「聞く耳のある者」  ルカ福音書八章一ー一八節

 八章一節をみますと、イエス・キリストはその後神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられ、それに十二弟子も、また婦人達もお供したと記されております。そうしますと、大勢の群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきた。するとイエスは一つのたとえ話をされました。それがいわゆる「種まきのたとえ」と言われているたとえ話であります。こういう話です。「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちにある種は道ばたに、ある種は岩の上に、ある種は茨の間に落ちた。それらの種はみな成長しないで途中で枯れてしまい、実らなかったというのです。そしてある種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」という話をされて、そうしてこういわれたのであります。「聞く耳のある者は聞くがよい」。
 大勢の群衆がきてイエスの話を聞きにきたのに、イエスはその人々の熱意を冷ますようなことを言われたのであります。「聞く耳のある者は聞くがよい」という言葉は、大変失礼な皮肉に聞こえる言葉ではないでしょうか。
 後から弟子達がこのたとえの真意はなんですか、とイエスに尋ねた時に、イエスは「種は神の言である」といっております。つまり「種」とはイエスの語る言葉だというのです。その言葉をあなたがたはどれだけ真剣に聞いているか、聞こうとしているか、もしわたしの言葉をいい加減な気持ちで聞いているならば、それは道ばたに落ちた種になり、岩の上に落ちた種になり、いばらの間に落ちた種になってしまうといわれるのです。これはイエスのある意味での伝道の失敗を慨嘆している言葉なのではないかともとれます。種を蒔く人は始めから道ばたに種を蒔く人はいないのです。岩にいばらに蒔く人はいないのです。蒔く人はもちろん良い地に蒔こうとしてい蒔くのです。しかし蒔いているうちに風に吹かれてほかの地に行ってしまったということであります。ですから、ここで折角群衆がぞくぞくと集まり、伝道が成功したかに見える時に、イエスはこの伝道はきっと失敗するに違いないと予測していたのかもしれません。伝道の失敗ということよりも、あるいは、イエスが伝えようとした伝道の方式が決してすぐさま人に受け入れられるものではないというイエスの予測というか覚悟というか、警告 というものなのかも知れません。それはなぜか、イエス・キリストのなさった伝道のやりかたが基本的には言葉による伝道だからであります。
 言葉による伝道というのは、それを聞く人の態度によって大きく左右されるということなのであります。言葉は言葉自体のもつ力というものがありますが、しかしこちらがどんなに言葉を発しても、聞く相手が聞く耳をもっていないならば、それは有効に働かないということであります。言葉というものは、暴力ではない、力づくで相手に何かを与えられないのであります。こればかりは正しく、良い心でしっかりと聞き、守らないと聞き手のものにならないというところがあります。ですから、イエスのとられた伝道方式、それは今日われわれの教会が受け継いでいる、特にわれわれプロテスタント教会が受け継いでいる伝道のやりかた、説教を中心とした伝道のやりかたは、聞き手の対応に、聞き手の自由に左右されるということであります。つまりそれは心の暴力というべき洗脳というようなやりかたではなく、これは極めて人格的なやりかたであるということであります。人格的であるということは、相手の立場を無視してむりやりに押しつけるものではないからであります。

言葉をどう聞くかということが大切でありますが、それ以前に実はもっと大事なことは「言葉」を語らなくてはならないということであります。イエスは言葉で神の国について、神の支配について語ったのであります。われわれは言葉で語っているか、言葉で神様のこと、イエス・キリストについて語っていかるか。そのことは特にわれわれ日本人の大きな問題の一つであるのではないかと思います。
 先日息子の言樹が天に召されました。そのことで親でありながら、そして牧師でありながら、そのことで怠慢であったということを痛感しているのであります。私達夫婦の教育方針として我が家ではあまり言葉で、お説教をするということはしないという方針でした。日本の家庭ではそういう家庭が普通だと思いますが、深刻な話というものは、あまり子供と親の間ではしないのではないかと思います。小さい子供の時は言葉でいろいろと言うことはあっても、ある程度の年齢になりますと、お説教をさけるというとろがあるのではないかと思うのです。以心伝心という言葉がありますが、夫婦の間でも言葉に出して「愛している」などということは言わないものであります。そんなことは言わなくても伝わるものだというところがわれわれ日本人にはあります。しかし本当に伝わっているのだろうか。我が家では宗教教育というのは親の照れということもあって一切いたしませんでした。日曜日に教会学校に出席させるということは義務づけましたので、それでいいと思っておりました。大人になってからも、礼拝に出席することは強要はしませんでした。息子の言樹ともそういう話は一切しなかったのです 。しかしこの病に倒れてから、彼がどんなに死を恐れ、不安であったかということを思いしらされました。彼は最近ベストセラーになっている「聖書」という本を購入して読んでおりました。あまりの不安と恐れと苦しさで、精神状態がおかしくなった時には、まるで赤ちゃんのような状態になってしまって、夜眠れないときには、何かお話をしてくれとか、神様の話をしてくれとか、しきりに祈ってくれというのです。大きな声で主の祈りをとなえておりました。彼の中にそんな思いがあるなどとは親として夢にも思わなかったことです。夕食の時の食前の感謝の祈りはささげてはおりましたが、それは意識的に形式的な祈りに終始して、親も内容のある祈りは避け、余計なことは祈らずに型どおりに祈り、そのある意味では形式的な祈りを心を込めて祈るということにしていました。子供も型どおりに祈らせました。そのほうが長続きすると思ったからであります。ともかく信仰は押しつけたくないと思っていたからであります。しかし子供のほうでは、もっともっと神様の話を、イエス・キリストの話を聞きたかった、もっともっと内容のある祈りをしてもらいたかったのだということを今になって、子供の 病気を通して痛切に思わせられました。亡くなる三日前ぐらいから、わたしは帰り際に手を握って言葉に出して祈り始めました。牧師として病人を見舞う時には必ずしていたことを息子にはそれまで一度もしていなかったのです。しかしどうも様子がおかしい、もしかすると死が近いかもしれないと思い始めた時に別れ際に言葉に出して祈りました。その次の日には、別れる時には彼のほうから祈ってほしいと言い始めました。そして最後の日になってわたしは牧師として本当に恥じるのですが、始めて聖書をもっていって聖書を開いて、別れる時に聖書の言葉を読み、祈りました。結局牧師でありながら、息子に対して牧師らして接し方をしたのは、その時の一回だけで終わってしまったのであります。それはわたしにとっては痛恨のきわみであります。
 言葉に出して語るということがどんなに大切か。以心伝心などというのは、それで伝わるなどと思うのははなはだ独りよがりであります。傲慢であります。人は言葉に出して表現しないと本当は相手に伝わらないのであります。
一六節にイエス・キリストは「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、入ってくる人たちに見えるようにするのである」といいます。どんな真理もそれを隠していてはダメだ、見えるようにしなくてはダメだというのです。つまり言葉に出して言わなくては伝わらないのだというのであります。
 その後で、「隠されているもので、あらわにならないものははなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」といいます。それはある意味では、真理というものはあからさまに言葉にしなくても必ず真理それ自体の力が働いて、最後は真理として勝利するのだということであるかもしれません。種それ自体の力があるのだから、どんな小さな種でもそれがひとたび岩の上に落ちれば、岩を二つに割って地面にその根を下ろすのだということも本当であります。種それ自体の力があることをわれわれは信じなくてはならないのです。しかしまた同時に、そのためにも種を蒔かなくてはならない、言葉を発し続けなければならないということであります。以心伝心ではだめだということであります。

イエスは言葉を通して宣教をなさったのであります。種という言葉は実に頼りないものなのです。その種を大切に育てる土と水がないと種は根付かない、成長しないのです。イエスの宣教の仕方はそういうわれわれの姿勢を大切に待っていてくださる仕方なのです。だから人格的なものであります。われわれはイエスの語る言葉を聞かなくてはならない、信仰は聞くことから始まるのだとパウロはいうのです。
 マルタとマリヤの話でも、イエスは接待のことで心忙しくしている姉さんのマルタのほうをしかり、女としてするべき接待をうっちゃって、イエスの話す言葉に耳を傾けている妹のマリヤの姿勢を大変おほめになったのです。不平をいうマルタに対してイエスは「マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、なくてならなぬものは多くはない、いやただ一つだ、マリヤはその良いほうを選んだのだ。それは彼女から取り去ってはならない」といわれたのであります。あの記事は、マルタが不平をいわずに、一生懸命接待をしていれば、人間にはそれぞれの持ち場持ち場があるのだから、それをもつまり、マルタもイエスはお褒めになっただろうという説明がされる時がありますが、それはやはり間違いだと思います。それでも、マルタが不平を言わなくても、イエスはマルタを叱ったと思います。マリヤが選んだなくてならないただ一つのものとは、それはイエスの語る言葉を聞くということ、言葉を聞くということだったのです。それがなくてならない一番大切なことなのであります。

そしてどう聞くかが大切だというのです。「どう聞くかに注意しなさい」とイエスは言われるのです。それは決して難しいことではないのです。一五節をみますと、「良い地に落ちたのは、み言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人のことだというのです。「正しい良い心で」というのは、要するに聞くことに徹するということです。こちらが何か身を清めてからとか、そんなことではないのです。またそれはこちらの心の中をからっぽにしてからということでもないのです。われわれは自分から自分の心を空にするなんてことはできっこないのです。どんなに座禅をくんだって、自分の心を無にするなんてことはできないのです。われわれは雑念が増すだけであります。それでも聞くという姿勢を持つということです。雑念をもちながら、むしろ自分のなかに問題をいっぱいかかえながら、その中で聞くことが大事かもしれません。自分のなかになんの問題ももっていない人はなにを聞いてもひっかかってこないだろうと思います。聞くということ、そして「み言葉を聞いたのち」とありますから、聞くということは、聞いた「あと」が大事なのかもしれませ ん。どう聞くかということは、聞いたあと、それを自分の心のなかに深く深く潜行させることができるかということであります。

寺山修司という詩人が、今大切なのは、話し合いではなく、黙り合いだといったそうですが、聞くためには、こちら側が沈黙をしなくてはならないのであります。詩編の言葉に「わが魂は、もだしてただ神を待つ。わが救いは神から来る。わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来る」という詩編があります。繰り返し繰り返し、「わが魂はもだして、沈黙する、そうして神を待つ」というのであります。