「真の安息とは」  ルカ福音書六章一ー一二節

 イエス・キリストが時の権力者である祭司長・長老・律法学者たちに憎まれ、殺されることになった直接の理由は、イエス・キリストが安息日律法をきちんと守ろうとしなかったということであります。
 ある安息日にイエスの一行が麦畑の中を通っていた時に、弟子達が空腹であったので、麦の穂をつみ取り、手でもみながら食べていた。これが当時の律法では安息日にしてはならないことであったのであります。安息日には一切の労働をしてはいけない、何歩以上歩いてはいけないということが厳しく規制されておりました。パンを食べるということは許されてはいた。しかし麦の穂をつみ取るとか、ましてそれを手でもみほすということは安息日にしてはならない労働にあたっていたようなのであります。

 なぜこんなにまで安息日律法というものが厳格に守られるようになったのかといいますと、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時からだったようであります。バビロンの捕囚としての生活、そこではもちろん自分たちの神を礼拝する神殿はないのです。そういうところで自分たちのいわばアイデンティティ、日本語に訳しますと、自己同一性とか訳される言葉ですが、つまり、自分が自分であることの自覚ということなのですが、自分たちがイスラエルの民であるということの自覚です、そのアイデンティティを保つためには、週の終わりの日の安息日を厳格に守るということで、自分たちが神に選ばれた民であるということを自覚しようと考えたわけです。しかしそれがだんだんエスカレートとしていって、イエスが活躍した時には、律法学者・パリサイ人たちがまるで秘密警察のようにして、人々が安息日律法をきちんと守っているかどうかを監視するようになっていったのであります。

 旧約聖書をみますと、安息日律法というのは、二つの起源があるといわれております。一つは、申命記五章一二節からの言葉にあることです。そこにはこう記されております。「安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息を守ることを命じられたのである」。
 ここをみますと、安息日でまず一番しなければならないことは、自分たちが使っているしもべ、はしためを休ませることのようであります。それはイスラエルの民みずからがあのエジプトで奴隷の民としてさんざん苦労し、そこから主の手によって解放されたのだから、その神の救いのみ手をいつも覚えるために、奴隷達を休ませなくてはならないということであります。ですから、この日に一番しなくてはならないことは、六日の間働かせて来た奴隷、あるいは家畜を休ませること、自分たちが休むことよりも、その人たちを休ませることが一番大事なこととして命じられているのであります。ですから、安息日は、自分達がかつてエジプトで奴隷のような状態の立場にいた時に主の強い手によって救い出されたことを覚えて、この世で奴隷の立場にいる人々、またこの世で虐げられている人々、弱い立場にいる人に休息を与える、そのことによって主の救いを思い起こす日として守るということであります。

 ところが安息日律法は、世の中で一番弱い立場にいる人々に重荷を負わせる律法になってしまっていくのであります。安息日を厳格に守っているかどうかを監視する日となっていった。それは強い人が弱い人を監視する日になっていったのであります。
 今イエスの弟子達はおなかが空いていたのであります。ですから、麦畑を歩きながら、やむにやまれずに、麦の穂をつみ、手でもみ、それで空腹を満たしていたのであります。それをパリサイ人たちが見つけて文句をつけた。それに対してイエスは、聖書にこう書かれているではないかと言って、ダビデがしたことをとりあげたのであります。それはダビデとその供のものがおなかが空いていた時に、神殿に入って、祭司たちのほか誰も食べてはいけない供えのパンをとって、食べ、供の者たちにも与えたではないかというのです。今ダビデはただ自分の飢えをしのぐために祭司のほか食べてはいけないパンを食べたというのではなく、自分の供の者たちの飢えをしのぐためにそうしたのだという例を引いて、律法というのは、もともとは弱い立場にいる人を保護するためにあるのである、飢えという弱い立場に立たされている人のために、ある時には律法をやぶってもいいということが示されている。そういってイエスは自分の弟子達の行為を擁護したのであります。
別の安息日に、イエスが会堂で教えておられた時に、右手のなえた人がいた。その時に、律法学者やパリサイ人たちが、きっとイエスはこの右手のなえた人の手をいやすのではないか、そうしたらこれは安息日律法違反になる、イエスを訴える口実になるとイエスを見張っていたのであります。イエスはそれを察知すると、わざわざその人をまん中に立たせて、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言って、その人の手をいやしたのであります。右の手がなえている、その手を今いやさないからといって、すぐ命にかかわるものでもないのです。なにも安息日にそれをしなくてもいいことであります。しかしイエスはわざわざその人を真ん中に立たせて、その人の手をいやすのであります。それを彼らの目の前で挑戦的にしたのであります。そうすることによって安息日とは本当はどういう日でなければならないか、安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないと言われるのであります。この言葉はルカによる福音書にはないのですが、マルコによる福音書にある言葉です。そうして安息日の主は誰かと問うのです。律法学者・パリサ イ人たち、権力を握っている人、強い人が安息日はどうあるへきかを決めるのではなく、主イエスが、ということは、主なる神が安息日の主であって、主なる神が安息日に何を望んでおられるかを考えなくてはならないのだ律法学者たちに明らかにしようとしたのであります。
 もともと安息日は奴隷に休息を与えるための日なのです。それはつまりこの世で虐げられている人、弱い立場にいる人に安息を与える日なのであります。ところがその日は逆に弱い立場にいる庶民に重荷を負わせる日になってしまった、そして強い立場にいる律法学者たちが弱い立場にいる人々を裁く日になってしまったのであります。

 安息日律法のもう一つの起源は出エジプト記二○章にあります。十戒の第四の戒めであります。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」というところであります。
 創世記の創造物語によれば、神は六日間にわたって、すべてのものをお造りになった後、わざわざ今度は七日目という日そのものを造って、その日に休まれた、だからわれわれ人間のほうでもその日は一切のわざをやめて休まなくてはならないということなのであります。神がわざわざ七日目という日を造って休まれたということは、六日間にわたって造った天地創造のわざに神様がどんなに満足しておられるか、自信に満ちて休息をお取りになったということなのであります。ですから、われわれ人間もこの神にわざに信頼して、休まなくてはならないのであります。われわれ人間が一生懸命あくせくして働いて、この世界を維持する必要はないのだということであります。神が造られた世界は不十分だから、人間が自分たちの自己保全のために働く必要があるのだなど思う必要はない、われわれ人間が活動をやめても世界が崩壊することはない、だから七目目には人間のわざを止めて、神のわざがどんなに完結しておられるかを仰ぎ見ればいい、だからその日にはわれわれ人間が自分達のわざをやめて、神のわざを賛美する日にすればいいということで、安息日がまもられようになったのであります。
ですから、安息日の一番の眼目は、ある学者の解説では、安息日はイスラエルではもともとは礼拝の日ではなく、休息の日であったというのです。われわれ人間のわざを止める日、中断する日であります。そうしてわれわれがなにもあくせくと働いて世界を維持しようなどと思う必要はないのだ、それよりは神が造られたこの天地の運行のすばらしさを信頼をもって、感謝し、賛美する日にしよう、そのためにこの日に礼拝をするようになったのであります。ですから、この日は自分達のわざに固執し、執着することをやめる日、実際問題としては、一切やめてしまうわけにはいかないですから、中断するという形をとるわけです。七日目ごとに中断する、せめて、七日目ごとに中断することによって、自分のわざに固執することをやめるのであります。人間のわざとは結局は、自分の利益のために何かをしようとするわざであります。それはなにもかも自分の思いままにしようとすることであります。ですから、この安息日には、自分のわがままを中断する日でもあります。そのためには、自分のわがままさを捨てて、自分たちの生活を支配しているのは、神なのだ、神がおられるのだということを確認し、 そのかたの前にひれ伏さなくてはならない、そのためには、自分たちの普段生活している場から離れて、会堂にいって、神殿にいって、礼拝をしよう、それが一番自分のわがままさを捨てて、自分のわざを捨てて、造り主なる神を仰ぎ見ることがその日に一番ふさわしいことだと考えるようになったのであります。それはただ自分のわがままなわざだけではありません。いわばそれは他人に対する奉仕のわざも含めてであります。自分達は他者のために奉仕している、だから七日目にその仕事を中断する必要はないというかも知れません。しかしそれもやはり人間のわざであります。どんなにそれが立派なわざに見えても、どこかに人間の自己主張というものが忍び込んでいるわざであります。それが良い正しいわざであればあるほど、七日目に中断することが必要なのではないか。
 十戒の安息日の規定をみても、神礼拝のことはとりあげていないのです。われわれが仕事を休む、人間のわざを中断するということがとりあげられているのです。そこでは「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。そしてその「聖とする」ということの具体的内容として、人間のわざをやめるということがいわれているのであります。ですから、極端に言えば、六日間働いて疲れ果てている人は、家で休めばいいのです。休養すればいいのです。しかしそれではどうしても休養にならない、神様からの平安を受けたいというのならば、多少無理してでも礼拝に出かけていけばいいのです。それは人さまざまだろうと思います。また同じ人によっても状況によってさまざまの選択の仕方があるだうろと思います。ですから、聖日礼拝厳守などという言い方はとりたくないのです。家にただいるだけでは、ちっとも休養にはならない、安息にはならないと思うならば、無理してでも礼拝に出てくればいいと思うのです。またそうする必要があると思うのです。それを律法的にいう必要はないのです。
 ところが律法学者・パリサイ人はそれを律法主義的に人々に押しつけた。その日は人を裁く日になってしまった。時々紹介してきましたが、ある人の言葉に、人が生まれた時からだれにも教えられないでもっているわざがある、それは人を裁くことだと言っておりますが、その「人を裁く」と言う人間のわざを彼らは安息日に発揮するのであります。まさにそのわざを安息日に止めなくてはならないのに、その日にそれをますますやるのであります。そうしてそれは神の子であるイエスを殺すことに発展していくのであります。

 そしてこの安息日というのは、七日目ごとに向こうからやってくるということ、そうしてその日に自分たちの仕事を中断するということが大事であります。もともと安息日という言葉は、ヘブル語では、安息という意味はなく、やめるという意味なのだそうです。それは具体的には中断するということであります。ですから、この日はわれわれの生活の中で、この日は自分の仕事の段取りから言って、この日に休もうという日ではないのです。いやおうなく、七日目ごとに向こうから有無をいわせずにやってくる、そのことがこの安息日ということで大事なことであります。つまりこの日はわれわれが自分の都合に合わせて、有給休暇をとるという日ではないのです。七日目ごとにやってくる、そういう自然のリズム、それは神が造られた自然のリズムに合わせて、七日目ごとに休むということが大事なのです。それは不思議なことに人間の体の生理にも合致していることなのではないかと思います。
 それはつまり、この安息日律法を守ることによって、われわれの「時」というものは、自分たちが勝手に支配できるものではなく、神がわれわれの時を支配しておられるのだということを覚えるのだとある人が言っております。ですから、この十戒の第四の戒めは、神が時を支配しておられる、そのことを承認し、そのことに感謝し、賛美する日なのであります。

神は六日間にわたって、このわれわれの住んでいる世界を造られ、そして七日目に休まれた、だからわれわれ人間もこの神の造られた世界のなかで安心して休みなさいと聖書はわれわれに告げるのであります。われわれは自分たちのわざを止めて、休んでいていいのだろうかと心配するかも知れません。詩編の一二一編に「わたしは山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどむことはない。見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。」と歌われております。主なる神は休まれることはないというのです。また詩編の一二七編には「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならなぬものを与えられる」と歌われております。だから、あくせく働くことなく、安心して休みなさいと言われるのです。
 神が休まれるということは、われわれが想像することとは違うようであります。それはちょうど小さい赤ちゃんのかたわらで寝ている母親のようにどんなに小さな動きにも敏感に反応するようにして眠っている、休んでいるということであります。それは主イエスが嵐の中で舟の中で安心して眠っておられたように眠っておられる、その姿を見てわれわれもたじろぐことなく、思いわずらうことなく、
嵐の中で眠ることが要請されているような神の眠りであるかもしれません。