく、そして他の人の批判を聞かせようしない、そういう徹底した伝道方策をとっているのだそうです。一種の洗脳的なやりかたであります。それは自分で考え判断することを許さない、「わたしたちのいうことをそのまま信じなさい」というやりかたで人を導いていくようであります。今日ではそういう集団をカルト集団と呼ばれているようであります。ですから、いわゆるオカルトまがいの、なにかわけのわからない霊とか、そういうことをいわない、極めて理知的であるかもしれない教えなのですが 、しかし自分たちの教え以外の教えを一切信じてはいけない、これを絶対的に信じなさいというやりかたで信仰に導く集団なのであります。それはその人から自立心とか主体性とかを奪うというやりかたで、人を導くのであります。それは自分の心とか魂を、その生活の仕方をなにものかによって支配されてしまう、そういう居心地のよさのなかにどっぷりつからせるのであります。
 
 この汚れた霊につかれた人は安息日になると必ず会堂にきて、聖書の話を聞くのが好きだったようなのです。そこは居心地がよかった。そこにイエスがやってきた。イエスの説教は決して人を居心地よくさせるものではなかったのであります。イエスは「わたしが神の指によって、悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがところに来たのである」といわれました。「神の指」というところは、他の福音書では「神の霊によって」となっております。「神の国」というのは、神の支配ということであります。つまりイエス・キリストがこの世に来たことによって、悪霊の支配を追い出し、その代わりに神の霊の支配が始まったのだということであります。それならば、われわれは汚れた霊の支配を受けることから、神の霊の支配を受けることになって、なにものかの支配を受けるということでは同じではないかと思われるかも知れません。キリスト教だって、自分が神に支配されるということなのだから同じではないかといわれそうであります。そういう危険性は確かにあると思います。
 しかし、ルカの八章には、イエスによって悪霊を追い出してもらった人が、イエスに「あなたにお供したい」としきり願った時に、イエスはそれを拒み、あなたは自分の家に帰って「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、語り聞かせなさい」といわれたのです。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめたというのであります。イエスのお供をしたいという人をやめさせたのであります。その人が依存しやすい人だったからであります。イエスによって救われるということ、イエスによって悪霊をおいだされるということは、今度は悪霊の代わりに神の霊がオカルト的にあるいはカルト的にすみついてその人の魂をすべて支配する、そういうことではないということであります。聖書の中にでは、確かに救われるということは、われわれが神の霊を自分の中に住まわせることだという表現がありますが、しかしそれは決してその人を神の霊の奴隷にしてしまうということではないのです。その人に神の霊を与えることによって、自立させる、イエス・キリストの名によって自分の足で立って歩きなさいと命じることなのであります。その人を 依存的な生き方から解放し、その人を自分の足で立たせ、歩かせる、そういう主体性を確立させる、自立させることなのであります。
 「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と、パウロはいうのであります。
イエスご自身、「あなたがたはわたしの弟子になったら、真理を知る、そしてその真理はあたがたに自由を得させる」と言われたのであります。
福音による救いということで一番大事なことの一つは、それはわれわれが自由を与えられる、自分の足で立ち、自分の足で歩けるような自立心を与えられる、主体性が与えられるということなのであります。それはもちろん全く人から依存心を取り去ってしまって、どんな意味でも人を頼ってはいけない、神に頼ってはいけないとということではないのです。それはある意味では、正しく神に依存し、正しく人に依存していくことをわれわれに教えていただくということなのであります。
 ある人が言っておりますように、自立するということは、もういっさい人に依存しないということではない、人との交わりを断つということでもないし、人を信頼しないということではないのです。子供を自立させようとして親はその点で誤解して、ただ子供を突き放すことが子供を自立させるということだと考えがちだけどそうではないと言っております。自立するということと、人と連帯することとは結びついてることなのであります。親の愛をしっかりと感じ取っている子供がはじめて自立して、生き生きと遊び回ることができるのであります。もし親の愛が不安定であるならば、子供はなかなか自立できないのであります。自立したとしても変にがんばって自立する、ゆがんだ形で、つまりいっさい人を信じないというかたちで自立してしまうのではないかと思います。
 われわれは神の愛という支配を深く感じられる時にはじめて、悪霊の支配から解放される、そして、それだけではなく、自分で自分を守らなくてはならないという自分が自分がという自我からも解放されるのであります。主イエスは「父なる神はあの価値のない雀の一羽すら忘れることはない、ましてあなたがに対しては、あなたがたの髪の毛を数えつくして、あなたがたを守っているのだから、恐れることはない」と言って、だから迫害を恐れるな、人間を恐れるな、悪魔を恐れるなと言って、弟子達を励ましているのであります。神があなたを愛しているから、その神に甘えていきなさいと言われてのではなく、神の愛がお前を支えるのだから、迫害に臆するなといわれたのであります。神の深い愛に支えられているという思いがある時に、われわれははじめて自分の足がどんなに弱くても、弱いなりに立ち、歩くことができるのであります。

ルカによる福音書は、このあと、イエスはシモン・ペテロのしゅうとめの病気をいやされた記事がおかれております。彼女はイエスによっていやされると、「女はすぐに起きあがって、彼らをもてなした」と記されております。「彼ら」というのですから、彼女は自分の病をいやしてくれたイエスをもてなしただけでなく、そのまわりの人々ももてなしたということであります。「女はすぐに起きあがって、彼らをもてなした」、病気がなおったからといって、床のなかでくずくずしたくなるところですが、彼女はもう自分の病に甘えていない、すぐ起きあがってもてなすのであります。救われた人間はいかに自立するかであります。