「慈悲深い者になれ」 ルカ福音書六章二七ー三八節

 二七節をみますと、「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。」と言われております。この「しかし」という言葉は何を現しているのでしょうか。これは文脈から言えば、その前の言葉を受けているわけです。つまり二○節から始まる
イエスによる「さいわい」と「わざわい」の言葉であります。特に二四節から始まる「わざわい」の言葉であります。そこでは、「しかしあなたがた富んでいる人たちはわざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。」という言葉で始まり、「人が皆あなたがたをほめる時は、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである」とわざわいについて述べております。つまり、そこでは、富んでいる人、今満腹している、今笑っている人、そして今ほめられている人はわざわいだというのです。それを受けての「しかし」であります。イエスからわざわいだ、と言われているのを聞いた時に、弟子達はあるいは、いい気味だと思ったかも知れないのです。それを見越すようにして、イエスは「しかし、聞いているあなたがたにいう。敵を愛し、憎む者に親切にせよ」と言われているのであります。イエスが「わざわいだ」といわれている人々のことを考えたら、「ああ、そういう人たちは軽蔑していいんだ」とわれわれは思いたくなるかもしれない。しかしイエスは「しかし、そうであってはならない」と言うのであります。確かに「わざわいだ」と言われるような 人がこの世にはいることは確かだ。しかしそれはイエス・キリストがそう言われるだけで、イエス・キリストが嘆くだけであって、あなたがたがその尻馬にのって、ざまあみろなどいう気持ちになってはいけないということであります。その「しかし」であります。そう考えますと、イエスから「わざわいだ」と言われている人々は、「今満腹している人々はわざわいだ」というような言われかたをしているのではなく、「あなたがた今満腹している人たちは」と言われている「あなたがた」と言われていることが大事なんです。
 神様から「わざわいだ」と言われる人を、まるで自分と関係がないかのように、あの人々はわざわいだと受け取るのではなく、それは自分に向けられる言葉として受けとめなくてはならないということなのです。お前が、もし今満腹しているなら、今わらっているならば、お前が今富んでいるならば、」わざわいだと、自分の問題としてそれをうけとめなくてはらないということであります。そのためにイエス・キリストは同じ弟子に対して「あなたがた貧しい人達はさいわいだ」といい、そして同じ弟子達に対して「あなたがた富んでいる人たちはわざわいだ」と言われたのだということが分かるのであります。

 神様からわざわいだと言われる人々は、それはわれわれからみたら確かに敵だし、自分をのろう者であるかもしれない、自分をはずかしめる者であるかもしれない。しかしあなたもまたいつそういう立場にたつようになるかわからないのだということであります。あなたもまたある人に対して、敵対関係になり、ある人をのろい、ある人をはずかしめるようになるかも知れないのであります。

 イエスは「しかし、あなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、辱める者のために祈れ」といいます。マタイによる福音書には、「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていることは、あなたがたは聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とあります。「隣人を愛し、敵を憎め」と昔の人々、つまり旧約聖書での律法では言われているが、しかし敵を愛しなさい、ということであります。しかしどんなに旧約聖書をみても「隣人を愛しなさい」という言葉はありますが、「敵を憎め」という言葉はないのです。考えて見れば、これはあたり前のことで、こんな言葉は聖書にはないし、どんな書物にもないのです。なぜなら、敵に対しては憎む感情は誰でももっているから、わざわざ「敵を憎め」などと命令したり、勧告したりする必要はないからであります。敵は人から勧告されなくたって、憎むのです。われわれは敵は憎らしいと思うのです。つまりそれはわれわれの自然の感情であります。そうであるならば、その敵を「憎む」という感情に逆らって、敵を「愛する」ということは、感情ではなくて、「意志」だという ことになると思います。愛は好き嫌いの感情ではなく、意志なのだということであります。敵は憎いと思う、しかしそうした感情に逆らって、敵を愛するのだというのであります。憎む者に親切にする、親切なんかしたくない、憎くて憎くて仕方ないのです、しかしその感情を面にださないで、親切にするのであります。そんなものは偽善的だというかもしれません。しかし偽善的だというのは、敵に親切にして、自分は偉ぶるとか、自分は英雄だと人に見せびらかそうとするならば、偽善であります。しかしこの場合の親切はそんなこととは違うのです。人によくおもわれようとしてそんなことをするのではないのです。憎くてたまらない、しかしそういう自分の感情を殺してなんとかして親切にしようと意志するのであります。そういう自分が偽善だということはよくよく承知しているのです。こんな親切はなんにもならないかもしれないと思いつつ、それでも親切にするのです。そういうことはわれわれの日常生活においてもいくらでも起こることではないでしょうか。姑に対する嫁の親切、横暴な夫に対する愛、その逆の場合もあるかもしれません。われわれは敵を愛するということは、難しいとおもうか も知れませんが、そういうことからいえば、隣人を愛することだって、同じように難しいのではないでしょうか。
 「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ」といわれます。祝福するとか、祈るということは、神の前でするということであります。これは一層難しいことであるかもしれません。しかし考え方によっては、これならできるかもしれないと思うのです。神の前でなら、自分を呪う者を祝福できるかもしれません。自分を辱めるもののために祈ることはできるかもしれません。それはわれわれも神の前に出たならば、自分もまた人を憎む者であるし、人をのろいたくなる人間であるし、人を辱める可能性のある者であることを素直に認めることができるようになるし、そうしてそういう自分が神に許された者であることを知ることができるからです。だから神の前では、祝福できるかもしれない。神の前ではその人のために祈ることはできるかもしれない。その理由の一つは、直接自分の目の前に憎い奴がいないからということがあると思います。祈るということは神に祈るわけで、直接、具体的に相手に親切をしなくてはならないということでもないからです。ある意味では、自分の頭の中の問題、心の中の問題、観念の中の問題だから案外相手のことを祝福し、相手のために祈ることもできるかもし れない。それは確かに偽善的なことかもしれないのです。しかしそういうことを積み重ねていくことが大事なのではないか。現実には相手を赦せなくても、せめて神の前で祈る時には相手を赦すという心をもつ、その積み重ねが大事なのではないか。マルコによる福音書には、主イエス・キリストの言葉に、「立って祈る時、だれかに対して何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがの父も、あなたがたのあやまちをゆるしくださるであろう」という言葉があります。「立って祈るとき」、というのは、少し解釈すれば、せめて祈る時ぐらいは憎いと思っている相手も赦してあげなさい」という意味にもとれると思うのです。そのように祈りつづけるうちに、相手を次第次第に赦せるようになるのではないか。
三一節には「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」といいます。イエスは「自分のように隣人を愛しなさい」といわれますけれど、この言葉、「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」というこの言葉こそ、「自分のように」ということをよくいいあらわしている言葉ではないかと思います。自分がその立場にいたら、自分だったら、相手に何をしてもらいたいかということは、よく分かる。自分がおなかが空いている時には、お説教なんか欲しくないのです。具体的にパンの一切れでも欲しいわけです。具体的なのです。それなのに他人のことになると、相手がパンが欲しいと訴えておりながら、われわれはしばしばパンを与えないで、お説教ですまそうとしているのです。自分のように隣人を愛するということは、「人々に自分がしてほいしとあなたが望むことをその人にもしてあげる」ことだと言われるのです。
三六節に「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者になれ」とあります。ここはマタイによる福音書では「あなたがたの父なる神が完全であられるように、あなたがも完全であれ」というところです。ここで使われている「慈悲深い」という字は、後の英語のコンパッション、つまり同情する、という意味に用いられる言葉で、相手の立場に立つ、他者の苦しみを自分のものにする、という字だと、ある人が指摘しております。それはまさに「人々にしてほしいと望むことを人々にもそのとおりにする」ということ、相手の立場に立って、相手が一番望んでいることをするということであります。もちろんそれは相手のいいなりになるということではないと思います。慈悲深いということは、本当に深い意味で、相手の立場にたって、相手が今一番なにを欲してるかをわかってあげるということであります。

 そしてイエス・キリストは「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。かえしてもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか」といい、「あなたがたは敵を愛し、人によくしてやり、またなにも当てにしないで貸してやれ」というのであります。愛というのは、報酬を求めないというのです。しかしその後イエス・キリストはこういいます。「何も当てにしないで貸してやれ、そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子になるであろう」というのであります。「そうすれば受ける報いは大きく」というのです。それでは結局は報いを求めての愛かということになります。これはルカによる福音書だけにある言葉です。マタイによる福音書にはないのです。ルカによる福音書は今まで見てきてもわかりますように、ルカにある教えはきわめて庶民的であります。具体的であります。従って無報酬の愛などという高級な愛について語ろうとしないのだ、われわれもまたやはり人に親切にすれば、また人から親切にされたいと望むことは当然なのだ、ということなのかもしれません。しかしそれにしても「何も当てにしないで貸してやれ、」といっておきな がら、すぐそのあとで「そうすれば受ける報いは大きく」というのはどうしてなのでしょうか。この報いは、この場合神からの報いということではないかと思います。だからすぐ「そうすれば受ける報いは大きく」といった後、「あなたがたはいと高き者の子となる」言われるのであります。つまり「何も当てにしないで貸してやれば、神からの報いはある」だから、直接相手からの報いを当てにしないで、貸してあげなさいということであります。その報いというのは、高利貸しが利息つきの返済を求めるような直接的な報いではないのです。しかしそうかと言って、愛というのは無償の愛だなどと高尚ぶることもないのです。報いを求める愛でいいのです。しかしそれは最後的には神からの報いをあてにする愛であります。そのような無報酬の愛をしていれば、必ず神からの祝福があるということを確信し、またそれを期待してもいいのです。それを全く期待しないほうが、その愛は少し高ぶった愛になるのではないかと思います。マタイによる福音書もまた、「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事をみておら れるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言われているのです。ここでも天の父からの報いを求めるということ、そして天の父からの祝福を当てにするということがもっとも信仰的な姿勢なのだと言われているのであります。

 これは確かに神からの報いであります。人間からの直接の報いではないかもしれません。しかし三八節には「与えよ、そうすれば、自分にも与えられる。人々は押し入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量りで、自分にも量りかえされるであろうから」といわれておりますので、ここは明らかに人からの報いがあると言われているわけです。ちょうど指揮者が全力をあげて指揮をした後、その演奏がいい演奏であれば、聴衆の拍手喝采を受ける、それはひとつもいやしいことではないし、うれしそうにその拍手を受ける姿というものは、美しいものであります。そういう報酬を、そういう報いを求めてもいいということであります。愛というのは、そのように高利貸し的な報酬ではありませんが、必ず応答を求めるものであります。応答をもとめないような愛は、ひとりよがりな愛であって、本当は愛ではないのです。神もまたわれわれに愛を切実に求めておられるのです。「あなたは心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言われているのです。それは何よりも神がわれわれに愛を求めておら れるからであります。主イエスもペテロに対して、三度も「あなたはわたしを愛するか」と求めておられるのであります。応答を求めないような愛は愛ではないのです。

われわれの父なる神が慈悲深いように、われわれも慈悲深い者になりたいと思います。