「罪赦された者の愛」  ルカ福音書七章三六ー五○節

 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓につかれた。イエスがパリサイ人の家に行って、食卓につくということは驚きであります。それまでの記事でも、パリサイ派の人々はイエスに対していわば敵意を抱いていて、さいさいイエスを批判しているからであります。それにも拘わらず、イエスは平気でそのパリサイ人の食事の招きに応えているのであります。イエス・キリストというかたがいかに自由なかたであったかということであります。招いたパリサイ人のシモンのほうはどういうつもりでイエスを食事に招いたのかはここには記されてはおりませんが、しかし始めから悪意をもって招いたわけではないだろうと思います。イエスを律法を説く教師として招いているようであります。当時のイスラエルの社会では、特に安息日の午後は巡回する律法の教師を食事に招くことは、大切なこととされていたということであります。それは一つの功績として、いわば功徳になっていたようなのであります。イエスは律法の巡回教師としてみなされていたようなので、しばしば会堂に入って教えられたのです。それでこのパリサイ派のシモンも一 つの功徳を積むつもりでイエスを食事に招いたのかもしれません。
するとそこへその町で罪の女と評判高い女がいきなり入ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭い、そして持ってきた高価な香油を塗った。当時の食事の仕方は、今日のように椅子に座って食事するのではなく、横になって肘をつきながら食事をしたようで、イエスの足に涙を流したり、香油を塗ることができたわけです。それを見たパリサイ派のシモンは心のなかで思ったというのです。「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女がわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と、思ったというのです。
 この女はみんながよく知っている評判の罪ある女とレッテルを張られている女だったのです。恐らく娼婦だったのではないかと言われております。あるいは性的にふしだらな女だったと言われております。そういう女にさわられるということは、自分を汚すことだと考えられていたのであります。ちょうど、当時はそれはらい病になっている人にさわられる、あるいは長血をわずらっている女にふれられるということが汚れこととされていたようにであります。どうしてイエスほどの人なのにそれを平気でさせているのかとシモンは心の中で思ったようなのであります。彼はそれまではイエスをもしかすると偉大な預言者かも知れないという思いがあったのかもしれません。それが崩れたのであります。
 イエスはシモンのしぐさから、その心の中の動きを見抜いたのでしょう。こう彼に話すのであります。「シモン、あなたに言うことがある。ある金貸しに金を借りた二人の人がいた。ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼は二人ともゆるしやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか。」そう問われてシモンは「多くゆるしてもらったほうだと思います」と答えます。するとイエスは「あなたの判断は正しい」と言われて、それからイエスは女のほうをふり向きながらシモンに向かっていうのです。「この女を見ないか」というのです。恐らくパリサイ派のシモンはこの女を見ていなかったのです。目をそらしていたのです。見たら、見るだけで自分が汚れてしまうと思っていたのです。それでイエスはシモンに、「この女を見ないか」と言われたのです。そしてこういいます。「わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家に入った時から、わたし の足に接吻してやまなかった。あなたはわたしの頭に香油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた」というのです。
 
 イエスはシモンに対して、「あなたはわたしを食事に招いておきながら、足を洗ってくれなかった」というのです。そこは砂漠地帯ですから、砂っぽいのです。ですから、お客に足を洗う水を用意し、足を洗うということはまず基本的な接待の仕方であったようです。しかしそれをシモンはしなかったというのです。本当は普通はそんなことは考えられないので、シモンはシモンなりに足を洗う水は用意したのかもしれません。そして奴隷にイエスの足を洗わせたのかもしれません。しかしそれはいかにも形式的だったということなのかもしれません。心がこもっていなかったということなのかもしれません。それはこの女が涙でイエスの足をぬらしたということが、お客の足を洗うことにはならないのと同じように、イエスはここでは、自分の足をシモンが実際に洗ったかどうかということよりは、その心持ちのことを問題にしているのではないかと思います。シモンが奴隷を通してイエスの足を洗わせたという接待よりも、この女が涙でイエスの足をぬらしたという行為のほうがどんなにかイエスを遇するということにおいて心がこもっていたかということをイエスは言いたかったのではないかと思います 。

 この記事は、マルコによる福音書、マタイによる福音書、あるいはヨハネによる福音書にあるナルドの香油の記事、イエスの葬りに用意をした女の記事と非常によく似ているのであります。ルカによる福音書には、そのイエスの葬りの用意をした女の記事はありませんから、あるいはルカはマルコによる福音書などにある葬りの用意をしたという記事をここに持ってきたのだとも言われておりますが、しかしそう考える必要もないと思います。同じような出来事が二つあってもひとつもおかしくないからであります。ここで大事なことは、あの葬りの用意をした女の記事の場合には、主役はその行為をした女であると言ってもいいかと思いますが、しかし今日学んでおりますこの記事では、実はこの罪ある女が主役ではなく、イエスを招いたパリサイ派のシモンが主役なのであります。もっぱらイエスが語りかけているのは、このシモンに対してなのであります。そしてこのパリサイ派のシモンの姿こそ、われわれの姿ではないか、とイエスはわれわれに問いかけているのであります。

このイエスのシモンに語られたたとえは、さっと読んでしまえばわかりやすいのですが、しかしよん考えみれば、問題の多いたとえではないかと思います。イエスはこういいます。「五百デナリの借金をゆるしてもらった人と、五十デナリの借金をゆるしもらった人とどちらが彼を多く愛するだろうか」というのです。なにかこれだけをみたら、われわれは人を愛するためには、できるだけ沢山の罪を犯したほうが、愛がわかるんだとイエスは言っているのではないかと思わないでしょうか。われわれはみなこの罪ある女のように悪いことをたくさんしないとイエスを愛せないし、あるいは神の愛も受けられないということなのでしょうか。
イエスはこのたとえを、シモンがこの町の評判の罪ある女を軽蔑した、それを見て話されたのです。罪ある女がイエスの足に涙をぬらし、それを髪の毛で拭い、香油を注いだ、それを黙って受け入れているイエスをシモンは非難しようとした、そのシモンの心の動きを見抜いてこのたとえを語っているのです。この女がどんなに自分の罪に泣き、そしてその罪を悔い、なんとかしてイエスから罪の赦しを求めようとして必死になっている、そしてイエスに接しただけで、もう罪赦されたという確信を得て涙を流している、この女の姿にどうしてお前は心を動かされないのか。この女の自分の罪に対する深い自覚、罪に対する心の痛み、それをなんとかしようとしてる姿、どうしてお前には、この女の痛み悲しみがわからないのか、とイエスは今シモンに問いかけているのであります。
人の痛みがわからない、人の悔い改めに心から共感できない、ただ表面的に人を見て、軽蔑し、裁き、そうしては自分は汚れてはいない、罪を犯してはいないと自分を義人だと考えようとしている、そもそもそのことが罪ではないか、どうしてそのことがわからないのか。お前はどうしてそんなに自分の罪に対して鈍感なのか、とイエスはシモンに語りかけているのであります。

 われわれは沢山の罪を積み重ねたからといって、神の愛がわかるわけではないのです。マタイによる福音書にこういうイエスのたとえ話があります。一万タラントの借金のある者がその一万タラントをまるまる許された時に、彼はその帰り道、たった百デナリを自分が貸して者に返済を迫り、それができないと知ると、彼を獄に入れてしまったというたとえ話であります。そのたとえでは、一万タラントと言う莫大な借金をそのまま許されても、何の感動も感謝もしないで、平気で人を獄におとしめるようなことが出来るわれわれの罪を問題にしているのです。われわれは罪をたくさん犯せば犯すほど、罪に対しては鈍感になるだけではないか。従ってどんなに罪が赦されてもひとつもそれについて感動もしなければ、感謝もせず、ただしめたもうけものをしたという程度にしか思わないのであります。沢山の罪をおかせば、罪に対して鈍感になるだけであります。従ってその罪が赦されても、その罪が無条件に赦されれば赦されるほど、しめたもうけものをしたと、罪の赦しに対しても鈍感になるだけであります。問題は罪の量の多さではないのです。罪の自覚の深さの問題であります。
イエスはここで人間の罪を五百デナリ、五十デナリという借金の量の問題としてあらわしておりますが、イエスがここでいいたいことは、どれだけ罪を犯したかと言う罪の量の問題ではなく、罪の自覚の深さの問題であります。確かにこの女は町の評判の女でしたから、客観的にいっても沢山の罪を犯していたのかもしれません。しかしそうした女はこの女以外にもたくさんいた筈であります。この女はそうした中にあって、自分の罪をなんとかしたいと思っていた。その罪に日夜苦しんでいたのであります。それに対してこのパリサイ人シモンには、見た目には罪らしい罪は犯していないかもしれない。しかし人の痛みがわからないという意味で、すぐ人を裁き、自分を正当化し、自分を義人だと主張する、そういう意味では、お前がどんなに罪深い人間か、そしてその罪に対して一つも自覚していない、そういう意味では、お前はこの罪ある女よりももっともっと罪深い人間ではないかとイエスはいいたいのであります。もしそのことに気がつけば、お前はわたしの足を丁寧に洗おうとした筈だ、そしてこの女を非難したり、この女の行為を喜んで受け入れいるわたしをも軽蔑しない筈だとイエスはいいた いのであります。本当はお前こそ、五百デナリの借金を赦されものである筈なのに、お前はそのことに気がつかないではないかといいたいのであります。だからお前は罪の赦された者の喜びがわからない、罪赦された者の感謝の喜びがわからない、だからお前は罪を赦してくださる神への愛が欠如しているといいたのであります。

四七節にこう記されております。「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている。少しだけゆるされた者は少しだけしか愛さない」。この句は矛盾しているのです。前の言葉と後の言葉が矛盾しているのです。つまり、もし後半が正しいとすれば、「少しだけゆるされた者は少しだけしか愛さない」というのですから、この理屈にそって前の句を訳せば、「多くの罪を赦された者は、多く愛したのだ」ということになるわけです。そしてそれまでのこの罪ある女のとった一連の行動とイエスの話からすれば、この訳のほうがすんなりゆくのです。この女が自分の罪の深さを自覚して、そしてイエスに接して罪赦されたことを覚え、その感謝のあらわれとして、涙を流し、それを髪の毛で拭い、香油を塗るという愛の行為に出ているからであります。罪赦されたという自覚の深さが、罪赦してくださったかたへの愛の深さとしてあらわれるわけです。決して熱烈に愛したから、罪赦されるわけではないのです。だから「この女は多く愛したから、多くの罪はゆるされている」という訳は矛盾しているのです。それでここをどう訳すかということが問題になるのです。新共同訳 聖書では、苦心してこう訳しています。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ちなみにリビングバイブルは「だからこの女の多くの罪は赦されました。この女がわたしを多く愛したからです。少ししか赦されない者は、少ししか愛さないのです。」と、口語訳聖書と同じです。
原文をみますと、両方の訳が可能なのです。問題は「多く愛したから」というときの、この「したから」という接続詞をどう訳すかということなのです。

現行訳、つまり口語訳の聖書の訳に導いているのは、その次のイエスの言葉に影響を受けているとも言えます。四八節でこう言われているからです。「そして女に『あなたの罪はゆるされた』と言われた」。つまりここでイエスは「あなたの罪はゆるされた」と宣言しているということは、この女がイエスに対して涙を流し、髪の毛でぬぐい、香油を塗った、そういうイエスに対する愛の行為をしたから、「あなたの罪はゆるされた」という宣言になったのだということになりかねないのです。
 イエスに対する人間側の愛の行為が先行するのか、それともイエス・キリストの罪の赦しが先行して、罪赦された者の愛の行為となってほとばしりでるのか、ということになるわけです。しかしこれは本当はあまり議論しても意味のないことであります。イエスはこの時この女に始めて会ったと思われます。それ以前にはイエスはこの女に会っていないようです。それはこの四八節の言葉でわかります、この時に始めてイエスがこの女に「あなたの罪は赦された」と言っているからであります。それではこの女はどうしてイエスにあのような行動にでたのか。それはこの女はそれまでのイエスについての噂を聞いて、そしてなにがなんでもイエスから罪の赦しを受けたいと思ってイエスのところに来たのだと思われます。そして実際にイエスにふれた時に、もうイエスの存在そのものから、罪の赦しを受けたのだと思われます。まだ言葉としては、「あなたの罪は赦された」ということを言われる前にです。それであのような行動に出たのではないかと思います。ですから、女がそういう行動に出たから、それが条件になって罪の赦しが行われるというようなことでないことは明らかであります。イエスという 存在そのものがもう罪の赦しをその女に示しておられるのです。女はイエスに接しただけで、もう罪の赦しを確信したに違いないのです。だからイエスもシモンに対してあのようなたとえ話をしたのであります。そうでなければ、あのようなたとえ話はできないのです。そして四八節の言葉、「あなたの罪はゆるされた」というイエスの言葉は、イエスの存在そのものが女に対して罪の赦しをあらわしていたという事の言語化で、それを改めて言葉に出したということであります。
 女がイエスに接してこのように感動し、感謝し、このような行動に出ているということは、女がいっそう罪赦されという事実を自分のものとしたということであります。それが「この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されたのだ」という言葉になったのだと思います。あのマタイにある記事のように、一万タラントの借金をゆるされても、なんの感動もなく、ただしめたもうけものをしたということしか思わなくて、自分が百デナリを貸している者を許せないで獄に入れてしまうということは、彼が自分が罪赦されたことをひとつも自分のものにしていないということをあらわしているわけです。罪赦された者がそれに対する感謝を持ち、罪赦してくださったかたに対する愛を示せないないならば、そのせっかくの罪の赦しということも無に帰してしまうということであります。ですから、罪の赦しとそれに対する感謝という愛の応答は切っても切り離せない関係にあるということであります。罪の赦しを受けたものが感謝もしなければ愛の応答もしなければ、実質的にはその罪の赦しは取り消されてしまうということであります。
イエスは、最後にこの女に対して、改めて、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」と励ましたのであります。

それにしてもイエスはこの女のした行為を愛として表現しているということは考えさせられることであります。たとえ話において、「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と、愛という言葉をイエスは使っているのです。ここはむしろ感謝という言葉のほうがふさわしい気がするのです。しかしイエスは愛という言葉を使っているのです。「少しだけゆるされた者は少しだけしか愛さない」というのです。イエスがお考えになっている愛、そして聖書の示す愛というのは、罪が赦されたということから始まるものでしかないということなのです。愛は単なる親切ではない。単なるボランティア活動ではない。ましてパリサイ人律法学者たちが示すような律法を満たすような意味での愛ではない。自分の罪を深く自覚し、その罪がイエス・キリストによって赦され、神によって赦された、そのことから応える行動、それが愛なのだということであります。それ以外の愛は愛ではないのだとイエスはいうのです。それはパウロが語るように、どんなに自分の全財産を人にほどこし、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である、と言われている愛、つまり 罪赦されたということから出る愛でなければ、どんなに全財産を人に施し、自分を犠牲にしても、信仰があったとしても、それは愛にはならないということであります。罪赦された者の愛、それ以外の愛は、パウロがいう「愛は寛容であり、情け深い、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない」という愛にはならないということであります。
愛は自分の罪に対する深い自覚と、その罪が神によって赦されたということから始まるのであります。