「幸いとわざわい」 ルカ福音書六章一七ー二七節

 イエス・キリストは山に登って、徹夜して祈られて、それから弟子達を呼び寄せ、その中から十二人を選びました。それから、一七節をみますと、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたのであります。すると多くの群衆がイエスの教えを聞こうとして集まってきました。また病気をなおしてもらうとして、イエスのところにまいりました。そのときイエスは目をあげ、弟子達をみて言われた。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」。
 これはご承知のように、マタイによる福音書では、いわゆる、「山上の垂訓」、今ではもうそういう言葉はあまり使われませんが、今では「山上の祝福」とか「山上の説教」とか、いわれている部分にあたります。マタイではこうなっております。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子達がみもとに近寄ってきた。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた『こころの貧しい人々はさいわいである。天国は彼らのものである。』」
 マタイによる福音書では、山の上での祝福、説教になっているのに対して、ルカによる福音書では、山を下りてからの祝福、説教、「平地の説教」とも言う人がおりますが、山をおりてからの説教になっていて、そこにマタイとルカの違い見ることもできるかもしれません。マタイのほうでは、イエスが山の上で教えられると、人々はその教えにひどく驚いたというのです。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである、というのであります。そこでのイエスは威厳に満ちておりました。だからと言ってマタイによる福音書によるイエスがいつも威厳に満ち、権威にみちていた、いわば威張っていたというわけではありませんが、少なくもこの教えに関しては、山の上で、山といいましても丘のような低い山でしょうが、それでも山の上から権威をもって教えられたのであります。しかしそれに対してルカによる福音書では、山からおりて、平地に立たれ、われわれと同じ平面に立たれてわれわれを祝福し、われわれに教えられたと書くのであります。それはルカによる福音書では、イエスの誕生の記事で、救い主であるイエスは飼い葉おけの中で誕生したという記事でも わかりますように、イエス・キリストはわれわれの低さの中に立ちたもう救い主と描かれているのであります。

 その祝福の冒頭の言葉は「あなたがた貧しい人たちは、さいわいである」という言葉で始まります。新共同訳聖書では、この「あなたがた」という言葉は省かれております。しかし動詞の使いかたからいいますと、ここは「あなたがた」なのであります。マタイによる福音書のほうは、「心の貧しい人々はさいわいである」と、「あなたがた」ではなく、三人称が使われております。この「あなたがた貧しいひとたち」とは誰のことでしょうか。「イエスは目をあげ、弟子たちを見て」とありますから、文脈からいいますと、弟子達のことであります。ただ、二四節をみますと「あなたが富んでいる人々たちは、わざわいだ」とありますので、そうなりますと、同じ弟子に対して、「あなたがた貧しい人たち」といい、「あなたがた富んでいる人たち」となって、ちょっと具合がわるくなりますので、新共同訳聖書では「あなたがたを省き」、また、マタイによる福音書では、「心の貧しい者たち」と三人称のよびかけになっているのかもしれません。

 しかしともかく、形の上では、まず弟子達に向かって、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」といい、続いて「あなたがた飢えている人たち」「あなたがた泣いている人たち」というのであります。これらの言葉は、「あなたがたが貧しくなったら、さいわいだとか、あなたがたが飢えたら、あなたがたが泣くようになったら」ということではないのです。  「今現に貧しいあなたがた、飢えているあなかだた、泣いているあなたがたはさいわいである」とイエスは言われるのであります。

マタイによる福音書には、このほかに「柔和な人たちはさいわいである」「義にうえかわいている人たちはさいわいである」「あわれみ深いひとたちはさいわいである」「心の清い人たちはさいわいである」「平和を造り出す人たちはさいわいである」とありますが、ルカのほうにはないのです。「柔和である」とか「義にうえかわく」とか、「あわれみ深い」とかということは、われわれ人間の姿勢のありかたであります。それによって神から祝福をうけますよ、と言われているわけです。しかしルカによる福音書にはそういうことは省かれているのであります。つまりルカによる福音書のほうには、われわれ人間の心のありかたとか、生活の態度の姿勢とか、われわれ人間のほうの生き方によって祝福されたり、されななかったり
する、そういうことはいっさい書かれていないのであります。
われわれの幸福観というのは、なにかをしたら、なにかを変えたら、幸福になるという考えかたになれすぎているのではないかと思います。そういう考えをわれわれがもっておりますから、マタイによる福音書にある「心の貧しい者はさいわいである」という言葉を聞くと、あわてて「心を貧しくしなくては幸福になれないのではないかと思って、心を貧しくしなくてはならないと思い始めるのではないかと思います。しかしそれならば、ルカが書いておりますように、「貧しい者はさいわいだ」と言われているからと言って、われわれは自分から貧しくなれる筈はないと思います。もちろん、これは経済的な貧しさということだけではないだろうと思います。これは直接的には、弟子達に対して「あなたがた貧しいものはさいわいである」というのですから、弟子達はもちろん金持ちではなかったでしょうが、そうかといって、極貧の貧しさというものでもなかったと思います。ですからこれは単に経済的な貧しさだけでなく、それこそマタイが解釈しましたように、「心の貧しいもの」という意味をもっている、つまり「自分は何ももたないもの」ということであります。それはわれわれが努力してそうな れるものではないのです。
 ここでは、貧しくなったら幸福になるとか、飢えたら、泣いたら幸福になるという、われわれの心のありかたとか、生き方を要請しているのではなく、「今貧しいあなたがた、今現に飢えているあなたがた、今泣いている人々は幸いだ」ということであります。これはほかの人が言ったら、なんの力にもならない言葉ではないかと思います。目の前にいる貧しい人に対して、それどころか今飢えている人を前にして、こんなことをいったら、どやされるような言葉であります。イエス・キリストだからこそ、この祝福には力があるのであります。
 つまりここでいわれていることは、自分達のおかれている貧しい現状、飢えている現状、泣いている現状、そういう自分のおかれている現状を変えてみたら幸福がえられるということではなく、今いるあなたの現状そのままで神の祝福があるのだということであります。それはどういうことかといいますと、今おかれている現状を違った視点から見直してみたらどうかということではないかと思います。
イエス・キリストはいつもそのように、われわれの現状、今ある姿そのままでいいのだとはいいません。イエスはしばしば「自分を捨てなさい」というのです。それはなによりも自分の現状を激しく、徹底的に変えなさいということの勧めであり、命令であります。しかしここではそうはいっていないのです。
 貧しいままでいい、飢えたままでいい、いま泣いている人はさいわいだというのです。二四節からは、しかし「あなたがた富んでいる人たちはわざわいだ、今満腹している人たちはわざわいだ」というのですから、いつでも、またどんな現状でも、今ある現状のままでいいとはイエスは言っていないのです。ここでも「あなたがた」と言っておりますので、弟子達に向かって「あなたがた」ということになりますと、前には「あなたがた貧しいものはさいわいだ」と言っていながら、同じ人に向かって「あなたがた富んでいる人たちは」というのはちょっとおかしい感じがします。ある人の説明では、今貧しい弟子達も、場合によっては、富んだ人になり、満腹した状態になるということだと説明しておりますが、あるいはそういうことの警告なのかもしれません。それはともかく、今富んでいる人、満腹している人はわざわいだというのですから、そういわれた人はやはりその富を捨てなくてはならない筈です。自分のおかれている現状を変えなくてはならない筈であります。ですから、イエスはいつも現状のままで、即、さいわいだと言っているわけではないのです。しかしここでは、今貧しいあなたがた 、今飢えているあなたがた、今泣いているあなかだたは、そのままでいい、そのままで幸いが与えられるとイエスは言われるのです。

 それではどういう現状の時に、そのままでいいというのでしょうか。貧しい現状、飢えている人、今泣いてる人の現状をとりあげて、イエスはそのままでいい、そこに神の祝福があり、神の慰めがあるからだというのです。それは「今満腹している」状態よりはよほど祝福された状態だというのです。今満腹している人は、自分に満腹している人であります。自己満足してあぐらをかいている人であります。そういう状態にいる人はすくなくも神からの祝福とか、神からの慰めを受ける余地などひとつもなくなっている、本人は自己満足して悦にいっているかもしれませんが、しかしそれが本当に祝福されている状態だろうか。

われわれの人生には、自分の現状を変えたくても変えられない現状というのはいくらでもあります。経済的な貧しさなら、今日では今の日本にいるわれわれには、あるいは少しは変えることができかもしれませんが、たとえば生活保護を申請するとかして、貧しさから脱却できるかも知れませんが、しかしそうした経済的な貧しさではなく、マタイによる福音書がいいかえましたような「心の貧しさ」は、変えようにもかえられないものであります。自分はなにももっていない、自分は一タラントとしかあたえられていないという現状は、なかなかかえられないものであります。どんなに努力しても変えられないという現状というのがあります。重い病気におちいってしまうということもそうであるかもしれません。愛する人を亡くしたという現状はもう変えられません。今イエスはそういう人々に向かって、「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがのものである」というのです。「神の国」とは「神の支配」ということであります。つまり、自分の貧しさを知っている人は、もうただ神により頼む以外にない状況なのです。それならば、それは今満腹して自己満足にあぐらをかいている人 たちよりは、よほど祝福されているではないかとイエスは言われるのです。その貧しさのなかでこそ、神の支配を強く感じられるようになるからであります。信仰とは、なにか自分の手に神様にもっていくお土産を一杯にして、それをもって、それを神に捧げることではないのです。自分の手を全部空っぽにしてその空の手を神に捧げる、それが信仰ということであります。自分の手を空っぽにしなければ、神様から祝福という宝ものを手にいれてもらえないのです。

 われわれプロテスタント教会の代表的な信仰問答書にハイデルベルグの信仰問答書というのがありますが、その第一の問いは「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めはなんですか」という問いであります。ある人がこのことをとりあげて、「ここでは、生きている時にも死ぬ時にも、あなたのただひとつの『喜びは何か』」とは問うていない、「慰めはなにか」と問うている。このことは大切であるというのです。われわれにとってのただひとつの喜び、それはただの喜びではなくて、慰めなのであります。慰められるということがわれわれの喜びであり、幸いであり、幸福なのであります。つまり慰められるということは、その前に悲しみがあるということであります。泣くような状況があるということであります。そういうなかで慰めということが起こるのであります。ですから、泣いたことのない人、泣くことが出来ない人、悲しみを知らない人には、慰めというのはひとつもわからないのです。慰めが喜びにならないのです。
 「あなたがた今泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」とあります、マタイによる福音書では、「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるであろう」となってりおます。ルカによる福音書でも、二四節をみますと、「あなたがた富んでいるひとたちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである」とありますので、「笑うようになる」ということは、「慰められる」ということだと考えていいと思います。
 われわれの救いは、慰められるという救いであります。ですからこの救いは、悲しみを知らない人、自分の貧しさを知らない人、自分の飢えを知らない人には、無縁の救いであります。悲しみを知っている人が受ける救いであります。それが慰めであります。ハイデルベルグ信仰問答のその問いに対する答えは「わたしが身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」ということだと答えるのであります。
自分の今おかれている現状、それが悲しい状況であるならば、悲しい状況であればあるほど、われわれはなんとかしてそこから脱却して、その現状を変えなくてはならないと、そのことばかり思いがちですが、ここではイエスはそのままでいい、その悲しみのままでいい、そこに慰めが与えられるのだ、と言ってわれわれを祝福してくださるのであります。そのイエス・キリストの祝福を受けた時に、あるいはわれわれは自分のおかれている現状を変えられるようなるのかも知れないと思うのであります。
自分のおかれている現状をなんとかして変えなくてはならないとばかり考えますと、われわれはやたらにあくせくして思い煩いばかり多くしていきますが、今イエス・キリストがわれわれのおかれている現状をそのままにして、目を上にあげて、神からの祝福を受けてみなさいと言われることに気がつきたいと思います。今おかれている現状のまま、その中でふっと目を天にあげてみる、そうしたら天からおもいがけない祝福と慰めが与えられるのであります。