「わたしは罪深い者です」  ルカ福音書五章一ー一一節

 今日は五章の一節からの記事を中心に考えたいと思いますが、その前に先週とばしたところがありますので、その記事に少しふれておきたいと思います。四章の四○節からみますと、イエスが汚れた霊を追い出したり、病をいやしたといううわさが広がると、いろいろな病気になやむ者をイエスがひとりびとりに手をおいていやされたというのであります。そして悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら人々から出ていった。しかしイエスは彼らを戒めて、物をいうことをお許しにならなかった、なぜかというと、彼らがイエスがキリスト、つまりメシア、救い主だということを知っていたからであると記されております。その前の記事でも汚れた霊が「あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」といいますと、イエスは「黙れ」と、言われております。悪霊によって「イエスはキリストである」と信仰の告白されることをイエスはお許しにならなかったということであります。なぜなら、悪霊によってイエスはキリストであると告白されたり、叫ばれても、それは本当の意味で信仰の告白にはならないからであります。
 夜があけるイエスは寂しいところに退かれました。それは群衆を避けるためであったということがわかります。しかし群衆は恐らく、ただ病気をいやす救い主ということではなく、奇跡を行う救い主をしたってイエスのもとに来て、自分達のところから出ていかないように引き留めをはかった。しかしイエスは「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われたのであります。「わたしはお前達の利己的な自己中心的な要求をみたすために、この世に来たのではない」ということであります。

 イエスが自分達の町から離れないでくれと引き留めようとしたカペナウムの町から少し離れたゲネサレ湖畔に立っていた時であります。そこに二艘の小舟があった。漁師たちはもう漁を終えて網を洗っていた。その一艘の船はシモン・ペテロの舟でした。イエスはその舟に乗り込み、シモンに頼んで、岸から少しこぎ出してもらい、その舟の中から岸に向かって群衆に説教をなさった。とうぜんペテロもその舟のなかで、イエスの話を聞いていたのであります。話がすむとイエスは、ペテロに「沖へこぎ出して、網をおろして漁をしてごらん」といいました。ペテロはこう答えました。「先生、わたしたちは夜どうし働きましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」そしてその通りにしたところおびただしい魚がとれて、網がやぶれそうになり、もういっそうの舟にも来てもらっても、舟は沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロはイエスのひざもとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言った。するとイエスは「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われた。するとペテロたちは舟か ら降り、いっさいを捨ててイエスに従ったというのであります。

マルコ福音書とマタイ福音書は、シモン・ペテロたちがイエスに従っていった経過は、彼らが海で網を打っているところをイエスがとおりかかり、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われると、彼らはただちに網を捨ててイエスに従ったのだと記されているのであります。その記事にくらべると、このルカによる福音書のほうでは、彼らが単純に素朴にイエスに従ったのではなく、その背後にはこうしたイエスとの出会いがあったのだと記しているようであります。彼らが海で網を打っている、あるいは網を繕っているところをたまたま通りかかったイエスから「わたしについて来なさい、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」といわれて、ただちに網を捨ててイエスに従ったということなど、どうもありそうもないような気がいたします。第一「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてもなんのことわかる筈はないと思います。それに比べれば、このルカの記事のほうが彼らがイエスに従った経過がよくわかって納得がいくかも知れません。
 マルコやマタイによる福音書では、彼らがイエスに従った背後にはいろいろな出来事、人間的な状況があったかもしれないけれど、しかしそのエッセンス、その本質だけをとりだしてみたら、「イエスが招いた、彼らは従っただけた」、それだけなのだと言いたくて、あのような簡潔な記事になったのではないかと思います。それはわれわれが教会にくるようになったこと、そして洗礼を受けて、クリスチャンになった経過も人間的な経過を考えたら、ひとそれぞれいろんな事情があったと思います。しかしどんな事情があったとしても、その本質を取り出してみたら、神が招いてくださった、わたしはそれに応えて、ただ従っただけだ、ということになるのではないかと思います。そこにはわれわれの側の深刻な罪の認識とか罪の悩みとか、あるいは重大な心の葛藤の末にようやく信仰を告白しようと決断ができたとか、そうしたことが重要なことではなく、ただ神がこの私に声をかけ、招いて下さった、そうしてそれにわたしが応えて従った、ただそれだけ、そのエッセンスを取り出すことができなかったならば、われわれの信仰生活は危うくなるのであります。悩みがなくなった時に信仰までも失ってし まうことがよくあるのであります。
 ルカによる福音書はそのエッセンスの中身をもう少し丁寧に記しているのであります。ここには、マルコやマタイとは違って、ペテロの「わたしは罪深い者です」という告白があって、イエスの招きがあったことを記しております。
 
 このペテロの罪の告白がなんだったのか、それを考えてみたいのです。それは自分がこんなにも深く自分の罪に悩み苦しみ、そうして自分の罪を深く認識し、告白できたか、そういう意味の罪の告白なのか、それに応じて、イエスのほうでも、そんなに深くお前は自分の罪がわかったのか、それならば、わたしはお前をわたしの弟子にしよう、お前を伝道者にしてあげよう、という意味の罪の告白なのかどうかということなのであります。

ペテロたちはその夜漁をしたけれど、魚はとれなかった。その時にイエスから「沖へこきだして網をおろしてみなさい」と言われて、それに従った。自分達は魚を取るということに関しては専門家なのです。イエスは大工の子なのです。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした」というシモンの答えはそういう思いがあったと思います。それでもシモンは「しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言った。漁が不作であるなんてことは、漁師にとってはあるいは日常茶飯事のことではないかと思います。しかしこの時はやはりそういうことが何日も続いたのかもしれません。彼らは疲れ切っていたのかもしれません。それでイエスの言葉に従う気持ちが動いたかのかもしれません。自分達の知識に行き詰まりを感じ始めていたのかもしれません。少し大げさに言うと、人間の限界を感じ始めていたのかも知れません。そういう時に、自分達の外部の人の声が新鮮に思えた。漁というものは、夜しかできないものだ、漁というのは、この場所でしかできないものだという自分たちの長い間積み上げてきた経験というものがあった。しかしそれがいつのまにか固定観念になっ てしまっていた。
 そういう時にイエスから「沖へこぎ出して網をおろしてみよ」と言われた。この「沖へこぎだし」と言う言葉は、ただ文字通りの言葉ではないかもしれません。なぜなら、おびただしい魚がとれた時に、シモンはもう一艘の舟にも加勢にくるように頼んだというのですから、もう一艘の舟は湖畔にまだいたのかも知れませんから、その湖畔に合図ができるくらいの位置かもしれませんから、それほどの沖合ではないかもしれません。ともかくこの「沖へこぎだし」と言う言葉は、もっと深い意味が込められていると思います。自分の経験、人間の知識、それをもっと超えたところに、網をおろしてみなさい、そういうイエスの語りかけではないかと思います。
専門馬鹿という言葉がありますけれど、専門家というのは、やはり自分たちの経験を絶対化しがちであります。しかし自分達の経験、知識というものがそれほど絶対的なものかということであります。
 
 シモン・ペテロは「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、沖へこぎ出して網をおろしてみたのであります。信仰にとって大事なことは、この「しかし」という接続詞だとある人がいっております。「しかし」「にも拘わらず」という接続詞が大切なのだとわたしは自分の牧師からよく言い聞かされました。信仰というのは、神を信じるということですから、ある時には自分を信じることをけ飛ばして、あるいは人間の経験とか知識とか常識とか蹴飛ばして、飛躍して、「しかし、にも拘わらず」一歩沖へこぎ出す、そういう冒険をしてみる、「しかし」と言って飛び込んでみる、そうしないと信仰にはならないのだとよく言われたものであります。もちろん、なにも闇雲に飛び込むわけではないのです。「しかし、お言葉ですから」という、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉に対する信頼があって、始めてこの「しかし」という言葉が生み出されるのであります。
自分の経験から、こうであるから、こうなる、という理詰めから信仰というものが生まれてくるわけではないのです。ある程度そうした理屈とか論理というのは必要であります。われわれは迷信を信じるわけではないし、オカルトとかカルトとかを警戒しなくてはならないわけですから、人間の理性というものがどんなに大事かということはよく知っておかなくてはならないと思います。しかしどんなに人間の知識、経験を積み重ねていっても、信仰はうまれないのです。最後のところでは、自分の知識とか経験に逆らって、「しかし」「にもかかわらず、やってみます」という冒険を必要とするのであります。石橋を叩いて渡るのは結構なことなのですが、しかしそれはともすれば、石橋を叩いて、結局は渡らないということになりかねないのであります。
この時シモン・ペテロがイエスの言葉、「お言葉ですから」というイエスの言葉にどれだけ信頼をもっていたかはわかりません。イエスと一緒の舟にいて、イエスがその舟の中から群衆に語りかける話をどれだけ聞いていたかはわかりませんが、しかし何かを感じ取っていたことは確かだろうと思います。そうでなければ、沖にこきだすこともなかったと思います。ここには、漁がない、それが何日も続いているという人間の行き詰まりと、信頼できるイエスの言葉、それがちょうどタイミングよくぶつかったということであるかもしれません。だから信仰の冒険ができたのかもしれません。われわれの人生にもそういう時というものがあるのではないかと思います。そういう時が与えられる時というのがあるのではないかと思います。

シモン・ペテロがイエスの言葉を信じて、沖へこぎだし、網をおろしてみたら、魚がとれて、その重みのために舟が沈みそうになった。その時ペテロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」といって、イエスのひざもとにひれ伏した。「わたしから離れてください」というペテロの言葉はどういう思いでそういったのでしょうか。「わたしは汚れた罪深いものですから、これ以上あなたがわたしのそばにおられると、あなたの聖さを汚すことになるから、わたしから離れてください」という意味なのでしょうか。「あなたの聖さをけがしたくない」という意味なのか。それとも、「もうこれ以上あなたのそばにいると、わたしが滅ぼされますから、わたしから離れてください」という意味なのか、どちらなのでしょうか。ペテロはとれた魚の多さで舟が沈みそうになって、「これを見て」そう言ったと記されておりますから、やはり、あなたの聖さでわたしを滅ぼされないために、わたしから離れてくださいという思いの言葉だったと考えたほうがよさそうであります。
 預言者イザヤが神殿で聖なる神にお会いした時、そこでケルビムが飛び交い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」という声を聞き、神殿の敷居がゆれ動く体験をした時に、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と言うところがあります。そこでは聖なるものに出会った時に、わたしは滅ぼされるという思いをもったのであります。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と言ったのであります。あるいは、モーセが十戒をもらいにシナイ山に登った時にも、「民が聖なる神を見ようとして山に登ってきて、死ぬものがでないように、山のまわりに境をもうけよ」というところがありますが、聖なる神を見たものは死ぬ、といわれているので、この時もペテロは舟が沈みそうになるのを見て、自分が滅ぼされるという恐れをもって、「わたしから離れてください」と言ったのではないかと思います。自分の汚れで、神の聖さを汚すなんてことはあり得ないので、つまり人間の汚れで神の聖さが汚されるほど神の聖さはちゃち なものではないわけですから、あなたの聖さを汚しますから、わたしから離れてください、というのはおこがましい限りであります。
 しかしもしそうしますと、このペテロの言葉は、あの汚れた霊がイエスを見た時に「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」という言葉と奇妙にも一致しているということになるのではないかと思います。
どこが違うのでしょうか。ペテロは「わたしから離れてください」と言ったあと、「わたしは罪深い者です」と告白しているのであります。預言者イザヤも「わたしは汚れたくちびるの者で、」と告白しているのであります。しかし汚れた霊は「あなたはわたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と言って、逃げ出そうとしているだけであります。そこが決定的違うところなのではないかと思います。
神の聖さに出会った時に、自分の汚れを知るということ、自分の罪深さを知るということ、そしてそこからもう動けなくなる、ただひれ伏してしまうばかりであるということであります。この時ペテロは「主よ」と呼びかけている、前には「先生」と言っていたのに、もうこの時には「主よ」とよびかけているのであります。
 
 この時ペテロは自分の罪を具体的にあの時こういう罪を犯したとか、そういう自分の犯した罪の告白をしたのではないのです。こういう罪を犯したというのではなく、自分自身が罪人だ、自分そのものが罪人だ、そういう告白をしているのです。なにかあやまちを犯したという罪の告白ではなく、聖なるものに出会って、自分自身の汚れをしる、わたしは罪深い者です、と告白する、それが罪の告白であるということなのです。しかし、汚れた霊、悪霊にはその告白はないのです。彼らは確かにイエスのなかに聖なるものを敏感に感じ取ったかもしれない、そして自分の汚れを多少は知っているかもしれませんが、しかしそれを全面的に認めようとはしないのです。そういう悪霊から「あなたこそ神の子です」と告白されても、それは信仰の告白にはならないのです、それでイエスは彼らにものを言うことをお許しにならなかったのであります。

神の恵みはペテロを圧倒いたしました。そのおびただしい魚をみて、舟が沈みそうになるほどの恵だった。それを見てペテロは「ああよかった、こんな幸福なことはない」と、思うことはできなかったのであります。一匹もとれなかった魚がこんなにたくさんとれたというのですから、これは御利益を受けたということなのです。しかしペテロはこの御利益の幸福感にひたってはおれなかったのです。「わたしから離れてください、わたしは罪深い者です」と、告白せざるを得なかったのであります。神がイエス・キリストを通してわれわれに与えられる御利益は、われわれを御利益信仰に自己満足させるわけにはいかない恵なのです。カペナウムの町の人々の「自分たちから離れないようににと、引き留める」というような人間のエゴイズムを打ち砕いてしまう御利益なのであります。

 ペテロはこの恵みの経験、この御利益の経験を魚をとるという漁師に活かすことが許されずに、人間を取る漁師となって、この経験を活かしなさいとイエスから命じられて、ペテロはいっさいを捨ててイエスに従っていくのであります。ペテロの受けた恵はわれわれを御利益信仰にとどめさせないで、われわれをますます自己中心的な思いにさせないで、そういう思いを打ち砕いて、他者のために、他者を救いに導くために、この経験を活かしなさいとイエスはわれわれにも命じておられるのであります。