「信仰はどこにあるのか」 ルカによる福音書八章二二ー二五節

 ある日のこと、イエスは弟子達と舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」といわれた。一同が船出した。すると突風が湖を吹き下ろし、舟はゆれ、弟子達は波をかぶり水びたしになった。彼らのうちの何人かは漁師でしたから、これは危ないと思ったのです。その間イエスは舟の艫のほうでぐっすり眠っていたというのです。それで弟子達はイエスを起こして「先生、わたしたちは死にそうです。」と言った。するとイエスはおきあがり、風と荒波をしかると、海はなぎになり、やんでしまった。そしてその後、イエスは弟子達をしかったのであります。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。
 イエスがこの時弟子たちに対して「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と叱った信仰とはどういう信仰でしょうか。マタイによる福音書では、「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちよ」と言って叱っております。マルコでは「なぜそんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」となっております。この時イエスが叱った信仰とは、イエスがこの舟にいるのだから、必ずイエスが嵐を鎮めてくださる、それならば、なぜこわがるのか、どうしてそのことを信じないのか、つまりどうして神の奇跡を信じないのか、そういう信仰のことなのでしょうか。そうではないと思います。それはマタイによる福音書によれば、イエスは弟子達のおろおろしている姿を見て、「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちよ」と叱ってから、それから嵐を鎮めているからであります。つまりイエスがその嵐のなかで平然と眠っている、嵐をこわがらないで眠っている、どうしてそういう信仰をもてないのか、といってイエスは弟子達を叱っているのであります。
 弟子達はそれまでイエスがなさった奇跡を目の当たりにして見て来ているのです。死んだ娘を生き返らすことさえなさったイエスなのです。だから弟子達は眠っているイエスを起こして「先生、わたしたちは死にそうです」と訴えた。マルコによる福音書では、「先生、わたしどもが死んでも、おかまないにならないのですか」と、弟子達がいってイエスを起こしたと記しております。彼らはイエスなら嵐を鎮めるという奇跡を起こしてくれると期待し、信じていたのです。彼らはそういう信仰をもっていたのです。いわば彼らはイエスなら奇跡を起こしてくれるというところに信仰をもっていたのです。しかしそういう弟子達の信仰に対して、イエスは「そんな信仰でいいのか。どうして信仰がないのか、信仰の薄い者達よ」と叱られたのであります。
 信仰があったならば、父なる神を信頼できていたら、嵐の中にあってもわたしと一緒にたじろぐことなく眠っていることができるはずではないか、どうしてそこに信仰をもとうとしないのか、ということなのであります。
 
 しかしわれわれはそうした信仰をもてるでしょうか。イエスもまたわれわれにそういう信仰をもてるとは期待していないのではないかと思います。だからこそイエスはここではまず嵐を鎮めてから、なぎになってから、弟子達の心が落ち着いてから、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と叱られたのではないかと思います。
 いずれにせよ、われわれは嵐が来たら、イエスと共に平然として眠っているなんてことは到底できないのです。そういうわれわれの弱さをイエスもまた十二分に知っているのです。嵐がくれば、われわれはその嵐が過ぎ去るまで、あわてふためくのです。そこにイエスがおられるならば、イエスをたたき起こして、「われわれが死んでもかまわないのですか」というに違いないのです。
 われわれは嵐のなかで眠ることなんてできないのです。死を前にしたら、眠ることはできない。どんなに睡眠薬を飲んでも眠ることはできないのです。しかしその眠ることができない状態のなかでわれわれは多くのことを学ぶことができるのではないか。死の恐怖と死の不安のなかで、こわいようと叫ぶなかで、われわれは信仰というものを学び、与えられていくのではないか。

八章の後半には、十二年間も長血をわずらっていた女がイエスの評判をききつけて、イエスほどのかたならば、その衣のすそに触っただけでも自分の病はいやしてもらえるのではないかと思って、群衆にまぎれてイエスのすそに後ろからそっと触れたのであります。といいますのは、そういう長血の病気の女は汚れた者とされておりましたので、まともにイエスの前にでれなかったからです。イエスのころものすそにふれたら、病はいやされました。それがイエスの知れるところになり、女はイエスの前に立たされて、イエスはその女に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」といわれ、「安心して行きなさい」といったのであります。ここで言われている「信仰」、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」といわれている「信仰」は、嵐のなかでも平然としてイエスと共に眠ることののできるという信仰なんかではないのです。イエスほどのひとなら、その衣のすそにさわってでも、いやされるのでないかという大変素朴な信仰であります。それは御利益信仰ともいうべき、あるいは迷信的な信仰ともいうべき素朴な信仰であります。そういう信仰をイエスは決して冷たい目でみておられない、そう いう信仰をとりあげて、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」といわれているのです。それは嵐の中で弟子達がうろたえて、イエスをたたき起こし、「先生死にそうです、なんとかしてください」と訴えた信仰、イエスが「お前達の信仰はどこにあるのか」「信仰の薄い者達よ」と、イエスが叱った信仰であります。この長血をわずらっていた女のもっている信仰とは、イエスが弟子達に対して叱った信仰であります。その信仰があなたを救ったのだとイエスはこの女に対しては言われたのであります。

イエスはこれからさまざまな奇跡を行います。この後、悪霊を追い出すという奇跡をなさいます。さきほどとりあげましたように、長血をわずらった女をいやします、そして最後に十二歳の娘が死に、その死んだ娘を生き返らすという奇跡をなさいます。その一連の奇跡物語の記事の冒頭にこの嵐を鎮めたイエスの奇跡が置かれているのです。それはわれわれ人間が嵐のなかでは、イエスと共に神を全く信頼して眠ることができない、そういうわれわれの薄い信仰をイエスが見抜いて、奇跡をなさったということであるかもしれません。
 本当はイエスは奇跡を通して自分が救い主であることを示したくはなかったのです。イエスは宣教を始める時に、悪魔の試みに会われました。悪魔が「もしあなたが神の子ならば、この高いところから飛び降りてみよ、きっと天使たちがあなたを助けるから」といって、イエスを試みた時、イエスはそれを退けました。「主なる神を試みてはならない」といって、退けた。つまり奇跡をもって自分は救い主であることを証明しようとはしないということであります。
 しかしイエスは現実に苦しんでいる人を前にしては、ただ口先で、神を信じなさい、動揺しないで神さまを信じなさいなどとのんきなことはいわなかった。現実に病に苦しみ、娘の死に悲しんでいる母親をそのままにはしなかった。奇跡を起こして、その苦しみから解放してあげたのであります。そのことを通して、イエスはなにをなさったのでしょうか。それはわれわれをおびやかすどんな災害、悪霊、病、そして最後に決定的にわれわれをおびやかす死よりも、もっと強力なかたがこの世にはおられて、われわれの人生を支配なさっている、そのかたを信じさせるために、イエスは奇跡をなさっているということなのであります。すぐ奇跡をほしがるわれわれの弱い信仰、薄い信仰を叱ったのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか、ただ奇跡を求める信仰なのか」と叱ったのであります。、そして、イエスと共に父なる神を信頼して、嵐のなかでも安心して眠ることのできる信仰へとわれわれを育てるために、イエスは奇跡をなさったということなのであります。少し乱暴に言えば、奇跡なんかなくても生きて行けるんだということを示すために、イエスは奇跡をなさったのではないかと思います。
 だからイエスはそうした奇跡をなさった後は、このことは誰にもいうな、といわれたのです。奇跡を起こす救い主だとは宣伝されたくなかったのであります。しかしそれでもイエスは奇跡をなさるかただという評判が広まり、イエスの人気は高まり、多くの群衆がイエスのところに来た時、イエスはその群衆から離れ、弟子達もまたその群衆から引き離そうとするのであります。

 病気をいやされた人、死んだのに生き返った娘は、そのあと病気をしないですむか、もう死なないのかといわれれば、そんなことはないことはあきらかであります。それならば、その奇跡は意味のない奇跡になるのか、そうではないのです。彼らはその奇跡を通して、イエスという存在を知った。神が生きておられるという信仰を与えられているのであります。

われわれは嵐が来た時には、死の前にはあの弟子達以上にあわてふためくに違いないと思います。死の前にはどんなに睡眠薬を飲んでも眠れないだろうと思います。そして夜眠れないということがどんなに苦しいことであるか。そういう人に対して聖書はこう告げるのです。「主は愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられる」というのです。この聖句は、夜不安でどんな睡眠薬を飲んでも眠れない人に対して告げている神の言葉であります。「神はわれわれが何もしない時、われわれが何も出来ないとき、なにもしなくてもいいとき、われわれにとってなくてならぬものを与えてくださるのだから、お前は寝なさい、もう安心して寝てしまいなさい」という言葉であります。新共同訳聖書ではここは、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と訳されております。主なる神はわれわれに眠りそのものを与えてくださる、だから安心して主に委ねて眠りなさい、というのです。この言葉が有効に働くのは、死を前にして不安のために眠れない人に対してであります。聖書の言葉というものは、いつでもそうです。自分の命のことで思い煩っている人に対して、「自分の命のことで思 い煩うな」と語りかけてくれているのであります。重荷を負って苦しんでいる人に対して、「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、呼びかけているのです。どんな時にも平然として眠れる人に対しては、そんなことは語りかける必要もないのです。眠れない人に対して語りかけているのです。

嵐の中でイエスと共に眠ることができないで、イエスをたたき起こしてしまうわれわれの薄い信仰、「お前の信仰はどこにあるのか」と叱られてしまうわれわれの信仰であります。そういうわれわれの信仰を叱ってくださるイエス・キリストがおられるということ、そしてわれわれがイエスに叱っていただく信仰をもっているということは幸いではないでしょうか。それは御利益的な信仰であるかもしれないし、幼児的な信仰であるかも知れません。しかし大事なことは、われわれがどういう信仰をもっているかどうかというよりは、われわれがどんな信仰をもていようが、すくなくもそこにイエス・キリストに何かを期待し、神様を求める信仰をもっているならば、それがどんな幼稚な信仰であったとしても、そのわれわれの信仰を叱ってくださるかたがおられるということが大事なことであります。それがイエス・キリストがいう「からし種一粒の信仰」なのではないか。そういう小さな信仰がほんの少しでもあれば、それはやがて大きく成長して、鳥も宿ることのできる木に成長するのであります。
 てんかんの息子をいやしてもらいたいと思ってイエスの弟子達のところにいってもいやしてもらえず、最後にイエスのところに来て、父親が「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」いいましたら、イエスは「もしできれば、というのか。信ずる者には、どんな事でもできる」と叱りました。すると父親はすぐ叫んで、「信じます、不信仰なわたしを、お助けください」というのであります。われわれの信仰は、いつでも自分の不信仰をすてて、イエスによってわれわれの薄い信仰を叱っていただいて、「信じます、不信仰なわたしを助けてください」という信仰なのであります。