「受胎告知」 ルカ一章五ー

 ルカによる福音書は、御子イエスが誕生するという告知、マリアに対する天使の受胎告知の前に、ザカリアに対する天使のみ告げがあったことを記しております。それはイエスの道ぞなえをしたバプテスマのヨハネの誕生の告知であります。
 
 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司ザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、この夫婦には子供がなかった。長い間子が与えられることを祈っていたのですが、子が与えられなかった。そしてふたりとももう年をとってしまったというのです。

 ザカリヤが自分の当番で神殿に入って、主の聖所に入って香をたいていたところ、主の天使が現れた。ザカリヤは不安になり、恐怖の念に襲われた。すると、天使は言います。「ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げられます。それに対してザカリアは「何によってわたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。

 このザカリアの「何によってわたしはそれを知ることができるでしょうか」という言葉は、もうひとつ意味がはっきりしません。口語訳は、「どうしてそんな事がわたしにわかるでしょうか」となっております。ちなみに、時々紹介いたします、リビングバイブルでは、この聖書は、思い切って意訳をする聖書ですが、こう訳されております。「そんなことは信じられません。私はもう老いぼれですし、妻もすっかり年とっているんです」となっております。

 このザカリヤの言葉に対する天使の叱責の言葉、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」という言葉から推察すると、このザカリヤの言葉は、リビングバイブルのように、その真意は「そんなことは信じられません」という意味であることは確かであります。ただザカリアはそれを直接いえなくて、「そんなことは信じられない」ということを少し遠回しに言ったということだろうと思います。

 ともかく、ザカリヤは信じられなかった。それに対して、天使は、今までお前が祈り願ってきたことが実現するというのに、どうして神の言葉を信じなかったといって、ザカリヤを叱り、そのために「お前は口が利けなくなる」と言われるのであります。ザカリヤは裁かれてしまうのであります。

 そうしたことを背景にして、マリアに対する受胎告知、御子イエスの誕生の告知が語られるているのであります。ザカリヤの不信仰に対して、マリアの信仰が対比されているのであります。
 
 マリアも最初天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」といわれた時には、「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えております。「そんなことは信じられません」と驚きます。しかしこれはザカリアが示したような不信仰というものではなく、当然の驚きであります。そして天使から「神にできない事は何にひとつない」と言われて、ただちに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えております。これはザカリヤの不信仰に対するマリアの信仰が対比されているいってもいいと思います。

 ザカリヤは裁かれました。この時、ザカリヤの何が裁かれたのでしょうか。その子が誕生した時に、名前をなんとつけようかと言うときになったときに、当時の習慣、父親の名前にちなんでザカリヤという名前にしようという人々に逆らって、「この子の名はヨハネ」と板に書いた時、つまり天使のみ告げの言葉を受け入れたときに、口が利けるようになって、その裁きが赦されました。このことから逆に推察しますと、ザカリヤの何が裁かれたのかといえば、その信仰が裁かれたのであります。
 
ザカリヤには信仰がなかったわけではないのです。神に何も期待していたわけではなかったのです。神にそれまで一生懸命、自分達に子が与えられるようにと祈り続けてきたのです。ですから、彼には神に対する信仰があったのです。しかし今その彼の信仰が裁かれたのです。
 天使はまずザカリヤにこう語りだすのです。「恐れることはない。ザカリア、あなの願いは聞き入れられた」。おまえの長い間祈り続けてきたことが今実現するのだといわれたのです。しかしザカリアは自分が祈ってきたことがいざ実現するといわれた時に、それを信じられなかった。「そんなことがあり得るか」と疑ったのであります。ですから、ザカリヤの不信仰が裁かれたのではなく、ザカリヤの信仰が裁かれたであります。

 ザカリヤは熱心な信仰者だったのです。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ち所がなかった」とまで書かれている人であります。その信仰が裁かれたのであります。
 
 信仰とはなんでしょうか。神を信じるということであります。神を信じるということはどういうことでしょうか。それはマリアに天使がいわれましたように、「神にできないことは何ひとつない」という事を信じることであります。ザカリアはこの時、その信仰をもてなかったということであります。ザカリアは子供が与えられるようにと祈っていったのです。しかし子が与えられなかった。そしてとうとうもう年をとってしまった。もうその時、ザカリアは、「ああ、神にもやはりできないことがあるのだ」という心境になっていたのではないでしょうか。

「やはり」というのは、われわれ人間と同じように、「やはり」ということであります。「やはり、神様にもできないことがあるのだ」、これはもはや神を信じていないということであります。神を自分たちと同じ人間のレベルに降ろしてしまっているということであります。それが自分達に子が与えられると告げられた時に、そんなことは信じられません、というザカリアの言葉であります。この時、ザカリアの信仰というものが暴露されてしまったのであります。

 信仰とは、神にはできないことは何一つないということを信じることであります。しかし、われわれがそのことを、自分達の人間的な浅はかな思いで考えようとすると、自分達の利己的な、自己中心的な思いで、考えようとしますと、われわれの信仰は行き詰まってしまうのではないでしょうか。ザカリアがそうであったように、熱心な信仰もやがて諦めの境地になってしまうのではないでしょうか。 

クリスマスの出来事というのは、神がわれわれ人間を救うために、ご自分のひとり子をわれわれ人間と同じ姿をとらせて、この世に送ってきたという出来事であります。神が人間になった、神が受肉したという出来事であります。神が天から大気圏を突き破って、この地上に突入してきたという出来事であります。そうであるならば、それはわれわれが想像したり、期待していた方法とは全く違う方法で、御子の誕生があったとしても、おかしくないのであります。それが「処女マリアよりも生まれた」という出来事であります。それはただ男性が排除されてということよりも、聖霊によって身ごもったということであります。マリアが「あなたは身ごもって男の子産む」と告げられた時に、「どうしてそんなことがありえますか。わたしはまだ男を知らないのに」といいますと、天使は「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む」と告げるのであります。イエスの誕生は、処女降誕だった、つまり男性が排除されての誕生だったというよりは、聖霊降誕だったということであります。

ですから、クリスマスの出来事は、われわれに「神にはできないことは何ひとつない」という信仰を改めてわれわれに信じさせてくださった出来事だったということであります。われわれ人間のあらゆる合理主義をうち砕く出来事だったのであります。

 神を信じるということは、神にはできないことは何一つないということを信じるということであります。しかし、われわれはすべてのことをあまりにも人間的な思いで、ある時には人間的な合理主義的な考えで、考えようとするから、処女降誕なんかばかばかしくて信じられるかということになるのではないか。復活なんて信じられるかということになるのではいか。

 われわれは神にはできないことは何一つないということを、あまりにも人間的な目先だきの時間感覚で考えるから、こんなに長い間祈り続けても神はわたしの祈りに答えてくださらないと思い始め、あのザカリアのように、やがてその信仰は諦めの境地になり、やはり神様にもおできにならないことがあるのだという不信仰に陥っていくのではないか。

 われわれは神にはできないことは何一つないということを、あまりにも自分のご都合主義、ただ自分の利己的な自己中心的な思いだけで、神様にお願いしたら神様は何でもかなえてくださるという御利益的な考えで、考えてしまうから、自分の祈りが聞かれないときに、やはり神様はできないことがおありになるのだと考えてしまうのではないか。そして信仰を捨てていく、あるいは、神様を次から次ぎと換えていく、自分の利己的な、自己中心的な、浅はかな思いにどこまでも固執して、それを中心にして神様の心を推し量ろうとするから、神のみ心がわからなくなってしまうのではないか。
 
神はわれわれの浅はかな思いよりも、もっと深くお考えになって、われわれの祈りに応えようとしているのかもしれないのに、その神の御心を知ろうしないで、神さまを乗り換えようとしていないか。神を信じなくなっていないか。

 富める青年が主イエスから自分の財産をすべて捨てて、わたしに従ってきなさいといわれた時に、それができないで、悲しそうにしてイエスのもとを去った時に、主イエスは「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国はいるよりも、らくだが針の穴を通ほうがまだ易しい」といわれました。それを聞いて弟子達は、「それではだれが救われるのですか」と互いに言った。救われるということがそんなに難しいことであるならば、何も金持ちだけでなく、お金をもっていない自分達だって救われるかどうかわからないと互いにいいだしたとい
うのです。その時、主イエスは、彼らをじっと見つめてこういわれたのであります。「人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれたのであります。

 われわれが自分の善行を積んで救いを得ようとか、自分の財産をすべて捨てて救いを得ようとか、そういう人間的な努力とか精進によって神の救いを得ようとしたら、われわれは到底救われない。しかし、神にはできないことはなにひとつない、そのことを信じるならば、つまり、もう自分の人間的な功績、努力を一切捨てて、ただ救ってくださいと、神に委ねたならば、神にこの自分を救えないはずはないと、神に委ねたならば、われわれは救われる、なぜなら、神にてぎないとことなにひとつないからであります。
 神はわれわれ人間を救うために、できないことはないのです。自分の財産を捨てきれないで、悲しそうにイエスのもとを去っていった、あの青年も、神は救うことができるということであります。

 そのために、神は人間の合理主義という壁を突き破り、処女マリアの肉体に聖霊を注いで、御子イエスを誕生させ、そうして、われわれの期待と予想を全く裏切って、己を低くして、ひとり子イエスを十字架にかかって死なせて神の愛と赦しを示してくださったのであります。そして神はその十字架で死んだイエスをよみがえらせたのであります。それが救い主が、われわれと同じ人間の姿をとってこの地上に来てくださったということであります。
 神はわれわれの期待とか予想よりも、はるかに深くわれわれを根元的救おうとして、このような姿をもってご自分のひとり子をこの世に遣わしたのであります。神にできないことはなにひとつなかったということであります。

 ダビデが自分の犯した罪のために罰を受けて、自分の子が病気になった時に、必死に神に祈り、その病をいやしてくださるように、断食して祈ったのであります。しかしその願いもむなしく、子は死んでしまいました。家来たちはそのことを王ダビデにいうことをためらった。子が死んだと分かったときに、王はもしかすると自害するかもしれないと思ったからであります。しかしそのことが王に知れると、ダビデ王は、地から上がり、身を洗って香油を塗り、主の家に行って、礼拝した。そして王宮にもどると、断食をやめて食事をしたというのです。それをみて家来たちはびっくりして「どうしてこんなふるまいができるのですか」と非難したのであります。その時ダビデはこういいました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せるようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子はわたしのもとには帰ってくることはない」というのであります。

 自分の必死の願いにも拘わらず、子供が死んだときに、ダビデはどう思ったか。ああ、神様にはやはりできないことがあったのだと思ったでしょうか。そうではないのです。ダビデはただちに地から上がり、身を洗って香油を塗った、そして神殿に行って、神を礼拝したというのです。
 これはあきらめではありません。ああ、やはり神様にはできないこともあるのだという諦めの境地になったということではありません。もしそうであったら、とうてい神殿に行って神に礼拝しにいくことなどできるはずはないのです。そうではなくて、神にはできないことは何一つないのだ、という信仰を更に強めるために神殿にいって礼拝しにいったということではないか。子どもが死んでも、自分の願いが自分の願い通りに叶えられなくても、あなたを信じ抜かせてくださいと祈るために神殿にいって、神を礼拝したということではないか。

 ここのところ、竹森満佐一はこう説教しているのです。「ダビデが泣き悲しんで祈ったのは、子供がいやされることではありましたが、彼がほんとうに求めていたのことは、神を信じ抜く事であった。神に信頼することであり、神を信用する事であった。子供がよくなるかどうかは神様のなさることだ。われわれは手をつくすとしても、どうなるものでもない。神のなさることだと思うからこそ、神に祈ったのである。しかし、もしそうなら、その神を信頼する以外には、何の方法もないはずだ。神に祈りながら、神に信用しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気に入るような結果が出た時だけは、神を信用し、思うようにならなければ、恨み言うのででは、神を信じている、信用している、信頼しているとは、絶対に言えない。ダビデはそうではなかった。彼は神を信頼していた。だから子供が死んだら、もう全部終ったと思った。自分はまた神を信じて、もとの生活に帰りさえすれば、いいと思った。一切を神にまかせるというのはこういうことを言うのだ。ここには悲しみはあった。しかし、不平はない。悔いもない。神のなさることに、すべてを任せるだけであった」と言っているのであ ります。
 
 ダビデはこういっています。「わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに来ることはない。」これは旧約聖書には大変珍しい表現です。旧約聖書には、死んだら、もう人間は暗い暗い黄泉にいくのだというのが普通の表現であります。しかしここでダビデは「わたしはいずれあの子のところに行く」と言っている。これはダビデのその子に対する愛着の深さの表現であるかもしれませんが、ダビデは子供が死んだあと、神様はきっと子供に会わせくれるという信仰をダビデはもったということではないか。これは神にはできないことはなにひとつないということを、別の形でダビデに信じさせてくれたということのなのではないか。
われわれは死んだあともこの肉体が滅んだあとも、必ず神はよみがえらせてくださる、われわれの救いはただこの地上だけで終わるのではない、という信仰を与えられております。それは「神にできないことは何一つない」という信仰から来ていることなのであります。
 マリアは天使から「神にできないことは何一つない」と告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、ただちに告白しました、その信仰をこのクリスマスを待つ待降節にあたえられたいと思うのであります。