「罪人を招くために」 ルカによる福音書五章一二ー三二節

 五章の二七節からみますと、イエス・キリストはレビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼はいっさいを捨てて立ち上がり、イエスに従ってきた。それからレビは自分の家で、盛大な宴会を催した。取税人やそのほか大勢の人々が共に食卓についていた。それを見てパリサイ人や律法学者たちがイエスの弟子達につぶやいた。「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか。」するとイエスはこう答えたというのであります。
「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
この言葉はわかりやすい言葉であるかも知れません。しかし実際のイエスのなさったことからいうともうひとつこのまま受け取れないところがあるのではないかと思います。それはここで言われている「義人」とはどういう人のことか。ここで言われている「罪人」とはどういう人のことかということであります。第一、この世にはたして「義人」などという人がいるのだろうか、ということであります。ここでは直接的には、パリサイ人や律法学者のことをさしていると思われます。しかし彼らはイエスの目から見たら、決して「義人」ではないことは明らかであります。そうしますと、この言葉はもう少し丁寧に言えば、「わたしがきたのは自分を義人だと自称している人、あるいは世間が義人だと考えている人、そういう義人を招くためにきたのではない」ということになると思います。
 そうしますと、「罪人を招くためにきたのだ」という「罪人」とはどういう人のことか。たとえば今日の箇所でいえば、イエスは収税所にすわっているレビに声をかけて「わたしに従ってきなさい」と言われているわけです。罪人を招くためにきたのだというのならば、収税所の中に入っていって、不正な税金の取り立てをしている人全部の人を招いて悔い改めさせてもよさそうであります。それがおかしければ、たとえば今日でいえば、暴力団の組所に乗り込んでいって、罪人を招いていけばよさそうなのに、イエスは実際にはそういう罪人の招きかたはしていないのです。そうしますと、ここでいわれている「罪人」というのも、ただ罪を犯している人間という意味ではなく、「自分の罪に気づき、その罪に悲しみ、なんとかしてその罪から逃れようとしている人」のことだということではないかと思います。
 収税所の前ですわっているレビ、これはやはり何かに苦しんでいる人の様子が伺われます。収税所の前に立っていた人ではない、座っていたというのですから、なにかそこでぼんやりと空疎な目をして座っていた光景が想像できるのであります。やはりイエスが招いたのは、ただ罪を犯している人を招いたのではなく、自分の罪に苦しみ悩み、その罪から逃れようとしている人を招いたのではないかと思います。それが「罪人を招いて悔い改めさせるためである」ということではないか思います。
なぜわざわざそんな面倒な説明をしなくてはならないのかと言われるかもしれませんが、今日の聖書の箇所ではまず、らい病人の清めの記事があり、そうして中風を煩っている人の病をいやした記事があります。その中風の人に対して、イエスは始めその病そのものをいやそうとしないで、いきなり「あなたの罪はゆるされた」と言われたのであります。それはこの人が特別になにか重大な罪を犯して病気になっているから、「あなたの罪はゆるされた」と言われたのではないだろうと思います。ここでいわれる「あなたの罪」というのは、そういう犯罪といわれるような罪ではないと思います。ですから、ここでイエスがいわれている「わたしがきたのは罪人を招くためだ」という言葉はどういう意味なのかということを考えみたいのであります。

まず、一二節からみますと、イエスはらい病の人をいやしました。当時のらい病人は、病気そのものが大変悲惨な病気であるというだけでなく、この病気は汚れた病気とされていたのであります。どういう意味で汚れたという意味かというと、病気が重い皮膚の病ということで、見た目に汚れたように見えるというだけでなく、そのことからその病人そのものが汚れていると考えられたのであります。単にからだが汚れているというだけでなく、魂までも汚れていると考えた。つまり、この病気になるということは、本人がなにか悪いことをしたか、あるいはその人の祖先が悪いことをしたからそうなったのだと見られたのであります。そして今日でこそ、この病気は伝染病でないことがわかりましたが、当時は伝染すると考えられた。ですから、この病気にかかった人は人との交わりが断たれるわけです。しかし悲惨な病気にかかった人と交わりを断つということ、そういう人を見捨てるということは、こちら側としたら、良心の責めを感じるわけです。それで考え出した理屈は、その病気にかかった人は単に病気になったのではなく、悪いことをしたから、罪を犯したから、その子孫だから、病気になった のだから、交わりを断たれても仕方ないのだという理屈を作り出したのだろうと思います。当時のらい病人は、自分が町を歩く時には、鈴をならしながら歩かなくてはならなかったそうです。鈴をならしながら、これかららい病人、汚れた人間が歩くから、家からでないように、この病人に近づかないようにと自ら警告しながら歩かなくてはならなかったそうです。病気そのものが大変重く、悲惨な上に、みずから、自分は汚れた人間だと自認し、人に宣伝しなければならなかったというのですから、二重三重の苦しみを背負わされたということであります。それはイエスの時代だけでなく、つい最近までわれわれ日本人の意識のなかにあったことではないかと思います。
 そのためにイエスはその人の病気をいやしてあげた後、「自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのためのささげものをして、人々に証明しなさい」と言われたのであります。ただ病気が治るだけでは社会復帰できなかったのです。祭司の証明が必要とされた、この人の汚れはなくなったという宗教上の承認が必要だったのであります。イエスはそこまで面倒をみようとしたのであります。

 らい病人は本人が罪を犯した人間というよりは、他人の罪の犠牲者、他人の罪の被害者であります。自分がそうした病に陥りたくないから、その人を遠ざけたいという人間のエゴイズム、そういうわれわれの罪の犠牲者だというこということであります。イエスはなによりもそのように人の罪の犠牲になって苦しんでいる人の病をいやされたということであります。イエスが「わたしが来たのは、罪人を招くためである」ということは、人々の罪のために犠牲になっている人を招くためであるという意味も含まれているのではないかと思われます。そうしますと、「悔い改めさせる」というのはどういう意味なのかということになりますが、この「悔い改めさせる」という言葉は、ルカによる福音書だけにある言葉で、マルコによる福音書、マタイによる福音書はただ「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と記されております。「悔い改め」という言葉はルカが付け加えた言葉でこれからもルカ福音書をよんでいくて、この言葉がルカの特徴だということがわかります。われわれがすぐ思いだすのは、一五章にしるされております、放蕩息子の話などがそうであります。
 らい病に陥った人は、自分自身が罪を犯したわけではないのです。人のエゴイズムの、人の罪の犠牲になって、差別され、交わりを断たれた人です。いわば他人の罪の犠牲者であり、被害者であります。そしてそのために、自分自身も自分は罪人なのだと思わせられていたのではないかと思います。そのためにイエスはそのらい病人を招いたのであります。悔い改めるということは、自分の罪を悔いるというよりも、なによりも自分に自分にと向かっている心を神のほうに向けるという、そういう方向転換という意味をもった言葉です。その人を神に向けさせる、神はあなたを決して見捨てないということを知らせ、神に心を向かわせるということであります。イエスはまずそのらい病人を招いて、その人の心を神にむけさせたのであります。
 一七節からは、中風の者がイエスのところに床にのせられたまま連れられて来ました。そうしますと、二○節をみますと、イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われたのであります。これが物議をかもした。律法学者とパリサイ人は「神を汚すことを言うこの人はいったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じ始めたというのです。しかしこの彼らの思いには、裏があることをイエスは見抜いておられた。「イエスは折角つれられてきた中風という患者の病をいやさないで、ただ口先だけで「あなたの罪はゆるされた」といってお茶を濁している。自分たちはイエスが病をいやすところを見たいのだ。第一、罪をゆるすという宣言は神だけができることなのに、イエスはまるで自分が神のようにしてそんなことを言っている」と、彼らは考えいることをイエスは見抜かれたのであります。それでイエスはこう言われるのです。「あなたがたは心の中で何を論じているのか。あなたの罪は赦されたというのと、起きて歩けというのと、どちらがたやすいと思うのか」と言われたのです。この問いはこういう意味があるわけです。病気をいや すということよりも、罪を赦すということのほうがずっと大変なことなのだ、そしてこの人にとっても、病気がいやされることよりも、イエスから「あなは赦されている」と言われることのほうがずっと大切なことなのであり、この人がいやされる道であり、救われる道なのだ、自分はその重要なことを今したのだということであります。しかしこのことはなかなかすぐには理解されない、そのために、「わたしが地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言って、人々に罪の許しの宣言を目に見えるかたちで現すために、「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」といわれて、その人の病をいやしたのであります。

 それにしても「あなたの罪はゆるされた」というイエスの言葉は、なにを示しているのか。この人の中風という病の背後には、罪というのがあるから、まず「あなたの罪はゆるされた」とイエスは言われたのか。昔の人は、いや今日でも同じかもしれませんが、大変な病に陥っている人は、本人が何か悪いことをしたから、あるいは先祖のたたりでそうなったのだという考えが根強くあったのです。そのためにイエスはまずこの人に「あなたの罪はゆるされた」といわれたのだろうか。そうでないことは、イエスが盲人の目をいやされた時に、弟子達がイエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したためか、先祖が罪を犯したためですか」と聞いた時に、イエスは「決してそうではない。本人が罪を犯したためでも、先祖が罪を犯したためでもない」と、その考えを否定しているのであります。イエスはそういう考えで人の病を見てはいないのです。
 この人は中風という病気の性質がそうさせたのかもしれませんが、この人は床のまま人々につれられて来たと記されております。つまり、この人はもう自分の病に絶望していたのかもしれません。もう自分の病は治らない、自分はもう神に見捨てられた人間だ、自分ではよくわからないけれど、自分がこうした病気になっているのは、なにか悪いことをしたためかもしれない、先祖がなにか悪いことをしていて、そのたたりでこうなったのかもしれない。もう自分は神に見捨てられた罪人だと、彼自身思っていたのではないか。そういう彼を励ましてまわりの人々がともかくイエスさまのところにつれていこうといって、いやがる彼を床のままつれてきたのかもしれない。イエスはの「彼らの信仰を見て」、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われたのであります。もう中風の人のなかには信仰もなくなっていたかもしれない。それほど彼はもう絶望していたのであります。その彼に対して、「お前の周りの人々はなんとかしてお前を立ち直らせようとしているではないか、神は決してお前を見捨ててはいないのだ」とイエスは言おうとしているのではいなか。それが「あなたの罪はゆるされた」という言 葉であります。「神は決してお前を見捨てていない」という励ましの言葉であります。
 われわれの死に至る病とは、絶望である、とある有名な哲学者がいってりおますが、病の最大の問題は、それがわれわれから望みを失わせてしまうということなのであります。それは罪とは絶望であるということであります。聖書では、罪とは絶望であるという言葉はありませんが、内容的にはそのことを言っているのであります。なぜなら、われわれが救われるということは、どんな時にも望みが失われないことである、と言われているからであります。パウロが救いについて述べて、結論のようにして最後に希望は失望に終わることはない。」というのです。その理由は「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからである」というのであります。
そうしてその後、ルカによる福音書は、収税所にぼんやりすわっている取税人レビをイエスが招いて一緒に食事をしたという記事がおかれております。そうして「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とイエスは言われたのであります。ここでイエスが招いた罪人とは、ただ罪を犯した人間、罪を犯し続ける人間のことではないのです。自分の罪に気づき、自分の罪に絶望している罪人を招いておられる。それはもちろん悔い改めた罪人を招くというのではないのです。われわれは自分ひとりで悔い改めるなんてことはできないのです。ですから、まず自分で悔い改めて、それからイエスのところにいくなんてことはできないのです。イエスに招かれて、そうして、イエスの言葉を聞いて、始めて悔い改めることができるのです。
 福音書をみますと、イエスが病人をいやし、罪人の罪を赦す時、それは自分の罪に嘆いている人、悲しんでいる人、慰められたいと思っている人に対してであります。そういう人に声をかけているのであります。イエスは病人をいやしたあと、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」といわれる時があります。その人の信仰心がその人の病をいやすなんてことはあり得ないのです。イエスがその人の病をいやしているのです。それでもイエスはあえて、あの十二年間長血をわずらっている女に対して「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われているのであります。それはわれわれのほうに、イエスを求める思いがなくては、イエスの罪の赦しの言葉は有効に働かないということであります。われわれのほうにほんの少しでもいい、信仰をイエスは求められているのであります。イエスが招いた罪人とは、悔い改めた罪人ではなく、あえていえば、悔い改めたがっている罪人、そういう人をイエスは招いているのだということであります。イエスはある意味では、罪人が自分の罪に気づき、そうして神に罪の赦しを乞おうとするまで、じっと待っておられるのではないか。ヨハネの黙示録のイエスは 「見よ、わたしは戸の外に立って、叩いている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるならば、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする」と言われているのであります。イエスはわれわれの心の中を強引にこじあけるようにして、入ってこられるのではなく、場合によっては、そうする時もあるかも知れませんが、イエスは大変辛抱つよい深い愛のかたですから、われわれが心を開くまでじっと待っていてくださる、そのようにしてわれわれを招こうとしてくださって
いるのであります。