「弟子を選ぶ」  ルカ福音書六章一二ー一六節

 イエスは弟子の中から十二人を選びました。「夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」と記されております。ルカによる福音書によれば、この十二人のほかに七十二人の弟子がいたことが記されております。イエスはこの時多くの弟子のなかから十二人を選んだのです。ある人の説明では、「これは息もとまるほどの厳粛な場面だ。イエスは威厳に満ちて弟子達の前に立ち、厳かな声で『シモンよ、前に出なさい、アンデレよ、前に出なさい』と、こうして十二人が選ばれたのだ。そこで主イエスは他の弟子達が列席しているなかで十二人を選ばれたのである」というのであります。
 ここではまさに選抜という意味の選びが行われているのです。今まで聖書でいっている選びというのは選抜という意味ではないといってきたと思います。われわれが救われるのは、神の選びにあるということは聖書の大切な教えですが、その場合の選びというのは、選抜という意味よりは、われわれの救いの根拠はこちら側にあるのではなく、神の側にある、つまり、救いの優先権はわれわれのほうにあるのではなく、神のほうにある、そこに救いの確かさというものがあることを示しているのだと述べてきたと思います。だから選びというのは、この人を選んで、この人を選ばないという選抜ではなく、そういう意味からいえば、神はすべての人をそのようにひとりひとり選ばれているのだということなのですが、ここでは明らかに選抜としての選びということが行われているのであります。

 ルカによる福音書では、イエスはその前の夜に祈るために山に登り、夜を徹して神に祈られたと記されております。そうして夜が明けてから、弟子達を呼び寄せ、とあります。ですから、このときイエスがこの十二人を選ぶ時に、主はどんなに祈られたか、考え抜かれたかということであります。このところを説教しているなかで竹森満佐一の言葉が大変印象深いことを言っております。「十二人が選ばれるためにイエス・キリストは夜を徹して祈られたと書いてある。ここではキリストを三度も知らないと言ったペテロが入っている。このペテロを選ぶためにその十時間なり十二時間の夜を徹して祈られた間の、どれだけの時間をキリストはおとりになったことだろう。ペテロの弱さを十分知っておられたキリストは、どんなに、ペテロのために祈られたことだろう。それとごこか、イスカリオテのユダも選ばれている。ユダのためには、キリストはどんなに祈られたかわからないと思う。ユダの弱さを知っておられる。ユダがどういうところで失敗しそうなこともおわかりにならない筈はない。それが選ばれるためにどんなにキリストは祈られたかわからない。従って、これだけのものを選ぶために夜を徹 してキリストが祈られても、なお、足りなかったのではないか。それなら、われわれが選ばれるためにもまた、キリストは夜を徹して祈られたのである。自分が選ばれるために、ペテロよりも長い祈りが必要なかったといえるだろうか。ペテロよりも少ない祈りで、自分は十分なのだと言える人がひとりもあるだろうか」というのであります。
 先日祈祷会の聖書研究のところで、ヨハネによる福音書で、ちょうどユダの裏切りのところを学びましたが、そこの箇所で、「あなたがた全部の者について、こういっているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書の言葉は成就されなければならない」というところがあって、イエス・キリストがユダの裏切りについて予告するところがあります。イエスはその時、このユダについても「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」と言っているのであります。ユダが裏切りそうなことも十分知った上で、祈りに祈って、それでもユダを十二人のひとりに選んだのであるというのです。それはもちろんそういう役割、つまりイエスを裏切らすためにわざわざユダを選んだのだというのではないのです。イエスはそんな意地の悪い選びかたをなさったわけではないのです。そうではなくて、イエスはユダのそういう可能性があることを十二分に承知しながら、それでもユダを選んでいるのであります。
 
 他の福音書をみますと、イエスが最初に弟子達を召す時には、イエスがガリラヤ湖を歩いておられたときに、シモンとアンデレとが網を打っておられるのを見て、「わたしについてきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」と言われたのであります。そうしてそういわれたシモンたちが、つまりペテロたちがすぐに網を捨てて、イエスに従ったとあります。この時にはイエスはペテロたちのことはあまりよく知っていたわけではないのではないかと思います。ここでの問題は、イエスが「わたしについて来なさい」と言われて、すぐ網を捨ててイエスに従うかどうかが、弟子になる資格というか、基準だったようであります。そこではイエスの召しにすぐというか、素直にというか、ともかくイエスの召しに応えるかどうかが弟子になるかどうかの基準だったのです。ある意味では、こちら側の応答が問われた。こちらの決断が問われた。それは勿論、自分のほうにその資格があるかどうということではなく、そんなこととは全くかかわりなく、ただイエスがこのわたしに声をかけてくださった、召してくださった、それに素直に従うかどうかが問われているのであります。
今回は違うのです。イエスはもう弟子達のことはよく知っているのであります。イエスは夜を徹して祈られて、考え抜かれて、十二人ひとりひとりについてよく知った上で、選んでいるのであります。しかもほかの弟子達がいるところで、その中から選んだのであります。もちろんこの選抜の基準は、この人が頭がいいとか、能力があるとか、あるいは信仰的だとか、そんな基準で選ばれたわけではないでしょう。パウロがいいますように、「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみよ、。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」とありますように、その人が優秀な人間だから、その人を選んだのではないのです。
 ただ言えることは、イエスがひとりひとりをよく知っていて、選んだのだということであります。福音というものを宣べ伝えるためにはどういう人がふさわしいかを考え抜き、祈りそうして十二人を選んだのであります。何か会社の運営に役立つ者を選ぶのではないのです。あくまで福音の宣教のためであります。
 福音とは、「この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」という性質のものであります。それは「弱い時にこそ強い」と告白できるような性質のものであります。だから神は弱い者を選ばれるのであります。ただその場合大事なことは、「神は知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び」と言われているということであります。つまり、この知者をはずかしめ、この世の強い人をはずかしめるのは、あくまで神がなさるのであて、選ばれた弱い人が強い人をはずかしめのではないということです。強い人、優秀な人を選ばないで、弱い人を選ぶことによって、神がそうなさるのであって、選ばれた弱い人、愚かな人が何か見返すようにして知者を、強い人を辱めるのではないということなのです。もしそれならば、大変人間的な恨みがこもることでしかないのであります。ですから、選ばれた弱い人、愚かな人は、強い人に対して誇ることなんか何ひとつできないのです。ただ神を誇る以外にないのであります。

 イエス・キリストはペテロをよく知っていて選ばれた。イスカリオテのユダをよく知っていて選ばれたのであります。繰り返すようですけれど、これはユダに裏切る役割を果たすために選んだのではないのです。もしかしたら裏切るかも知れない、しかし福音の宣教のためには、このユダを選ぼうとして選んだのであります。福音が宣教されるためには、裏切る弱さをもっているペテロ、あるいのはもっと積極的に先生であり、主であるイエスを敵に売り渡すという仕方で裏切る強さをもっているユダによって、福音は宣教されていくのであります。もちろん、ペテロの弱さだけで、そのままで福音は宣教されることはないのです。弱いペテロがキリストの愛にふれて励まされ、強くされて福音は宣教されていくのであります。あるいはは自分の正義のためにイエスを裏切るユダがキリストの十字架によって打ちのめされ、悔い改めて、福音は宣教されていくのであります。しかしユダはそれはできないで、自分の過ちには気がつきましたが、自らの命を断ってしまったために使徒からは失格してしまったのであります。ある意味では、そのユダの代わりをしたのがパウロだったのではないか。パウロはユダと 同じように、自分の正義のためにクリスチャンを迫害し、キリストを迫害していたのであります。そのパウロがキリストの十字架に出会って、うちのめされ、そうして使徒として召されていくのであります。こうして、弱いペテロだけでなく、強いパウロも、あの自己主張の激しいパウロもまた選ばれて、福音の宣教に用いられていくのであります。
ユダはしかしこのイエス・キリストの選びを知らなかった。知ろうとしなかったのであります。ルカによる福音書には、一六節をみますと、「それからイスカリオテのユダ、このユダが裏切り者になったのである」と説明されております。ここでは、裏切り者のユダとは書かれていないです。新共同訳聖書では、「裏切り者となったイスカリオテのユダ」となっております。ユダは初めから裏切り者だったのではなく、裏切り者になったのであります。
イエスがある時、種まきの話をなさいました。「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたにおち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、ほかの種はいばらの間に落ちた」というのです。種をまく人は初めから種を道ばたや、岩や、いばらの上にまこうなどとはしない筈です。良い地にまこうとしていたのであります。しかしまいているうちにある種は道ばたに落ち、岩に落ち、いばらに落ちてしまったのであります。この種まく人とはイエス・キリストのことであります。ここではいわばイエスはご自分の伝道の失敗を語っているところではないかと思います。
 大庭みな子という作家がご自分の母校であります津田塾大学の創始者である津田梅子の伝記を書くことを依頼された。しかし彼女がいうには、自分は津田塾では落ちこぼれの人間でとても津田梅子みたいな立派な人間でないから断ろうとしたというのです。ある人との対談でこういうことを言っているのです。「もっとも、そういう反逆者を育てるのは教育の運命みたいなものですわね。しょうがありませんわね。」といいますと、それを受けて、その対談者の相手である、河合隼雄が「反逆者が育たなかったら教育の価値はないですよ」というのです。
 「反逆者が育たないような教育は教育ではない」というのです。そういう意味では、イエスの弟子の教育は、ユダという反逆者を育ててしまったということで、立派な教育者だったということになるかも知れません。
 イエスはユダを選んだのであります。しかしユダはそのイエスに反逆して最後には敵の手に引き渡してしまった。神の選びは人間を操り人形のようにすることではないのです。裏切る可能性を持ったユダが選ばれ、そして事実裏切ってしまった。ある意味ではイエス・キリストの選びは失敗したのであります。しかし、そのことがまたいっそう福音というものを明らかにした。このユダで代表される人間のためにイエス・キリストは十字架で死んでいったということで、よりいっそう福音が明らかにされていったと言う意味では、このイエスの選びは失敗ではなかったということなのかも知れません。ユダがいなくてもイエスは十字架の道を歩まれたでしょう。それはもう間違いのないことであります。しかしこの弟子のひとりのユダの裏切りがあり、引き渡しがあってイエス・キリストの十字架があったということは、キリストの十字架の意味がより鮮明になっていったのではないかと思います。神の救いのご計画は、人間の罪が深まれば深まるほど、その罪に負けないで、その罪にもかかわらず、ますますその罪を赦すことによって、よりいっそう強力に遂行されていくのであります。

ヨハネによる福音書では、イスカリオテのユダの裏切りについて述べる時にこういうのであります。「『あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがのうちのひとりは悪魔である。』これは、イスカリオテのシモンのユダをさして言われたのである。このユダは十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ福音書六章七○節)。もしユダが立ち直ることができるとすれば、自分は自分のことをよく知っておられるイエス・キリストによって選ばれていたのだ、そのことに気がつくことによってではないかと思います。このような自分をもイエス・キリストは選んでくださっておられた、そのことに気づくことがわれわれが立ち直るきっかけになり、励ましになり、力になるのではないか。「わたしがお前を選んでいる、それなのにお前はわたしを裏切ろうとするのか」とイエスはユダにいうのであります。ところがユダはそのようにして自分がイエス・キリストによって選ばれていたということを忘れていた、あるいは拒否しようとしていた、そのために裏切りということが起こったのではないかと思います。イエスはさいさいにわたって、こ のユダに対して、「お前はわたしを裏切ろうとしいているね」と警告を発しているのであります。なんとかしてその裏切りを思いとどまろうそうとしているのであります。しかしユダはそのイエスの思いを無視していったのであります。
ペテロも結局はイエスを三度「そんな人のことは知らない」といって、裏切っていくのであります。しかしペテロは三度目にイエスに対する裏切りの言葉を吐いた時に、鶏の鳴き声と共に、イエスの言葉を思い出した。そして「お前の信仰がなくならないように、わたしは祈っている」という言葉を思いだした。その時にペテロは外に出て激しく泣いたのであります。ペテロはこの時自分の弱さに、自分のふがいなさに気づいて悔しくて泣いたのではないのです。「イエスの言葉を思い出して」、外に泣きにいったのです。イエスがこの弱い自分のために祈っているということに気がついて外に出て激しく泣いたのであります。このイエスの祈りは、イエスが十二人の使徒を選ぶ時に、その前の夜に夜を徹して祈られたという祈りとつながる祈りだったのであります。
 しかしイスカリオテのユダには、この涙はなかった。イエスを引き渡し、いよいよイエスが十字架で処刑されることが分かったとき、彼は自分の罪に気づくのであります。そのためには泣いたかもしれない。しかしその涙は自分のふがいなさに対する涙でしかなかったのではないか。自分の罪に対する自責の念、その悔しさだけでしかなかった。だから彼は最後は自分で自分の罪を処置してしまったのであります。そのユダを選んだのがイエスであること、そのためにイエスがどんなに祈って選び、そしてその以後もこのユダのためにどんなに祈り続けたかということに彼は思い至らなかったのであります。