「悪霊を追い出すイエス」   ルカ福音書八章二六ー三九節

 イエスはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡りました。陸に上がると、その町の人で、悪霊につかれて長い間着物も着ず、家に居着かないで墓場にばかりいた人に出会われた。その人がイエスを見て、叫びだし、みまえにひれ伏し、大声で「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです。わたしを苦しめないでください」というのです。しかしイエスはその悪霊を追い出したのです。
 悪霊という存在が果たしてあるのかどうかということは、現代のわれわれには信じがたいことです。聖書はなにしろ今から二千年前に書かれているわけですので、その当時の人々には悪霊が存在していて、われわれ人間にいろいろと悪さをしていたということは信じていたでしょうが、それを今日そのまま信じろといっても無理があります。二千年前といわなくても、宗教改革者のマルチン・ルターの逸話のなかにも、夜彼が聖書を読んでいる時に、悪魔をみつけて、インク瓶を投げつけた、そのインクの後が彼の書斎の壁に残っているそうであります。宗教改革は一五一七年頃ですから、その頃はまだまだ悪魔とか悪霊はリアルなものとして信じられていたようであります。それはなにもその頃のことだけではなく、今日でも悪霊の存在をリアルに信じる人々はいくらでもいるわけです。有名なカール・バルトに大変な影響を与えたといわれるブルーム・ハルトという牧師がおりますが、彼は悪霊につかれた人から悪霊を追い出したことで有名であります。ブルーム・ハルトについて書かれた評伝が日本でも書かれておりますが、それを書いた人はカール・バルトの本を翻訳した人で、わたしも神学校でドイ ツ語をならった先生ですが、その人の書いた評伝をよみますと、スイスの片田舎の出来事ですが、その家には悪霊が住み着いていて、その家は時々夜家ががたがた音を立てるのだそうです。それで市から職員が派遣されて調査が行われたということであります。その結果それが確認されたのかどうかわたしは忘れてしまいましたが、ブルーム・ハルトはその家から悪霊を追い出したという出来事が書かれていて、わたしなんかは本当の話かな思って読んだものですが、しかしその本を書いた人が決していい加減な人ではないので、極めて真面目な学問を重んじる人なので、やはりそういうこともあるのかなとその本を読んでいて、なにか割り切れないというか、不気味なというか大変不快感をもってその本を読み終えたことを覚えております。
 
悪霊というものが本当に実在するのかどうかは、われわれは今詮索しても仕方ないことです。ただこの聖書が書かれた当時は、その存在が確かかどうかはともかく、その当時の人々にはこれがリアルなものとして信じられていたこと、そうしてそういう悪霊の存在にどんなに脅かされていたかということは確かな事実としてここを読む以外にないと思います。そうして今日のわれわれにとっても、このような形ではなくても、確かに悪霊とか悪魔の存在というものをどうしても否定できないことも確かではないかと思うのです。それをリアルなものとして感じるか、それとも象徴的なものとして、感じるかはともかくとしてであります。
聖書には、人間を悪に導くものとして、われわれ自身の中にある罪というものと、もうひとつ、われわれ自身の外にあるものとして悪霊とか悪魔の存在を考えているのであります。われわれの心の外部に悪霊というような不気味な存在があって、われわれはわれわれの外から引きずられるようにして悪をなしてしまうのだということであります。
 これは創世記のアダムとエバが罪を犯していくときの記事にすでにでていることであります。彼らは自分みずから、いわば主体的に、つまり自分の自由な意志で神に反逆して罪を犯すのではない、神から食べてはいけないといわれた木の実を食べたのではなく、へびに誘われて罪を犯していくのであります。罪を犯すのは、アダムであり、エバなのですが、しかしそれだけではなく、その背後にへびの誘惑というものを描くのであります。その後、カインがアベルを殺そうとするときにも、神からこう警告を受けるのです。「なぜお前は憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しい事をしているのなら、顔をあげなさい。もし正しい事をしていないのなら、罪が門口で待ち伏せている。それはお前を慕い求める。お前はそれを治めなければならない」と言われるのであります。ここにも罪というものが、カインという人間の心の外部から、まるで動物がカインを襲うようにして、カインの心の隙をねらっているかのように、門口で待ち伏せしている、というのです。ここでも人間が罪を犯す時には、その人が何か自分の自由な意志で、つまり主体的に罪を犯すというよりは、そうした悪霊的な存在に誘惑され脅かさ れて、罪を犯してしまうのだということが書かれているのであります。

 イエス・キリストは「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と言われるのであります。それはイエスが悪霊につかれた人から悪霊を追い出している時に、人々がイエスがそのようなことができるのは、イエスが悪霊の親分であるベルゼブルだからではないかと悪口を言われた時に言われた言葉であります。そしてその後こういうのであります。「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて、彼に打ち勝てば、その頼みしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである」というのです。この比喩は少しわかりにくいので、その箇所のところに来た時にまた考えていきたいところですが、要するにここで言われていることは、人間は悪霊というものにがんじがらめに捕らわれている存在である。しかしイエス・キリストがこの世に来たのは、その悪霊よりももっと強いかたが来られたということで、悪霊に縛り付けられている可哀想な人間をその悪霊から解放しに来たのだということであります。
 聖書はイエスがこの世に来た目的はひとつは罪の赦しの宣言であり、一つは悪霊に捕らわれている人間から悪霊を追放するという、悪霊追放のために来たのだと記すのであります。

 悪霊につかれた人とはどういう人なのでしょうか。福音書はどのように描いているでしょうか。一つ特徴的なことは、悪霊につかれた人は、自分が自分でなくなっている人、少し難しい言葉を使いますと、自分の主体性を失った人として描かれている。自分という人間が自分で律しきれなくなっている人、自分のなかで分裂状態が起こっている人として描かれているのです。今日で言えば、二重人格、多重人格のような人として描かれております。イエスがその人に「なんという名前か」と尋ねますと、彼は「レギオンといいます」と答えております。レギオンというのは、もともとはローマの兵隊の軍団の名前だそうです。ここでは、「大勢」という意味で使われております。「彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである」と聖書は説明しております。のちにこの悪霊は沢山の豚の中に入りこんだというところが出ておりますから、一人の人間の中に沢山の悪霊が存在していて、彼をとりこにしているのであります。つまり彼はもう自分が自分でなくなってしまっている人間として描かれております。自己同一性を失ってしまっている人間であります。だから自分で自分を制御できなくなってし まうのであります。そういう人は他人から見ると不気味なのです。だから人々は鎖と足かせで彼をしばりつけていたというのです。しかし彼はその鎖を断ち切って、荒野にいったり、墓場に行ったりしていたというのです。
 その人がイエスを見ると叫び出して、みまえにひれ伏して、大声をあけていうのです。「いと高きイエスよ、あなたはわたしと何の係わりがあるのです。お願いです。私を苦しめないでください」。
 この言葉は、悪霊の言葉なのか、あるいは悪霊が住み着いているその人本人の言葉なのかわからない書き方がされております。「あなたはわたしとなんの係わりがあるのですか」とか「わたしを苦しめないでください」と、「わたし」といってりますので、その人本人の言葉のようにも感じられます。あとのほうをみますと、はっきりと「悪霊どもは」となっていて、悪霊どもが自分たちを底知れぬところに落ちていかないように、せめて豚の中に入れてくれ、と願い出たとなっておりますから、最初のここのところは、悪霊にとりつかれている本人の言葉のようであります。しかしそれでも「あなたはわたしとなんの係わりがあるのですか」ということは、やはり悪霊の言葉としてしか考えられないのです。悪霊とその悪霊が住み着いてしまっている人間とはもう区別がつなくなっているくらいに、彼は悪霊に支配されてしまっているということであります。聖書をみますと、悪霊というものは、自立できる存在ではなく、誰かに寄生しないと存在できないものとして描かれております。自分達が人から切り離されたら、もう底知れぬところ、つまりこれは陰府の世界、死の世界ですが、その死の世界に落ち 込む以外ない、つまり自分達はもう存在できないから、せめて豚の中にいさせてくれ、というわけです。
 そういう意味では悪霊は自立した存在ではない、しかしそうでありながら、まるでそこにリアルに存在しているかのように、われわれを支配してしまっている存在なのであります。実体がないと言えばないのですが、しかしわれわれを支配し、とりこにしているのであります。そういうところにイエスが現れた。悪霊はもうイエスを見ただけで、もう自分達の支配は終わりそうだと予感したのであります。二八節をみますと、「イエスを見て叫び出し」とあります。イエスを見ただけで、「いと高き神の子イエスよ、わあなたはわたしとなんの係わりがあるのですか」と叫びだすのであります。聖書はそのあと、「それはイエスが汚れた霊に、その人から出てゆけとお命じになったからである」と、説明しておりますが、どうもこれは後からつけた説明なのではないかと思います。マルコによる福音書では、「この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し」とありますから、遠くから見て、というのですから、イエスの言葉をまだ聞く前に、叫びだしたということであります。もうそこにイエスという存在がおられる、イエスがもう何も言わなくても、イエスが悪霊に向かって「出て行け」とも言われない 先に、イエスを見ただけで、もう自分たちの時代は終わった、もう悪霊の支配する時は終わったと感じようなのであります。後にイエス・キリストが「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」といわれるのです。神の国とは神の支配と訳して良い言葉であります。イエス・キリストがこの世に来てくださったということは、神がわれわれを支配する時が来たということなのです。まだまだ悪霊というのは、この世にはあっちこっちで、不気味に存在はしているかもしれないのです。聖書は悪霊は、自分たちを底知れぬところに落とさないでくださいと頼み、せめて豚の中にいれさせてください、とイエスに頼み、それが認められたということは、悪霊はまだこの地上から完全に消え去ってはいないということを現してるのだということのようであります。マタイによる福音書では、「あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここに来て、わたしどもを苦しめるのですか」と悪霊は叫ぶのであります。「まだその時ではないのに」ということは、まだまだ悪霊が支配していていい時なのに、まだ神が支配する時 は早いのにということであります。しかしイエス・キリストがこの地上に来たということは、もう神の支配の時が来たということなのであります。

 息子の言樹の最後のことを考えますと、説教ではできるだけ私的なことは話さないつもりなのですが、もうこれを最後に言樹のことは話さないつもりですので、お許しねがいたいのですが、言樹の最後のことを考えますと、いろいろと考え見てこの死には神が支配してくださっていたのだと思うようになったのです。それは彼が死ぬ前の日に親のほうから医者に面会を申し出て、言樹の病状の様子を知りたいということで面会を申し出ていたのですが、その翌日言樹は息を引き取っているわけで、もしこの前日の医者との面談がなかったらと思いますと、本当にぞうっとするのです。その水曜の夜に医者から始めて明確に彼のすべての臓器が下降線をたどっていること、だから一つの臓器を治療しても他の臓器がだめになるということで、いつ緊急事態が来てもおかしくない状態です、と告げられて、われわれはもうびっくりしたのです。つい数日前までは、心臓の治療効果が出てきて上向きですと医者から明るい声でいわれていたのです。しかしそれにしては一向に立ち上がれなくてどうしてだろうと親は思ってはいたのです。その数日間は面会時間が終わって帰る際になると、言樹は親の顔をさぐるように して、じっと見つめ出す、凝視する、何かを訴えるように見つめ出す、われわれはその視線に耐えられないでこちらで目をそらすということが続いたので、なにかあるのではないか、何を訴えようとしているのだろうか、と予感めいたものはあったのですが、それでも今日明日まさか息を引き取るなどとは夢にも思わなかったのです。ですから、水曜日の夕方に医者に面談を申し出てはいたのですが、もし忙しければ金曜日でもいいといってはいたのです。医者のほうでも今日明日とまでは思ってはいなかったようで、こちらの申し出て、七時過ぎになってもいいのなら、ということで面談ができたのです。それでその時に「危ない状態だ」と知らされたのですが、その翌日の朝病院から呼び出しがあって、その日の午前中に息を引き取っているわけです。われわれ親はそのことでは医者の無責任というか、鈍感というか、医者を糾弾するような思いで、「もしあの面談がなくて、言樹が息を引き取っていたら、ぞっとするね」とわれわれ夫婦の間で話していたのです。しかしそのことをよく考えてみたら、この水曜日の夜の医者の面談が医者のほうからの要請でもなく、また親のほうからの是非にという申し出で でもなく、金曜日でもいいと思いながらいた、それにもかかわらず、言樹が息を引き取る前日に医者の面談ができたということは、ある意味ではたまたまそうなったということなのですが、そのことがかえって、ここには人間の思いを越えて、神の意志が働いたのではないか、神がこの医者との面談を設定してくださって、われわれ親に息子の死の覚悟をさせて下さったのではないかと思うようになったのです。この面談が医者からの強い要請で、あるいは親からの強い要請でそうなったのであるならば、ここに神の計らいがあったとは思わなかったかもしれませんが、そうではなかったということが、かえって神の働きをわれわれに強く感じさせてくれたのです。このことは返って医者の鈍感さにむしろ感謝したい気持ちになり始めているのです。そうしてそのようにしてわれわれ親に息子の最後を知らせ、そのために兄や妹にもそのことを伝えられ、翌日すぐ病院に来させることができた、これはその背後には、神の働きがあったのだということを感じさせてくれたのであります。そうしてこのことが神の働きならば、それ以上に言樹の死そのものもまた強力な神の働きによるものであったのだと思わせられて 、慰められるようになったのであります。妻がいうには、もしあらかじめ死が近いことを医者からいわれていたら、言樹の看病のために毎日病院に通うことはできなかった、とても彼の顔をみることはできなかった、親は最後まで治ると思っていたから、彼に嘘をつかないで、希望を持たせることができたので、医者の鈍感さは返って今から思うと有り難い、ここにも神様の配慮があったのだというのです。

われわれの最大の敵である死にも神の支配があるということです。聖書の「伝道の書」に、「すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時がある」とあり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」という言葉が続きますが、これは新共同訳聖書では「神はすべてを時宜にかなうように造り」となっております。つまりわれわれの人生のすべての時を時宜にかなって神が支配しておられるということであります。だから美しいというのです。
 神が根本的には、最後には、われわれの人生を支配しておられる、そのことを信じられる時に、われわれはずいぶん変わってくるのではないか。確かにまだまだ悪霊の存在を感じる時はあるかもしれません。悪霊はあっちこっでまだまだ悪さをしているかも知れません。しかしイエス・キリストがこの地上に来られたことによって、もう悪霊はわれわれを支配することはないのです。神が支配する時がもう始まっているのです。われわれは何か得たいの知れない不安を感じる出来事が起こった時には、この原点に立ち帰りたいと思うのです。

 悪霊を追い出された人は、その後、イエスにお供したいと申しでました。するとイエスは、「お前は家に帰って、神がどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」というのです。それで彼は立ち上がり、自分にイエスがしてくれたことを、ことごとく町中に言い広めたというのであります。彼がどんなに自立した人間になったかということであります。神の支配をしっかりと信じた時に、われわれはどんなに自立できるかということであります。