「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」 ルカ福音書五章三三ー三九節

 律法学者とパリサイ人たちがイエスにこう言いました。「ヨハネの弟子達はしばしば断食をし、また祈りをしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」それに対してイエスはこう答えたのであります。「あなたがたは花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。」
 ここで言われている花婿とは、いうまでもなく、イエス・キリストご自身のことであります。ここはマタイによる福音書では、「婚礼の客は花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか」となっております。マタイが断食を悲しみをあらわすものとしてとらえているのであります。それはイエスが偽善者を糾弾するところで、律法学者たちが陰気な顔つきをして、自分の顔を見苦しくして、悲しそうな顔をして、断食をして、いかにも自分は苦行をしているのだと人に見せびらかすようにして、断食をしているのを非難しているところがありまので、それと呼応しているのであります。

 イエスを非難した律法学者たちにとっては、断食は苦行なのであります。それは悲しみをあらわす苦行の時なのであります。いやわざと自分は悲しい状態にいるのだと人に見せつけるための行為なのであります。美味しいものを食べないで、自分の欲望を断って、禁欲して、そしてただ神に心を集中させる、自分のことは考えないで、神だけに思いを集中させる、それが断食だと考えていたのであります。
イエスご自身は断食そのものを頭から否定してはいないようであります。それはイエスご自身が宣教を開始するに当たって、四十日四十夜断食をなさっているからであります。このイエスのなさった断食と律法学者たちがしている断食、イエスの弟子達がしていないといって非難されている断食とどう違うのかということであります。
イエスは断食そのものを頭から否定していないかもしれません。イエスは偽善者たちがするような、わざと自分は苦しんでいるいるんだと、悲しそうな顔をして断食をするな、と言われた後、断食をするならば、自分の頭に油を塗り、顔を洗い、断食をしていることが人に知られないようにしなさい、と言っているところをみますと、断食そのものを否定してはいないようであります。それはわがまま放題の生活、自分の欲望を無限大に広げていくような生活を断つということから考えたら、信仰生活にとって大切なことであるかもしれません。律法学者、パリサイ人達は、週のうち二度断食をする習慣になっていたようであります。
 しかし大事なことは、断食をすることそのこと自体がただちに神に自分の心を集中することにはならないということなのであります。つまり、断食をしさえすれば、自分が禁欲的な生活をしさえすれば、もうそれだけで人は宗教的な人間、信仰的な人間になれるわけではないということなのであります。わたしは断食をした経験がありませんので、推測でいうだけですが、恐らく断食をし始める時、いろんな妄想が最初は起こるのではないかと思います。自分はこんなに断食をしている、こうして自分は自分の欲望をすべて断ち切っている、どうだ偉いだろう、という強烈な自己主張がふつふつと湧いてくるのではないか。こんなに自分は宗教的な人間になっているという自己主張が湧いてくるのではないか。断食はその自分の中からわき上がってくる自己主張との戦いになっていくのではないか。それが本当の断食の戦いということなのではないか。そうしてその戦いの中で断食をし続けることによって、肉体的に自分を痛めつけることによって、もうそうした自己主張をするエネルギーも奪われていく、そして自分を空っぽにされていく、そこまでいかないと本当の断食の効果というのはおこらないのでは ないか。ですから、律法学者たちが週に二度断食するという程度の断食では、そうすることによってかえって自分の宗教的な自己主張、信仰的自己主張がおもてに現れて来て、かえって信仰から遠い、偽善的なものになっていってしまうのではないか。ですから、本当に宗教的、信仰的な断食をしようとするならば、週に二度などという形骸化した断食ではなく、イエスやモーセがしたように、四十日四十夜断食をしなくてはならないのではないか。
 今度始めて気がついたのですが、福音書の記事でイエスが宣教を開始する時に、荒野に行って四十日四十夜断食をしますが、その時の福音書の書き方が面白いのです。マルコによる福音書には、荒野には行ったとは書いてありますが、断食をしたとは書いていないのです、マタイとルカだけが書いているのですが、こう書かれているのです。マタイは「四十日四十夜、断食をして、そののち空腹になられた」とあります、ルカは「そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた」と書いております。これは考えみますと、大変不思議です。四十日間なにも食べていないときに空腹になっている筈であります。マタイもルカもその四十日間、断食をしている間は、まるで空腹でなかったかのような書き方がされていることに今度改めて気がついたのです。これはどういうことなのでしょうか。イエスはその四十日間の断食の間、必死に自分のなかにわきあがってくる宗教的信仰的自己主張と激しく戦っていたということではないか、だからこの期間には、もう戦うことに夢中で、空腹など感じるいとまもなかったということなのではないか。そしてそういう戦いを経て、もう自分で自分と戦うとい うエネルギーもすべて奪われていった四十日の後になって、始めて、気がついたら自分が空腹であった、もう自分のなかには何もなく、空っぽになっていたということに気がついたということなのではないか。
 ですから、自分は断食をしている、自分は自分の欲望と戦っている、そのために禁欲している、そしてただ神に自分の思いを集中させようと意識している限りは、まだまだその底に自我が残っていているということなのではないか、そうした意識もすべて奪い取られた時に、自分の中が空っぽになって、始めて断食の宗教的な効果というのがあらわれるのではないか。それが断食というものなのではないか。
しかも恐ろしいことに、そこまで自分を追い込み、自分を空っぽにした時に、今度は最後にサタンの誘惑がイエスを待ちかまえていたということなのであります。われわれがもっとも宗教的信仰的になったと思った瞬間にサタンが待ちかまえているということなのであります。イエスは四十日の断食のあとサタンの誘惑に会うのであります。イエスはそのサタンの誘惑にどのように勝ったか。それは徹底的神に信頼して神にのみ従うことによって、そのサタンの誘惑をしりぞけたのであります。それはイエスが断食をすることによって得た成果であります。イエスのなさった断食は徹底的に神に従うということの訓練の場だったからであります。
 われわれが断食をして自分が一番宗教的信仰的になったと思った瞬間が一番サタンの試みに会う危険な時なのであります。なぜなら、われわれは自分が宗教的になったなどと思っている時は、そのようにして自分は偉いんだと自分を主張している時だからであります。自分は週に二度断食していますと神に祈っているパリサイ人は、まさにその時にサタンの試みに負けている時なのであります。われわれは自分が一番宗教的になっている時が一番危ない時なのであります。
 
 それではどうしたらよいのか。イエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができようか」と言われるのであります。イエス・キリストという花婿ががわれわれのところにいるのならば、もう自分で自分の力で、自分の欲望を断つとかという禁欲主義的な断食によって、そういう自力主義という方向で、思いを神に向けるのではなく、自分のなかにあるそうしたわがまま、欲望、あるいは宗教的信仰的な自己主張を抱えたまま、そのままの心をもちながら、ただ花婿であるイエス・キリストに心を向けていけばいいということなのであります。そうすると、いつのまにか自分中心の思い、自分のわがままさというものが次第次第に消えていくのではないかと思います。
 われわれは夜眠れないときに、眠ろう眠ろうと意識しますと、かえって目がさえてしまって眠れなくなってしまうことがあります。そういう時に音楽などを聞きますと、いつのまにか眠ってしまうということがあります。自分に向かう心をイエス・キリストに向ける、そういう方向のほうが自分のわがままさを克服するのに早道だということであります。
 もうイエス・キリストという花婿がいらしたのだから、自分で自分を律するという方向においてではなく、その花婿に目を向ける、見つめるという方向で自分を捨てていこうというのであります。

 旧約聖書にダビデが必死に断食したという記事があります。ダビデが自分が犯した罪のために神の裁きを受けて、自分の愛する子供が病気になってしまうという時であります。ダビデは断食してその子のために「死なせないでください」と神に嘆願したという記事であります。これはいわばわれわれ日本人がする茶断ちとか、お百度参りというのと似ていると思います。これはある意味では、自分の願いをかなえてくださいという激しい自己主張であります。自分のためではないかも知れません、自分の子供のためかもしれませんが、しかし自分の愛する子のためなのですから、結局は自分のための願いであります。しかしわれわれはこういうダビデの断食、あるいは自分の子供の病気を治そうとして必死にお百度参りする親の姿に打たれるのではないかと思います。決して軽蔑したりする気にはならないだうろと思います。それはなぜか。それは確かに一種の強烈な自己主張の表現なのですが、つまり自分のほうではこれだけのことをしているのだから、こうしてくださいという自己主張のあらわれなのですが、しかし、この場合は、そうした自己主張の強さよりも、どうぞこの自分の願いをかなえてくださ いという神に対する信頼、神に委ねようという強さのほうが何倍も強いということだと思います。ダビデは自分の罪を知ったのです、自分の弱さを知ったのです、ですから彼は決して自分は自分を主張できる筋合いなど自分にはない、自分にはそんな権利も資格もないということは十分知っている、だから必死に神にお願いしている、その姿勢がわれわれの心をうつのではないか。
 イエスが「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たち」に対してこういうたとえをなさっている。「ふたりの人が神に祈った。ひとりはパリサイ人、ひとりは取税人であった。パリサイ人はこう祈った。『神よ、わたしはほかの人のたちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが取税人のほうは目を天にむけることもできないで、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と祈った。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではない。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われたのであります。このパリサイ人の「週のうち二度断食している」と神に祈っている姿勢は、あのダビデの必死な断食とは全く違う神に対する祈りなのではないかと思います。
 ルカによる福音書では、「ヨハネの弟子達は、しばしば断食をし、また祈りをしており、ところがあなたの弟子達は」となっております。ここではただ「断食」だけが問題になっているのではなく、「祈り」も問題になっております。イエスの弟子達は断食をしないだけでなく、あまり祈りもしなかったということなのかもしれません。ともかく、また祈りも、あのイエスのたとえにありますように、神に対する祈りではなく、自分の義を誇り、自分の義を神に押しつける自己主張としての祈りになる危険を絶えずもっているということは考えさせられることであります。

 イエスは「花婿が奪い去られる日が来る。その日には、断食するであろう」といいます。それはいうまでもなく、イエス・キリストが十字架で殺される日が来る、その時には断食をしなくてはならないだろうという意味であります。この断食とは何か。それは自分たちの罪のためにイエス・キリストが十字架で殺されることを悲しむための断食であります。ここにはもうあのパリサイ人の祈りのように、自分は週に二度断食していますなどとのんきに自分を誇る余裕などない断食であります。そういう断食なら意味があるというのであります。
 しかし神はそのイエス・キリストよみがえらせてくださり、また神はそのイエス・キリストの霊をわれわれに聖霊として与えてくださっている、もうイエス・キリストは不在ではないのです。ですから、われわれにはもう断食をする必要はないということであります。

そしてイエスは、こういうのであります。「だれも新しい着物から布切れを切り取って、古い着物に継ぎ当てはしない。まただれでも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れでるし、皮袋はむだになる。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」と言われるのであります。
キリスト教会は、律法的パリサイ的な信仰の行き方、つまり、自己主張とか自己修業とか、そうした禁欲主義的な信仰の修練の仕方とは違う新しい信仰生活の型、新しい皮袋を作りださなくてはならないのであります。後のパウロの手紙などをみますと、信仰生活とか教会生活には、「自分のからだをうちたたいて服従させなくてはならない。目標のはっきりしないような走りかたをしないで、空をうつような拳闘はしてはならない 」と言って、われわれの信仰生活には訓練が必要だと言っておりますし、新しい皮袋、新しい信仰生活の指針のようなものが必要だといっております。場合によっては、あるいは人によっては、断食ということも必要かもしれません。しかしそれは人によってその方法は違ってきていい筈であります。たとえば、アルコール中毒から立ち直ろうとしている人にとっては、お酒の一杯や二杯程度はゆるされる、そういうことはおおらかにいこうなどと牧師はいっては困る、もう絶対にお酒は一滴も飲んではならないと言ってもらわなくては困ると、ある牧師が言われたことを聞いたことがあります。お酒を絶対に飲んではならないという戒めはその人にとっては、決して律法主義ではなく、それが福音なのであります。しかしそれはすべての人にとって福音にはならないでしょう。それはかえって律法主義をうみだすことにもなるわけです。ですから、この新しい皮袋としての生活のしかたは決して一律であってはならいない、いつもそれは他人を裁くという画一主義になってはいけないと思います。もし断食をするにしても、それは「花婿が奪い去られる日がくる、その時には断食するであろう」、という断食で なければならない、つまりいつもキリストを再び十字架に追い込むことにならないような断食でなければならないと思います。いつもキリストの十字架をわれわれが心から悲しみ、その前で打ち砕かれるような断食でなければならないと思います。
 
 われわれキリスト教会の新しい皮袋の最高の皮袋は、われわれ教会の礼拝が週の終わりの日の土曜日ではなく、イエスの復活を祝う週の初めの日曜日に変えたということなのではないかと思います。これがわれわれにとっての画期的な新しい皮袋であります。断食ということで陥りがちな悲しみとか苦行とか、ということから解き放たれた喜びの礼拝を、われわれは週の初めの日曜日の礼拝において毎週毎週しなければならいのであります。
 
 最後にルカによる福音書だけにある言葉が付け加えられてりおます。「まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」という言葉であります。これはもうひとつなにをいいたいのがよくわからないところがありますが、そして酒のことからいうとどういうことかわかりませんが、ただこの文脈らかいえば、われわれがいかに古いというか、今までの固定観念というものに縛られてしまっていて、新しい福音的な生き方をなかなか受け入れようとしないということの指摘なのではないかと思います。

 教会においてもわれわれの信仰生活が律法主義から完全に脱却するということは難しいのです。ただいつもわれわれが花婿であるイエス・キリストをみつめていくことによってしか、われわれの心の中に根強く残っている律法主義と戦っていく以外の道はないと思います。