「飼い葉おけの中の救い主」ルカによる福音書二章

 われわれの救い主イエス・キリストがお生まれになった時は、イスラエルが独立国としてではなく、ローマによって支配されていた時であります。「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た」と、聖書は記しております。何のために人口調査をするかといえば、それは多くの場合、民の中から成人の男性を調査をして、軍隊に徴兵するためであります。あるいはまた税を改めて徴収するためであります。旧約聖書には、昔、ダビデ王が晩年人口調査をしようとして神に厳しく裁かれたという記事が出てまいります。
人口調査をするということは、国の指導者にとっては、自分の権勢を誇るためのものであったのであります。そしてそれはいつでも民衆にとっては、いやなことでありました。ダビデ王は晩年自分の力を誇ろうとして人口調査を命じた時に、神によって大変ひどくしらかれたのであります。
 
しかもこの時イスラエルはローマの植民地でしたから、ローマの皇帝アウグストによってそれが命ぜられたのであります。ある人がこのことをとらえて、これはイスラエルの民が敵の手によって、数えられることだ、といっております。イスラエルの民衆にとっていかにこのことが屈辱的なことであったかということがわかるのであります。そしてまたこの人口調査は、自分の生まれ故郷に帰って登録しなくてはならなかったのであります。これは民衆に過重な負担を強いることになったのであります。

 マリヤの夫ヨセフはダビデの家系であったために、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというユダヤの町に上っていったのであります。それはすでに身重になっていた妻マリヤと共に登録するためでありました。ところが彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちた。あわてて産む場所を捜しましたが、宿屋の客間は人口調査の登録のために旅人でいっぱいだったために、宿屋の客間をとることができないで、馬小屋の飼い葉おけの中で初子を産んだのであります。

「ベツレヘムに滞在している間に」というのですから、彼らはベツレヘムの地に踏み入れたとたんに臨月になってということではないようであります。それまではベツレヘムにきてからは、あるいは宿屋で滞在していたのかもしれません。しかしそのうちにお金が払えなくなって、宿を追われることになったのか、あるいは宿賃をもっと高く払う旅人が来て、それで宿を追われるようになったのかもしれませんが、ともかく彼らは宿から追い出されて、それでしかたなく、飼い葉おけで初子を産まなくてはならなかったのではないかとも想像できるのであります。そのことを、ルカ福音書は「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と記すのであります。ある人が言っておりますが、ルカはこの一句を記す時にどんな思いで書き記したことだろうかというのです。
 
これが救い主イエス・キリストの誕生の時であり、場所であったのであります。この救い主はローマによって追われ、そしてそれだけでなく、自分の民によっても追われて、とうとう飼い葉おけの中まで追われて、この地上に誕生しなくてはならなかったのであります。

そしてこの救い主の誕生のことが、羊飼たちのところに知らされました。夜羊飼いたちが野宿をしていた時に、主の御使が現れ、主の栄光がめぐり照らした。彼らは非常に恐れた。すると御使はこういった。「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのための救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それがあなたがたに与えられるしるしである。」

救い主が飼い葉おけの中で生まれるということ、それは単なる偶然のことでもないし、やむおえずそうなったというのではなく、これこそ神が始めからご計画し、救い主の誕生のしるしとしここを選んでおられたのだということであります。「飼い葉おけ」はなんのしるしなのでしょうか。それはなによりも貧しさのしるしだろうと思います。それは人間の暗さ、あるいは人間の罪をあらわすといってもいいかもしれません。イエスは人間の暗闇の中に生まれたのだと、ヨハネ福音書は記しておりますし、イエスは罪人のひとりとしてこの世に来て、そして罪人のひとりに数えられるために犯罪人として十字架で死なれたのだと他の福音書には書かれているからであります。
 しかしルカによる福音書が「飼い葉おけ」ということで言おうとしていることは、なによりも貧しさであります。貧しい者はさいわいである、という貧しさであります。もちろん、それはただ経済的な貧しさというだけてはないと思います。当時、飼い葉おけのなかで子供を産むということはそうめずらしいことではなかったとも言われております。なにしろ飼い葉おけにはあたたかいわらがたくさんあるからであります。

それはマタイによる福音書が、心の貧しい者は幸いである、といった意味も含めての貧しさであります。それは自分の罪を知っているもの、自分の弱さを知っているもののことであります。飼い葉おけのなかの救い主の誕生ということで、救い主はわれわれの罪のただ中にお生まれになったのだといってもいいと思いますが、しかしその罪はヨセフとマリヤを宿屋の客間から飼い葉おけへと追いやった罪ではなく、自分の罪に泣く、そのようにして罪を知っている、自分の罪を知り、その自分の罪に泣き、なんとかこの自分の罪から救われたいと思っている人が抱いている罪、つまりなんとかして悔い改めてその罪から救われたいと願っている人の罪、そういう罪人のなかにイエス・キリストはなによりも誕生したということであります。

羊飼いたちに御使が飼い葉おけの中の救い主の誕生を告げますと、天の軍勢が現れて、御使と一緒になって神を賛美したのです。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。ここでは「み心にかなう人々に平和があるように」と言っております。羊飼いには、「すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える」と言っております。ですから、この救いはすべての人々に与えられる救いの筈であります。しかし、ここでは「み心にかなう人々に」と言われているのであります。この救いは、確かにすべての民に、すべての人々に与えられる救いであります。しかしこの救いが救いとして本当にわかるためには、神のみこころにかなう者にならないと本当の平和も救いも来ないのであります。
 
茨木のり子さんの詩に「苦しみの日々、哀しみの日々」という詩があります。「苦しみの日々、哀しみの日々、それはひとを少しは深くするだろう。わすが五ミリぐらいではあろうけれど、さなかには心臓も凍結、息をするのさえ難しいほどだが、なんとか通り抜けたとき、初めて気づく、あれはみずからを養うに足る時間であったと。少しづつ、少しづつ深くなってゆけば、やがては解るようになるだろう。人の痛みも柘榴のような傷口も。わかったとてどうなるものでもないけれど、わからないよりはいいだろう。苦しみに負けて、哀しみにひしがれてとげとげのサボテンと化してしまうのはごめんである。受けとめるしかない折々の小さな棘や、病でさえも、はしゃぎや浮かれのなかには、自己省察の要素は皆無なのだから」という詩であります。

苦しみを通して自分の貧しさを知る、その自己省察、その罪の自覚、そして神に祈ろうとする思い、それが神のみこころにかなう人々ではないかと思います。クリスマスの喜びは、そういう神のみこころにかなう人々に平和が与えられるのであります。

天の御使が現れたのは、野に野宿していた羊飼いたちにでありました。当時羊飼いたちは、ある人の説明では、盗人、詐欺師と取税人と同じようにみられていた、ということであります。しかし必ずしもそうとは限らないと説明する人もおります。貧しいには違いないが、必ずしもそれほど世間の人からさげすまれていたわけではないだろう、なぜなら大事な羊を預けるのだからと説明する人もおります。しかしいずれにせよ、はっきりしていることは羊飼いは羊と羊飼いの関係をよく知っているものであるということであります。羊飼いはいざとなったら羊を守るために自分の命を投げ出すことができるほどに羊を愛している、そうであるが故に羊に信頼されている
、そういう羊と羊飼いの関係をよく知っているのであります。神の前に立たされる時、自分が神に対してどうならなくてはならないかはよく知っているのが羊飼いであります。それは神のみこころにかなった人々であります。
 
その羊飼いに御使が現れて飼い葉おけでの救い主の誕生のことが告げられるのであります。
 この時には、マリヤには御使はあらわれていないのであります。マリヤに御使が現れたのは、受胎告知の時だけであります。その誕生のときにはもう御使はあらわれないのであります。マリヤは羊飼いからその事情を聞くのであります。自分たちに御使があらわれて、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことを羊飼いから聞かされるのであります。それを聞いてマリヤはその羊飼いが語ることを「ひとつひとつ心に留めて、思いめぐらしていた」というのであります。マリヤは直接、御使からではなく、この羊飼いを通して、飼い葉おけに横たわっている幼子が救い主であることを改めて知らされるのであります。

われわれにも御使は現れないのであります。天使が現れてくれたら、われわれはただちに一に二もなく救い主を受け入れるのにとわれわれは思うかもしまれせんが、天使はあらわれてはくれないのであります。われわれにイエスこそ救い主だと知らせてくれるのは、教会の礼拝を通してなのであります。このかたこそ救い主だと信じた人を通してなのであります。それはある意味では、あの羊飼いと同じようにあまり見栄えのしない教会の群を通してなのであります。

私が神学校にいる時は、まだ大学紛争の前でしたが、安保反対などという政治的な活動が神学校でも盛んな時でした。デモに参加を呼びかける集会が行われ、いわゆるアジ演説をする人々がおりました。そういう演説を聞いておりますと、なにかそういうデモに参加しないとクリスチャンでないような調子でみんなに呼びかけるのであります。
そうした時いつも終わりのほうになると、一人の学生が立ち上がって、静かに語りかけるようにデモに参加しようと呼びかける人がおりました。訥弁でどもりどもり戦争に向かっていく危険を訴えるのであります。そうして学生達はその人が話し始めますと、みなしーんとなって、その人のいうことを聞いてしまうという雰囲気ができる、そういう経験をわたしは何度もしたのであります。とかく正義を訴える人というのは、本当に正義を訴えるというよりは、正義を訴えている自分は正しいのだと主張する、事柄の正しさを主張するのではなく、自分の正しさを主張する、自分がいかに正しい人間であるかを主張するのに躍起になっているという印象を受けるのであります。しかしその人は違っておりました。決して自分を主張しようとはしない、あくまで事柄の正しさを訴えようとする。声をはりあげることなく、不器用にとつとつと話すのであります。

クリスマスの日には、御使はマリヤに現れたのではなく、貧しい羊飼に現れた。そうしてマリヤとヨセフはこの羊飼いを通して、この飼い葉おけによこわっている幼子が救い主であることを改めて知らされるのであります。それを聞くマリヤもよほど謙遜にならないとこの羊飼の語ることが真実であるとはわからないことだったと思います。ですから、クリスマスの本当の喜び、その救いの意味を知るためには、われわれが本当に謙遜にならないと、そういう意味で神のみこころにかなう者にならないと、われわれにはクリスマスの平和と救いはこないのであります。