「死人を生きかえらす福音」 ルカ福音書七章一一ー二三節

 主イエスがナインという町に出かけた時に、あるやもめのひとり息子の葬式に出会った。主イエスはこの婦人の悲しみに深く同情して、その息子を生き返らせました。人々はみな恐れをいだき、大預言者がわたしたちの間に現れたと言い合っていた。それをバプテスマのヨハネの弟子達がヨハネに報告したのであります。この時ヨハネは獄に捕らわれておりました。ルカによる福音書では、このヨハネがなぜ獄に捕らわれたということについては、ごく簡単に記しているだけであります。それは三章の一八節から記しているのですが、彼は領主ヘロデが兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、彼を獄に閉じこめて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた、と記されているだけであります。マルコによる福音書、マタイによる福音書に記されている、後にサロメという題で小説になったり、劇になったり、音楽になったりした話は記そうとしていないのであります。
 ともかく、獄中にいたヨハネはふたりの弟子をイエスのところに派遣して、「『きたるぺきかた』はあなたですか、それとも、ほかに誰かを待つべきでしょうか」と尋ねさせたのであります。「きたるべきかた」というのは、メシアのことであります。つまりあなたは本当にメシアなのですか。わたしがみんなにこのかたこそ聖霊と火とによってバプテスマを授けるメシアだと証言したメシアなのですかと、もう一度尋ねさせたのであります。
 ヨハネの弟子達がこれらのこと、つまり具体的には、ナインでの若者を死人から生き返らせたという出来事を報告した時に、ヨハネはもう一度弟子をイエスのところに行かせたのであります。この死人を生き返らせたという出来事がメシアであることの徴としては、まだ足りないから、そう聞きに行かせたのか、あるいは、いよいよそうなのだと知って、確認にいかせたのか、よくわかりませんが、しかし「それともほかに誰かを待つべきでしょうか」と尋ねさせたというのですから、ヨハネはイエスについて少し疑いをもったのかもしれません。イエスもヨハネの弟子達に対して最後に「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と、いっているところをみますと、ヨハネはここでイエスに躓きかけたということなのかもしれません。
 しかしそれにしても、ナインでの出来事、若者が、すでにお棺のなかに入れられている死んだ若者が生き返ったという奇跡を知っただけでは、まだイエスをメシアの徴としては足りないということは不思議であります。
 当時は死人を生き返らせたということは、それほど珍しいことではなかったのかもしれません。実際にそうしたことがあったかどうかはともかくとして、それに似たような出来事は多少はあったのかもしれません。そうした奇跡だけでは、メシアとしての徴としてはまだ決定的な証拠にはなっていなかったということであります。

 イエスはヨハネから派遣された弟子に対して、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている」とヨハネに報告しなさいというのであります。ここでイエスは別に新しい事をいって、自分がメシアであることを弁証しようとはしないのです。ヨハネがそれではまだ足りないと思ったことを繰り返すだけであります。その事実をもう一度確認させただけであります。そしてこの時に、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたのです。それは繰り返すようですけれど、イエス以外の人もそうしたことをやっている人はいたはずであります。実際にそうしたのか、あるいは何かそのように見せただけなのかはともかくとして、そうした奇跡にみえるようなことはイエスでなくてもやっいる人々はいたのです。
 問題はイエスのなさったそうしたわざにわれわれが何を見るかということなのではないかと思います。それは単なる奇跡なのか、現代の新宗教の教祖のようにして、そうした奇跡をしてお金をもうけようとするとか、あるいはただ自分が教祖として崇められることを求めているのか。イエスのなさった奇跡はそれとは違うのかということであります。
 イエスはヨハネの弟子達に対して、「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り」といった後、「貧しい人々は福音を聞かされている」というのです。この最後の一句、「貧しい人々は福音を聞かされている」ということが、イエスのなさった奇跡を理解するのに一番重要なことなのかもしれないと思います。なぜなら、イエス以外にも病人をいやした人はいたでしょうし、また何か奇跡に似たようなことをした人はいたと思われますが、しかし「貧しい人々は福音を聞かされている」という事はイエスだけがなさっていることだからであります。「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り」という奇跡は、この貧しい人々が福音を聞かされているということと深く結びついていることなのだということなのであります。
貧しい人々とは、単に経済的に貧しい人のことばかりではないと思います。今泣いている人であります。病気で泣いてる人、愛する若者を死なせて泣いている人であります。その人々がイエスによって福音、喜ばしい訪れを聞いているのです。それはマタイによる福音書の表現を借りれば、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれた」ということであります。群衆を見てそう思ったというのですから、その群衆はかならずしも、病人の人だけではなく、見た目には健康な人もいるわけです。その一見健康な人もイエスの目から見たら飼い主を失って疲れ果てて、倒れている羊のように見え、その人々をイエスは深く憐れまれたということであります。イエスは何を見て深く憐れまれたのか、それは人間が健康な人をも含めて「飼う者のない羊のように倒れているのを見て」であります。みんなが飼い主である神を見失っている。そうして疲れ果てて倒れているということなのであります。そういう人々に福音をイエスは語ったのです。それは神がわれわれの羊飼いだ、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」ということを語った のであります。だから「主はわたしの魂を生き返らせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」と語ったのです。「主はわたしの魂を生き返らせ」ということが、あのナインの町では、死んだ若者、もうお棺の中に入っている死者を生き返らせた、ということで示されたのです。
 またイエスがそうした病の人をいやす時、ただその肉体の病をいやせばいいと思ったのではなく、預言者イザヤによって預言されていたこと、「彼はわたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」ということが成就したのであります。つまり、イエスは病人をいやす時に、ただ自分は何も傷つかずに、小手先で人の病をいやしたのではなく、人の病をいやすたびにその人の重荷をご自分が背負い、ご自分が傷つきながら人々の病をいやしていったということであります。これはただ肉体だけの病気をいやす時には、そんな必要はないだろうと思います。心理療法家の河合隼雄がいっておりますが、自分が患者と対する時には、自分自身が疲労困憊するほどに全勢力のエネルギーを注がなくては人をいやせないといっておりますが、ただ身体の病気だけではなく、心の病をいやすときにはそれだけのエネルギーが必要だということであります。治そうとする医者自身が疲労困憊するほどに、患者の痛みを自分の痛みとする覚悟をもたなくては直せないということであります。イエスはまさにそのようにして人の病をご自分が引き受けていやしていっているわけです。ですから、イエスが人の病をい やす時には、ただ肉体の病だけをいやしたのではなく、その人の魂もまたいやされたのだということであります。そしてそれは現代でも同じで、われわれが肉体の病がいやされるということは、われわれの魂まで、われわれの魂の病までいやされないと肉体の病もいやされたことにはならないということであります。
イエスがある時道を歩いている時に、十二年間長血を煩っている女がイエスほどの人ならば、その衣の裾に触れただけでも自分の病気はいやされるのではないかと思って、イエスの衣の裾に、人に知られないように、そっとさわったのです。そうしたらその病気はいやされたのです。その時イエスは「わたしにさわったのは、だれか」というのです。すると弟子のペテロは「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめきあっているのです。みんながあなたにふれています。」といいますと、イエスは「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出ていったのを感じたのだ」というのです。女のほうから言えば、イエスほどのかたなら、自分の病気をいやすことくらいやすやすとなおしてくれる筈だ、その着ている衣の裾にすらさわればいやされると思っていたのです。しかしそうではなかったのです。ひとりの女の十二年間の病をいやすにはイエスにとってはそんなにたやすいことではなかったのです。自分の身体から全身の力が抜け出るほどであったというのです。そのようなイエスの姿を見て、女はいたたまれなくなって、イエスの前に震えながら、進み出て、ひれ伏した。そしてイエスの衣の裾にさわ ったこと、そうしたら長血がとまって、病がいやされたことをみんなの前で話をするのです。すると、イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と、言われたのであります。イエスからすれば、この女がイエスの衣のすそにさわって、長血がとまっただけでは、この女の病が治ったとは思っていないのです。この女がそのことを通して、この病をいやしてくださったかたがだれであり、そのかたの前にちゃんと顔を見せて、そのかたと声をかわす、そこまでいかないと病がいやされたとは言えないと思っておられたのです。しかもこの時イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というのです。この女の病をいやしたのは、本当はこの女の信仰なんかではないのです。イエスの力、イエスの身体から力が抜けていったというのですから、あくまでイエスの力によってこの女の病はいやされ、救われているのです。それにもかかわらず、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」というのです。ただ一方的なイエスだけの力、イエスから出たエネルギーだけでなく、それの力を受け止め、そしてそのかたに感謝しようとするこの女の思い、そうした信仰がこの女を救って いるのだということであります。ですから、この奇跡は単なる奇跡ではなく、イエスとの人格的な交わりによって起こる奇跡なのであります。

 イエスが今ヨハネの弟子達に「あなたがたが見聞きしたことを報告しなさい」といわれる時、その出来事を通して、「貧しい人々、悲しんでいる人々、泣いている人々が福音を聞かされている」ということを告げなさいといっているのであります。

 それにしてもこのナインの町での出来事は不思議な出来事であります。もう死んで、お棺に入っている若者、そのお棺の行列をとめて、棺に手をかけて、「若者よ、さあ、起きなさい」といわれた、すると死人は起きあがって物を言い出したというのです。この後、お棺をかついでいた人々はどうしたのか、そのからになったお棺をどう処理したのかを考えると大変ユーモラスであるとある聖書の注解者が書いているそうです。それくらいこの出来事はおかしな記事であります。福音書には、イエスが死人を生き返らせたという記事がいくつかありますが、それはみな若い人の死を生き返らせたという記事であります。ラザロも若い人です。会堂司の子供ももちろん若いのです。つまりイエスが死人を生き返らせた人は、みな人生の半ばに突然襲ってくる死です。老人の死をイエスは生き返らせてはいないのです。死の深刻さは、年をとって自然に枯れていくように死んでいくという死ではなく、若者を突然襲う死であります。それは死んでいく本人にとっても大変ことでしょうが、その若者をとりまく家族のものにとって大変なのです。イエスは「この婦人を見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい 』と言われる」のです。この「同情」という字は、もともとは内蔵をあらわした字だそうです。つまりはらわたが痛むという字だそうです。そうしてこうした字がイエスについて使われる、つまり神の子についてつかわれるということは、当時のギリシャ哲学、ストア派といわれている哲学者の間では考えられなかったそうです。彼らの考えでは、神はそのように感情をもつかたとは考えられなかったからであります。ストア派の考えでは、われわれにとって一番大事なことは、無感動であることだ、なにごとにも感情を動かされないことだということであります。ですから、神が人間に同情を寄せる、悲しむなどということは考えられなかったそうです。そうしたことは、多少キリスト教の神学にも影響を与えておりまして、日本の神学者が「神の痛み」ということを言い出した時に、神は痛むかたではない、と批判を受けたのであります。
 しかし聖書には旧約聖書にも、神はわれわれ人間の罪に対して、われわれ人間の苦しみに対して、心を痛め、そして若者を突然襲う死の脅威に対して、深く同情し、神ご自身がはらわたを痛めて同情してくださるかたなのだということを表わ事をためらわないのであります。
 イエスは人間を襲う死に深く深く同情したのであります。イエスはヨハネの弟子達に、自分が「きたるべきかた」つまり、「メシア」であることの徴として「死人は生き返り」ということをとりあげておりますが、しかしイエスが死人を生き返らせたのは、福音書に記されているのはせいぜい三人であります。そんな三人の人だけを生き返らせたところで一体なんになるのか。しかもこのここでいきかえせてもらった若者たちもやがては死を迎えるわけです。それならばこの出来事はなんの意味があるのかと思いたくなるのであります。
 これはイエスを後にあの十字架の死から神がよみがえらせたということと結びあわされて始めて意味をもつ徴であります。そこで始めて、死がわれわれ人間の最後の敵ではないということを知らされたのであります。そこで始めてわれわれは神がイエスをよみがえらすことによって、死そのものを滅ぼしたということが分かるのであります。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」といえるようになったのであります。
 われわれも確かに死ぬのであります。年をとって枯れ木が死ぬように自然死のように死ぬか、あるいは若いうちに突然取り去れるようにして死ぬかはわかりませんが、どちらにせよ死ぬのであります。しかしこのナインの若者の死で悲しんでいる母親に深く同情し、そうしてその葬儀を中断させて、若者を生き返らせた記事を読む時に、そのままそれを信じなくてはならないのかと強要されたら、滑稽で、とても信じられないかもしれませんが、この出来事を徴として受け取ろうとするときに、われわれは本当に慰めを受けるのであります。あの詩編二三編の言葉、「主はわたしの魂を生き返らせ」と言ったあと、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるのからです」と続く、あの詩編に慰めを受けるのであります。人間は確実に死ぬ、いつかは死の陰の谷をひとりで、ひとりで、歩まなくてはならないのです。しかしその時にも主が共にいてくださる、それならば、死の陰の谷を歩むときにも恐れない、主はわたしの魂をいきかえらせてくださるということを信じて、死を迎えることができるのであります。それこそがイエス・キリストがわれわれに 示して下さった福音なのであります。