「道備えをする者」   ルカ福音書七章二四ー三五節

 イエスを人々に紹介し、このかたこそ聖霊と火によってバプテスマを授けるかただと言ったバプテスマのヨハネは、自分がそのように人々に紹介したイエスが本当に「きかたるべきかた」、すなわち、メシアなのだろうかと、弟子をイエスのところに派遣して聞きにいかせるのであります。ある意味では、ヨハネはイエスがメシアであることに疑いをもったのかもしれない。そういう意味ではイエスに躓いたのであります。それはイエスがナインの町で若者を死からよみがえらせたということで、人々が「大預言者がわたしたちの間に現れた」とか、「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた、というイエスについての評判を聞いて、ヨハネは弟子をイエスのところに遣わしているのであります。イエスがいろいろな奇跡をなさる、そういうことでイエスが大預言者であるとか、メシアであるとかということでいいのだうろか、とヨハネは疑問を持ったのではないかと思います。
 イエスは本当はただ奇跡を起こして、人々をあっと驚かして神の力を示して自分が救い主であることを示したかったのではないのです。イエスはあくまで、その奇跡を通して何よりも神の憐れみを人々に示そうとされたのですが、ヨハネはそこまで深くよみとれなかったようであります。それはつまり、ヨハネの関心事は神の憐れみとか神の愛とかというよりは、神の義とか神の裁きにあったたからであります。
 ヨハネがヨルダン川で人々に悔い改めを迫ったのも、こんな生活をしていたら神の怒りがくるということでした。だから悔い改めにふさわしい実を結べということでした。ヨハネが問題にしたことは、神の裁きであり、神の怒りであり、われわれがそれから逃れるために悔い改めの生活をするということでした。つまり、それは具体的には律法を守ってきちんとした生活をするということでした。ヨハネは当時のユダヤ人が考えていたように、律法を守ることが救いに預かる道だと考えていたのであります。ところが、どうもイエスの宣教の仕方はそれとは違う方向に行っている、それでイエスは本当に救い主なのかと疑いをもったようなのであります。
 そのヨハネについて、イエスはこういっているところがあります。ルカによる福音書一六章一六節ですけれど、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅び方が、もっとたやすい」というのであります。この言葉はよくわからないところがありますが、くわしくはその箇所のところでもう一度考えたいと思いますが、ともかくここで言っていることは、律法によって救いを得ようとする道はヨハネの時までである、ということであります。イエスが来たことによって、それとは全く違う新しい時代が来たのだということであります。しかしそうだからと言って、今までの律法が破棄されるわけではなく、それはもっとも正しい意味で成就されるのだということであります。
 それは逆にいいますと、ヨハネは律法による救いを説いた最後の預言者だということであります。
 それではバプテスマのヨハネとパリサイ派の律法主義と同じだったのでしょうか。二九節をみますと、ヨハネから民衆と取税人はバプテスマを受けたが、パリサイ人と律法学者は彼からバプテスマを受けないで、自分達に対する神のみこころを無にしたというのであります。ヨハネの律法に対する態度と、パリサイ派・律法学者たちの律法主義とどこが違うのでしょうか。
 それはパリサイ人と律法学者は、律法によって自分の正しさを主張し、律法によって自分たちは救われると信じた。そうしては律法を守れない人々を裁いていった。それに対して、ヨハネは律法によって自分達の罪を深く自覚した。律法によって自分達は律法を守れない者であることを深く自覚して、神の前に悔い改めようとした、そのように人々に迫ったということなのであります。パリサイ人律法学者は、律法によって自分の救いを獲得したと思ったのに対して、ヨハネは律法によって自分達の罪を自覚したということ、パリサイ人律法学者は、律法によって自分を誇ろうとしましたが、ヨハネは律法によって打ち砕かれた、ということではないかと思います。そういう違いがあったのではないかと思います。ヨハネは確かに律法によって自分の罪を自覚し、また人々にそのことを訴え、悔い改めを迫りました。しかしそれによって、それだけによって、人は救われるのかということなのであります。
律法の前に立たされる時に、われわれは自分のいたらなさを深く自覚します。自分の罪を自覚いたします。しかしそれだけでは、われわれは救われないのです。確かに悔い改めることになるのかもしれませんが、それだけでは、あの真の悔い改め、向きを変える、と言う意味での悔い改め、自分に向かっている心を神に向きを変えるというあの方向転換としての悔い改めにはならないのであります。パウロが言っておりますように、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」ということであります。
 バプテスマのヨハネは確かに律法によって自分を誇ったり、自分の義を神の前に主張したりした律法主義者ではありませんでした、あまくまで律法によって自分の罪を知り、人々にもその罪を自覚するように訴えました。そのために真剣に律法を守る道を歩もうとしました。ヨハネは真面目でした。パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしませんでした。いなごと野蜜とを食物として、らくだの毛ごろもを身にもとい、腰に皮の帯をしめていました。しかしそれだけでは、人は真に悔い改めることは出来なかったのであります。天国にいくことは出来なかったのであります。どんなに真面目であっても、どんなに断食をして禁欲的な生活をしても、それだけでは救われないのであります。それによってパリサイ人律法学者のように自分の義を誇らず、それによって打ち砕かれ、謙虚になったとしても、それだけではわれわれは救われないのです。ただ自分の罪を知っただけでは救われないのです。
後にイエスが話された「放蕩息子のたとえ」で示されたように、あの放蕩息子は、自分の罪を知り、「自分はもう息子と呼ばれる資格はない」と自覚しましたけれど、それだけでは救われなかったのです。その息子を遠いところから見ていた父親、そして彼のほうから走り寄り、何もいわず、その息子の首を抱いて接吻した父親の赦しと愛に触れた時に、彼は始めて救われたのであります。

 ここにバプテスマのヨハネの限界があったのであります。彼は「女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。しかし神の国では最も小さい者も、彼よりは大きい」とイエスから言われるのであります。
 真面目な生活をすることが悪いわけではないのです。しかしそれだけではダメだということなのです。そういう意味では、ヨハネは人間の側から神の救いに預かろうとする道を誠実に歩もうとした最も良質の人物であったのです。しかしその道では救われないということであります。
それはあの富める青年の姿にもわれわれは見ることができかも知れません。彼は救いを求めてイエスのところに来た。「永遠の命を得るためには何をしたらよいでしょうか」と、尋ねに来た。その時にイエスは「お前はどうして良いことについて尋ねるのか、どうして良いかたについて尋ねようとしないのか」と、不思議なことをいいますが、その後、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証をたてるな、父と母を敬え」という、十戒の後半、いってみれば、人間に関しての律法を守りなさい、といいます。彼はそれらの律法は全部幼いときから守っていますと答えるのです。すると、イエスは、「お前の持っているものを全部売り払って貧しい人々に分けてやりなさい」といいます。それを聞くと彼は悲しそうにしてイエスのもとを去っていったというのであります。ここにも律法を真面目に守ってきた人間の限界と悲劇が示されているのであります。救われるということは、自分が今まで築いてきたもの、それは単にお金という物質だけでなく、律法を真面目に守ってきたという自我を捨てるということなのです。自分の自我そのものを捨てるということなのであります。しかし彼にはそれができなかったと いうことであります。

バプテスマのヨハネが抱いていたメシア像と実際に現れたメシアであるイエスとは違っておりました。ヨハネはあくまで律法にそっての救いの道を探り、しかしイエスは、パウロの表現を借りれば、「律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、神の義が現された」ということ、律法とは別の道を示して、神の愛と、そしてその神の愛の中にこそ、神の義をも示そうとしたのであります。この道を通らないと救いはなかったのであります。そういう意味で、「神の国で最も小さい者も、彼より、バプテスマのヨハネよりは大きい」と、イエスは言われるのです。「神の国で最も小さい者」とは、イエスによって救いを知った者という意味であります。それは「幼子のようにならなくては天国に入ることはできない」という意味での、「天国でのもっとも小さい者」ということであるかもしれません。ここに人間ヨハネの限界があったのであります。ヨハネははからずも、ここでイエスに躓いて、躓くことによって、いっそう鮮明にイエスの道ぞなえをしたということであります。
 イエスは三一節からこう言って嘆きます。「だから今の時代の人々は何に比べようか。彼らは何に似ているか。それは子供たちが広場にすわって、互いによびかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』というのに似ている」というのです。なぜなら、バプテスマのヨハネが一生懸命悔い改めを迫っても、なるほど一時はヨルダン川に沢山の人が悔い改めにきたかもしれないが、すぐその熱は醒めてしまい、ヨハネのことを、あれはパンも食べない、ぶどう酒を飲むこともしない禁欲主義者で変人だ、あれは悪霊にとりつかれているのだといっている。またそれではイエスがヨハネとは違って自由にふるまい、食べたり、飲んだりしていると、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、取税人、罪人の仲間だと言って悪口をいう始末であるというのであります。ヨハネの悔い改めの迫りにも、イエスの悔い改めの福音にも、人々は応えようとしなかった。ここから、「笛ふけど踊らず」という言葉が出てきております。
 ここのところをみますと、まるで現代の若者、というよりは、もっと若い子供のことをさしているような気がいたします。今の子供の口癖は、何を聞かれても「別に」という答えしかかえってこないのです。感動を失っている、なにごとにも感動しようとしない、白けているのであります。醒めているのであります。ある人がいうには、それは自分というものを失うのが怖いからだというのです。何かに夢中になるということは、自分の全存在をそれに投げ入れることであります。それが怖いのだ、自分を失うことが怖いのだ、だから熱中しようとしないのだ、そういう意味では大変不幸な時代なのだというのであります。
ここでは、人々はヨハネにも、イエスにも応じようとしないで、ヨハネの悪口をいい、イエスの悪口を言い合っている。人の悪口をいうということは、そうすることによって自分の立場を弁護している、自分の立場を正当化しようとするということであります。従って、それはやはり自分の立場を、自分を守ることに必死になるということで、自分を失うことを恐れているということであります。

ここの聖書の箇所を読むときに、いつも思うことは、自分も「笛ふけど踊らじ」という人間に属しているほうだなという気がするのであります。笛を吹かれて踊る人間を軽蔑したくなるのであります。それは、戦争中に、みんなが、日本は神の国だ、大東亜共栄圏だ、そのためには鬼畜米英だという言葉に踊らされて、みんなが戦争に突入していったという苦い経験をしている者としては、笛吹かれて踊らないほうが健全ではないかと思ってしまうからなのであります。現在の日本のカルト的な宗教に入っていく若者を見ていて、どうしてそんなに踊らされてしまうのだろうかと思ってしまうのであります。
 しかし一方で、何事にも感動しない人生、何事もも醒めていて、ある一定の距離をおいて生きていく生き方というものがどんなにつまらないものかとも思います。それよりは、一生のうち一度も騙されない人生を歩んで、白けた人生を歩むよりは、それよりは、一度くらい騙されてもいい、何ものかに心をゆさぶられて、自分の全存在をそれに賭けるくらいの人生のほうが楽しいではないか、豊かではないかという気もするのであります。

今の子供は「別に」といって、何事にも心から感動しようとしない、それは自分の全存在を賭けて、自分を失うことに非常な警戒心をもっているのだという指摘は、ある意味で、あたっているような気がいたします。しかしイエスがいいますように、自分を捨てることができないで、いつまでも自分の命を得ようばかりして、自分に執着していたら、本当の命、永遠の命を得ることは到底できないのではないかと思います。確かに自分を失うことは怖いことですし、そう簡単に自分を失ったり、自分を捨てるなんてことはできることではないのです。本物があらわれない限り、われわれは自分を捨てるなんてことはできないのであります。今われわれはその本物を知らされ、そのほんものに捕らえられて、自分を捨てることができたことを本当に幸せだったと思うのです。本物の救い主イエス・キリストによって自分を捨てることができ、これからもいつでも自分を捨てる用意ができていることを心から感謝したいと思うのです。
 
 今日のテキストの最後の言葉、三五節「しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」という言葉もわかりにくい言葉であります。ここは新共同訳聖書では、「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」となっていて、こちらのほうがまだわかりいいのではないかと思います。口語訳の「そのすべての子」という「子」というのは、「知恵の子」という意味で、つまり知恵に従う人々のことをさしているのです。リビングバイブルでは、「神の知恵の正しさは、神様を信じる者たちが証明するのです」となっていて、こちらのほうがもっとわかりやすくなっております。
イエス・キリストを本当の救い主として、今われわれは自分の全存在を賭けてイエスに従っている、従っていこうとしている、その用意と覚悟をしている、そういうわれわれによって、イエス・キリストの笛によって踊ったことが本当によかったのだと今われわれはこの世に証しをしなくてはならないのであります。