「人をさばくな」  ルカ福音書六章三七ー四二節

 
 「人をさばくな、そうすれば自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。」と主イエスは言われます。この言葉は、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」と、言われた後に、続けて言われたという形になっております。これはルカによる編集でそうなったのかもしれまんが、「慈悲深くなる」ということが、「人をさばかない」ということなのだということになって、これもわれわれにとっては考えなくてはならないことであります。「人をさばかない」ということが、人に対して慈悲深くなるということなのだというのです。われわれは本当にすぐ人をさばきたがるものだからであります。人をさばくということは楽しいのです。人の悪口をいうことは、われわれにとって最大のストレス解消になるくらいに楽しいものなのです。人を裁くと言うときには、なにか自分が相手よりも優位な立場に立っているような気がするからであります。自分に正義があるように思ってしまうからであります。ちょっと自分が人から悪口を言われたり、批判めいたことを言われただけで、一晩眠れない夜を 過ごしたことはどなたも経験していると思います。それが相手が決してそれほど悪意がなくてもであります。その言われたことが的を得ているからであります。人からさばかれるということ、人から批判されるということがどんなにつらいことか、そしてまた人を批判することがどんなに楽しいことかということであります。そういうわれわれが「人をさばかない」と心に決めるということは、それだけで慈悲深くなれるのであります。
 ペテロの第一の手紙には、「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」という言葉があります。愛は多くの罪をおおう、それはまさに人をさばかない愛であります。
 イエスは「人をさばくな」といわれた後、すぐ続けて「そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」といわれます。多くの聖書の注解者は、聖書で受け身が使われる場合は、その隠れた主語は神であって、神という言葉をみだりに使うことを避けるために受動態が使われる、従って、ここでも「そうすれば、自分もまた神にさばかれることがないであろう」という意味だというのであります。しかしそうだろうか。その後の文章をみれば、ここはもちろん神にさばかれないだうろ、ということも含むとは思いますが、やはり人からもさばかれないだろう、というわれわれの生活の知恵をも含んだ言葉なのではないかと思うのです。
 「ゆるしてやれ、そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ、そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々は押し入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのところに入れてくれるであろう。あなたがの量るその量りで、自分にも量り返されるからであろうから」と、続くのであります。ここにははっきりと、「人々は押し入れ」とありますから、単に「人を裁かなければ、神からも裁かれない」というだけでなく、人からも裁かれないという意味をも含んでいる筈であります。ある聖書の注解には、ここのところをこう記すのであります。「『押し入れ、ゆすりいれ、あふれるほどに量りをよくして』ということは、互恵的な倫理ではなく、神がその人の寛大さをはるかに超える寛大さで応えてくださることへの信頼である」と説明するのであります。
 しかしここはあきらかに、そんな高尚な倫理を語ろうとしているのではないと思います。日本語のことわざに、「情けは人のためならず」ということわざがありますが、今日では、それは「情けは人のためにするのではない、自分のためにするのだ」という意味に誤解して使われているようですが、もちろんそうではなく、それは「情けというのは、人のためにしておけばやがていつかは自分に帰ってくるものだ、だから人に情けをかけておけば損はないのだ」という意味であります。それはなんとかして、人に情けをかけることができるようにと促すことわざであります。われわれは無報酬の愛などということで動かされることはないのです。必ず報いというものをどかで求めるものであります。われわれの心の中には、功利主義的な思いというものが根強くあるのです。それをイエスもまた容認しておられるのです。そういう功利主義的な動機でもいいから、人に親切にしてやりなさい、人をさばくことをやめよとイエスはわれわれに教えようとしているのではないかと思います。それがまたルカによる福音書の一つの大事な特徴であります。
 一つの例を先取りして紹介しておきますが、ルカ福音書では、自分の命を捨てなさい、自分の十字架をおうてわたしについてきなさい、という教えているところで、ルカによる福音書だけはその後にこういうのです。「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てよう思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金をもっているかどうかを見るため、まずすわって計算しなだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が『あの人は建てかけたが仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出かける場合には、まず座して、こちらの一万人をもって二万人率いてくる敵に対抗できるかどうか、考えみないだうろか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。」そういうことを言って、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切れるものでなくては、わたしの弟子になることはできない」と言われているのであります。ここではわれわれが「自分を捨てる」とか「自分の十字架を負う」という聖書の教えの一番重要な勧 めですら、十分計算し、ある意味では功利的な計算の大切さを教えているのであります。
 そうであるならば、「人をさばかない」ということが、「そうすれば、単に神からさばかれないだけでなく、人からもさばかれることがないためだ」というように、人からさばかれないために、人を裁くなという勧めの言葉にとってもさしつかえないだろうと思います。

三九節からみますと、「盲人は盲人の手引きができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか」と主イエスは一つのたとえを語られたと記されております。これはマタイによる福音書では、律法学者・パリサイ人たちを批判する言葉として用いられておりますが、ルカ福音書のこの場所では、律法学者たちにたとえられるのではなく、弟子達にたとえられているようであります。すぐその後に「弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう」と言われているのと関連されているからであります。この言葉は、ここで使われますと、大変わかりにくい意味ですが、この文脈から言えば、「師」というのは、イエス・キリストのことであります。弟子というのは、イエスの弟子ということになります。つまり、イエス・キリストは人を裁かないかたである、そういう先生の弟子であるあなたがも人を裁いてはいけないということのようであります。イエスの弟子だからと威張り腐って、人よりも上に立って、人を批判し、裁く、そういう人は盲人だというわけです。それは自分の目の中に梁、新共同訳聖書では、丸太になっておりますが、要するに、自分には欠点や過ちをい くらでも犯す者であるのに、まるで自分はそんなことはないかのように思って人の目にある塵、新共同訳聖書では「おがくず」になっておりますが、人の小さな欠点を重箱の隅をつつくようにして、ほじくり出し、批判する、それはまるで盲人が盲人を手引きするようなものだとイエスはいうのであります。

 自分の目の中にある梁にはわれわれはなかなか気がつかないのであります。旧約聖書にダビデの話があります。ダビデが王の権力をふるって、自分の部下の妻を奪い、あげくの果てにはその夫を卑劣な手段で殺してしまって、その部下の妻を自分の妻にして知らん顔しているのであります。王様だったならば、そのくらいのことはなんでもないことなのかもしれません。しかしイスラエルの王はそんなことは赦されないことであります。主なる神は赦しませんでした。ひとりの預言者をダビデのところに派遣します。預言者はまともに王様に罪を糾弾しても王は認めようとしないだろうし、場合によっては、自分が殺されかねないのであります。それでまるで茶飲み話をするように、こういう話を致します。「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の子羊のほかは何ももっていなかった。彼はそれを育てたので、その子羊は彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。時に一人の旅人がその富んでいる人のも とにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭をとって、自分のところにきた旅人のために調理することを惜しみ、その貧しい人の子羊を取って、これを自分のところにきた人のために調理した」という話をする。それを聞きますと、ダビデ王はひじょうに怒り、「そんな事をしたものは、死ぬべきだ」といいます。すると、預言者は、ただちに「あなたがその人です。イスラエルの神はあなたに対してこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いで王にした。あなたに沢山のものを与えた。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのか。』」というのであります。すると、ダビデ王は、「わたしは主に罪を犯しました」というのであります。
 これはまさに自分の目の中には、丸太ん棒のような大きなゴミがあるのに、人の目にあるチリをとりのけることには敏感であるということのいい例であります。
預言者もそのことをよく知っていて、まずダビデの罪を指摘して糾弾するのではなく、人の罪の話をするのです。自分の罪については鈍感なダビデも人の罪には敏感なのです。「そんな奴はただちに死刑だ」と、ダビデがいいますと、預言者は「それはまさにあなたのことです」というのであります。

 ダビデも自分の犯した罪の卑劣さは気づいていた筈であります。しかし自分は王だからそれくらいのことは誰でもやっていることだと思っていたのだうろと思います。またそんな罪は王の権力でいくらでも隠蔽できる、隠し通せると思っていたのだうろと思います。しかし自分の罪が他人の罪として描き出された時に、その罪の様相がはっきりと映し出されたのであります。「それはまさにあなたのことではありませんか」と、いわれた時に、その事に気がついたのであります。しかも預言者はその後、ただちに「イスラエルの神、主はこう仰せられる」と、ダビデの罪を神の前に持ち出したのです。その時に、ダビデはもう自分の罪は言い逃れられないことを知るのであります。自分の目の中にはっきりと梁がある、丸太があることに気がつくのであります。

 そうしますと、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」という言葉は、人からも裁かれることがないということも含めて、根本的には、神からもさばかれないということになると思います。その前の句に、「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、情け深い」とあり、そうして「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」という句があって、それに続いて「人をさばいてはならない。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」と、続きますから、慈悲深い父なる神によってわれわれの罪がゆるされる、その現実のなかで、われわれは始めて人の罪をさばかないということができるようになるのではないかと思います。
われわれが人をさばかないようになれるのは、自分もまた罪人だということに気がついただけではだめだということであります。自分の目の中に梁のような丸太のような大きな欠点をもち、あやまちを持った者であること、つまり自分の罪を自覚しただけでは、それを自覚したからと言って、すぐ人の罪をゆるせるようにはならないと思います。やはり、そういう罪をもっているわれわれがその罪が慈悲深い神によって赦されている、その事実を知る時に始めて、われわれは人の罪を赦せるようになるのであります。そうしてその時に始めて他人の目にあるちりを指摘し、そのちりを取り除けるようになるのではないかと思います。自分の罪が赦された者として、相手の罪をも赦しながら、忍耐強く、そのチリをその過ちを取り除いていこうとするのであります。

 主イエスは、「人をさばくな」といわれました。しかし福音書をみますと、イエスは絶対に人をさばかなかったかと言えば、イエスは律法学者・パリサイ人たち、時の権力者を真っ向から裁いているのであります。直接的には、そのためにイエスは十字架で殺されてしまったようなものであります。イエスほど厳しく人を裁いた人はいないかもしれません。そのイエスが「人をさばくな」というのは、何か矛盾しているのでなはいかと思うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、人間の罪を最後にはご自分が担って、身代わりになってその罪に対する罰を引き受け、罰せられる覚悟があったからこそ、あれほど律法学者たちの罪を糾弾できたのではないかと思います。
 本当に慈悲深い者になれる時、またわれわれは人の目にあるちりを正しく取り除くことができるし、その罪を指摘し、ある時には激しく糾弾することもできるのであります。親の子に対する怒り、訓練、教育は、愛があるからこそできることであるし、愛があったならば、当然それをしなければならない筈であります。