「良い木が良い実を結ぶ」   ルカ福音書六章四三ー四九節

 宗教改革者のマルチン・ルターが善行論というのを書いていて、それは当時のカトリック教会の偽善的な善行に対抗して書かれたものであります。その趣旨は「良い木が良い実を実らせるのであって、良い実を実らせようとするならば、まず良い木になることが大切なのだ。そしてその良い木になるとは、イエス・キリストにつながるということなのだ、つまりキリストに対する信仰なのだ、信仰が善を生みだすのだ」という論であります。それは当時の教会、特に教会の司祭達がただ器の外側だけを清めようとして懸命に努力している、しかしその中身はなんの善にもなっていない、ただ偽善的な善しか生みだしていないという批判から書かれた善行論であります。もし救いというものが、われわれの行いにもとづくとすると、どうしても面にあらわれる善行とか、献金の額の大きさというものがものをいうことになるわけであります。行為議認という救いの方向では人間は偽善的になるばかりだということであります。大事なのは、良い木になることなのだ、そうしたらおのずから良い実を実らすことができるということであります。そしてその良い木とは、信仰をもつということなのだいうのであります 。マルチン・ルターが聖書の原点にもどって述べた信仰議認ということから導き出される倫理であります。
良い木が良い実を実らせるのであって、その逆ではない、つまり善行をつむことによって信仰が生まれるわけでもないし、救いがえられものでもないということであります。そのあとに、主イエスは、「木はそれぞれ、その実でわかる」といわれております。そのために、われわれはそれでは、いい実を実らせようとすぐ思うのです。木が良い実を実らせるという順序を忘れて、ただ実だけをよい実に実らせようとする。そのために一生懸命努力しようとする。しかし良い実を実らせようとしても、そういう努力をしようとすればするほど、われわれは結局は悪い実をみのらせことになるのではないかと思います。それは良い木につながって良い実を実らせようとしていないからであります。パウロが悩んだのもそのことなのであります。「わたしは肉につけるものであって、罪の下に売られている。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって、自分の憎むことをしているからである」と言っております。そしてその後「わたしの肉のうちには、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあ るが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」というのであります。
善をしようとしても、それを自分の力でしようとする時に、そこにいつのまにか自我というものが忍び込んでいて、結局は良い実にならないということなのであります。だから大事なことは、良い実をつけようとして努力することではなく、良い木につながっていよう、ともかく良い木に結ばれていようと、そのことにおいて努力することが大事なのであります。それは良い実を実らせようとする努力ではなく、良い木につながっていよう、ともかくつながっていよう、ぶらさがってでもいいから、つながっていようという努力であります。
 ヨハネによる福音書にも、一五章では、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」と述べられております。

イエスが自分の十字架の死について弟子達にさいさい話をしてるのに、弟子達はそのことをまともに受けとめる者はいなかったのです。その時にひとりの女が非常に高価な純粋のナルドの香油をイエスの頭に注いだのです。するとイエスの弟子達は憤った。「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人達に施すことができたのに」と言って、女をきびしくとがめたのです。するとイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りのことをしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのだ。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と言われたのであります。イエスはこの女は「よい事をしたのだ」といわれたのです。そのよい事の内容はただイエスの頭に高価な香油を注いだというだけのことであります。しかしそれは貧し い人々に施しをするよりもよほどよい事なのだというのです。なぜなら、この女のしたことは、これから死のおうとする人間を本当に慰めているからであります。このひとりの女がどういう女であったかは記されてはおりませんが、こんな乱暴な行為をしたのですから、以前にイエスにお会いし、イエスから深い慰めを受けた女だったと想像できます。だからこの女はイエスの運命に何かただならぬものを感じ取ったに違いないと思うのです。それがこうした行為に彼女を駆り立てたのだと思われます。これはイエスとの深い愛に結びついたところから実った実であります。それに対して、弟子達の提案、これを売って貧しい人々に施そうという提案は一見よい事にみえてひとつも良い実ではないのです。こんなことで貧しいひとを本当に慰めることはできないのです。第一自分の金を出してという自腹を切って、そうしようというのではなく、人の金を利用してそうしようという提案であります。そんなものが良い実である筈はないのです。

 昔教会学校の説教の例話かなにかで読んだ話ですが、確かペスタロッチの話だったのではないかと思いますが、彼は裕福だった。いつもポケットに小銭をもつてでかけては貧しい人々に施しをしていた。だから彼が町に出ると多くの乞食が彼のところに集まった。ある時にたまたま普段、着ない背広を来て町に出てしまって、いざいつものように小銭を出そうとすると一つもお金がなかった。それでその時彼は涙を流して謝ったというのです。するとその時に、貧しい人々は始めて彼に心を開くようになったというのです。そのことが深い印象となって彼は後にいわゆる慈善事業に乗り出したのだという話であります。
自分は何も持たない、自分はあなたがたに何も与えられない、本当にすまないと涙を流した、その時に彼は貧しい人々と同じ低い位置に立っていたのであります。それが貧しい人々の心を開いたのであります。それは良い実なのであります。
自分の中に何ももたない、これは良い木になる一つの道であります。自分の中に何も持たない、それはキリストにつながる道だからであります。

 イエスは「木はそれぞれその実でわかる」といわれます。これはその前の言葉「偽善者よ、まず自分の目から梁をとりのけるがよい」という言葉を受けての言葉であります。つまりここでいう偽善者とは、ほかの福音書では偽預言者のことであります。彼らがどんなに立派なことを言っても、その実が良い実か悪い実かはすぐわかるというのです。その木が、つまりその人そのものが良い人がどうかはその人の言動という実でわかるということであります。しかしわれわれには本当に「木はその実でわかる」のだろうか。もしそうであるならば、偽預言者がこの世にはびこることはないのです。このところ、日本で繰り返し、いわゆるカルト的な宗教の詐欺行為が問題になっております。われわれからみれば、どうしてそんなつまらないことにやすやすと騙されてしまうのかと思いたくなるものであります。われわれからみれば、その実がよい実かわるい実かはすぐわかると思うのにであります。「その実でわかる」とイエスはいいますが、本当はわれわれにはなかなかその木がいい木であるかどうかは、ただその実をみただけではわからないのではないかと思うのです。イエスだからそう言えるのであって、 われわれにはわからないのではないかと思います。
 それは偽預言者とか偽宗教の問題だけでなく、人の問題でも、その人が本当にいい人なのか悪い人なのかは、その人の言動からはわからないことが多いのではないかと思います。よほど鋭い洞察力とか、あるいは意地の悪い疑わり深さをもっていないと、「木はそれぞれその実でわかる」というわけにはいかないのではないかと思います。
 それではどうしたらよいか。本物と偽物を見分けるコツというようなものがあるのだろうか。
 宝石を鑑定する人の話を聞いたことがありますが、宝石を鑑定する技術をみがくためには、まず最初は本物の宝石だけを見ることに専念することが大切なのだということを聞いたことがあります。本物の宝石と偽物の宝石を前においてその違いを判別しようとしてもなかなかできるものではないというのです。そういうことをするのではなく、まず本物の宝石だけを二年なり三年なり、見続けること、それが本物と偽物を見分ける技術を身につけるコツだそうであります。
 そのためにも、われわれは良い木にしっかりとつながっていなくてはならないと思います。イエス・キリストというぶどうの木にしっかりとつながっていなくてはならないと思います。ただ口先だけで、「主よ、主よ」と呼ぶのではなく、ぶどうの木にしっかりとつながっているということであります。「主よ、主よ」といって熱心に祈れば、その人は信仰的だなどとは言えないのです。立派な美しい言葉で祈れる人が本当に祈っているわけではないのです。
 昔、アシジのフランチェスコという人が祈りの人だと言われていたので、ある人が彼がどんなに立派な祈りをするのかと、隣の部屋で聞いていたら、旅の宿の出来事だったようですが、フランチェスコはただ「主よ、今宵休ませてください」と祈っただけだったということであります。

 そして主イエスは「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が何に似ているか。それは地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人と似ている」と言われます。ここでは、どんないい建築材料を使っているかということは問われないのです。ただイエス・キリストという土台の上にその建物を建てているかどうかが問題なのであります。どんなにみすぼらしい建築材料でもいいのです。われわれも自分のことを考えれば、一タラントという建築材料しか預けられていないものであるかもしれません。しかしそれでも、その一タラントをイエスから預かったタラントとして用いようとするならば、それは立派な実を結ぶのであります。それを地面に埋めてしまったならば、絶対に実をみのらすことはできないのです。愛に大きい小さいはないのです。マザーテレサの愛も、小さい子供が示す小さな親切も、同じなのであります。