「迷信から信仰へ」 ルカ福音書八章四○ー五六節

 ヤイロという会堂司の娘、十二才になる娘が死にかかっている。それで父親であるヤイロはイエスのところに来て、その足下にひれ伏し、自分の家にきてくださるようにしきりに願った。イエスもそれを聞いて娘さんのところに行こうとするのであります。ところが、群衆が押し寄せてなかなかそこにいけなかった。そこへ十二年間も長血の病気で苦しんでいる女の人がイエスの評判を知って、この人ならその着ている衣の裾にさわるだけでも、自分の病気は治るかも知れないと思ってその衣の裾に触ったのです。そうしたらたちまち治ってしまったのであります。彼女はそれまで十二年間もこの病気に悩まされて来たのです。そのために自分の身代をみな使い果たしてしまったのです。当時こういう病気になった女の人は汚れた女だということで、人々とまともに交われなかったようです。ですから、この女はイエスの正面に立って、わたしの病気をなおしてくださいと訴えるわけにはいかなったのです。それで誰にも知られないようにして、イエスのうしろから、その衣のすそに触ったのであります。
 病気というのは、死につながるから不安だし、こわいということがあります。しかし病気によっては、直接死につながらない病気というものもあるかもしれません。死ぬまで、その病気に悩まされ続けて、そして最後はその病気以外の病気で死ぬということもあると思います。そういう病気もまた大変苦しいと思います。この女の煩っている長血という病気はそういう病気だったのではないかと思いまする。十二年間もその病に苦しみつづけたのです。そのために自分の身代を全部使ってしまったのです。あっちこっちの医者にかかったかもしれないし、今日でいえば、民間治療にもかかったかもしれないし、いんちきな新興宗教にもかかったかもしれません。病気は直接死につながらなくても、苦しいものであります。あるいはこの女の人はいっそうのこと死にたいと思ったかもしれないと思います。死につながる病気はもちろん深刻ですが、死につながらない病気も深刻であります。そういう病気にかかるということは、ただ肉体が病むだけでなく、心も病むに違いないと思います。特にこの病気にかかった女は社会の交わりからも断たれたのであります。イエスはその女を自分の正面に立たせたのです。
 女はイエスのうしろからそうっとイエスの衣の裾にさわったのです。そうしたら、血がとまったのです。肉体の病はそこで癒されたのです。それで女はうれしくてそのまま帰ろうとしたのです。そうしたら、イエスが大きな声で「わたしにさわったのはだれか」と言い出した。人々が自分ではないといいだしたので、弟子のペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめきあっているのだから、だれがさわったかわかりませんよ」と、言ったのです。するとイエスは「だれかがわたしにさわったのだ。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」と言った。確かに群衆が大勢イエスを取り囲んでいましたから、多くの人がイエスの衣に触れているのです。しかしこの女がイエスの衣に触ったときには、自分の身体の中から力がぬけていったというのです。イエスは多くの病人をいやしているのです。イエスのほどの人なら、そんなことはなんでもないことだとわれわれは思うかも知れません。しかしこの記事をみますと、決してそんことではないということがわかります。イエスは魔術をするようにして、病をいやしたのではないのです。病をいやす時には、自分の全精神を集中させて、自分の全身の力 を注いで、人の病をいやしていることがわかります。河合隼雄という心理療法家がいっておりますが、自分がカウンセリングをする時には、ただ相手の話を聞くだけだけれども、自分の全存在を賭けて聞いてるというのです。そうでなければ、相手をいやすなんてことはできないというのです。
 イエスはひとりの人の病をいやす度に、自分の身体の中から全身の力が抜けていく思いだったのです。いわばやせ細る思いで人をいやしていったのだということであります。そのことをマタイによる福音書では、旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用して、「彼はわたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」という言葉が成就したのだといっております。つまり、イエスがこの女の病をいやしたときには、この女の長血という病を自分が引き受けられた、自分がいわば長血という病気にかかったのだということであります。もちろんイエスは男ですから、長血という病気になったわけではないでしょうが、そのようにしてイエスはその悩みをご自分が背負いいやしてあげたということであります。
 イエスは「だれかがわたしのさわった。力がわたしから出ていった。」と言われた。女はそのイエスの迫力ある言葉に、いたたまれなくなって、震えながら、イエスの前に出て、イエスのみ前に出て、自分がイエスの衣にさわった訳と、さわるとたちまち治ったことをみんなの前で話したのであります。するとイエスはその女を真っ正面から見つめて「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」といわれたというのです。
 この後のことは聖書は何も記しておりませんが、この時にこの女は肉体だけでなく、心も、つまり肉体も心も、この女の全体がいやされたのであります。もし、この人がイエスの衣にさわり長血がとまって、ああこれで自分はいやされたといって、喜んで自分の家に帰ったとしても、それでこの女が本当に救われたかどうかであります。第一、自分の長血が治ったということをどのように証明できたでしょうか。当時の社会では、らい病の人はその病気がいやされた時には、祭司のきよめの儀式を受けて、祭司から病気がいやされたことを証明してもらわなくては、社会復帰できなかったように、ただ自分ひとりで長血が治ったといっても、社会復帰はできなかったかもしれないと思います。そうしましたら、病気はなおったけれど、あの女は汚れた女だという汚名は依然として残れさて、交わりのなかに入れない状態が続き、前よりももっと複雑な悩みを抱え込んだかもしれないと思います。この女はこの時この病気はいやされても、これとは違う病気に陥った時に、また悩むかもしれない。そうしてだれか評判の人の衣の裾にさわりにいったかもしれません。そうしてはまたお金を使い果たすことになった かもしれないのです。
 イエスはその女をみんなの見ている前で自分の正面に立たせ、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたのです。これはいわば、この女の病がいやされたということをみんなの前で宣言してあげたということであります。これで女はみんなの交わりの中に入ることができたということであります。しかも女は今、自分の病をいやしてくださったかたの顔をしっかりと見ることができたのです。その声を、自分に語りかけて下さる声を聞くことができたのです。自分の病をいやしてくださったかたが誰であるかをしっかりと知ることができたのです。もしあの時、イエスの衣のすそにさわっただけで、そこを去っていたら、イエスの顔を見ないで帰ることになった筈です。女がイエスの顔をまともに、正面からみることができ、イエスから直接声をかけられたということは、イエスといわば人格的に触れたということであります。衣のすそにそっと触れたなどということではないのです。イエスというかたに全面的にふれることができたということであります。この時にこの女はいわばその肉体も心もいやされたということであります。このあと、この女はたとえ違う病気になったとしても、自分をいや してくださったイエスとの交わりを思い起こして、どんなに支えられることになるかわからないと思います。
 聖人といわれる人の衣の裾にさわるだけでも病がいやされるなんてことは迷信であります。そんなものは信仰ではないのです。確かにイエスの衣のすそにさわっただけで、この女の病はいやされた。もしそれで女は帰ってしまっていたら、この女の信仰は迷信的な信仰で終わると思います。一生迷信的な信仰を送ることになると思います。確かにイエスほどのひとならば、この女がいやされたように、その衣の裾にさわっただけで病が治るという力はもっていたのです。しかしイエスはそのような迷信をそのままにはしておかなっのであります。もしイエスが今日はやりの新興宗教の教祖でしたら、この信仰を利用して、この迷信的な信仰を利用して商売をしたかもしれません。しかしイエスはこの女のもっていた迷信的な信仰を本当の信仰へと引き上げられたのであります。
われわれの持っている信仰もどこかに迷信的な信仰があるかもしれない。迷信的な信仰とまではいわなくても、御利益的な信仰をわれわれはもっていると思います。しかしイエスはそのわれわれの迷信的な信仰、御利益的な信仰をそのままにしておかないで、イエスとの人格的な交わり、父なる神に全面的に信頼する信仰へと導いてくれるのであります。

 さて、そうこうしているうちに会堂司ヤイロの娘は死んでしまいました。イエスがこの女の人と話をしているうちに、会堂司の家から人がきて「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません。」と言いにきた。するとイエスは会堂司にこう言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。それから、その家に入っていった。人々はみな娘のために泣いていた。イエスは「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われた。人々は娘はもう死んでしまっていたことを知っておりましたので、イエスをあざ笑いました。イエスは娘の手を取って、呼びかけた。「娘よ、起きなさい」。マルコによる福音書には、この言葉はイエスが話された言葉をそのままのせております。「タリタ、クミ」という言葉です。これは聖書がギリシャ語に翻訳される時も、ギリシャ語に訳されないで、イエスが語られた言葉がそのまま残されたわけで、よほど人々に印象深い出来事だったということであります。
 イエスが「タリタ、クミ」といわれると、娘の霊がもどって、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずされたというのです。両親は驚いてしまった。
 この一連の記事を通して、大変印象深いのは、この出来事の主役はイエス・キリストだということであります。会堂司ヤイロの言葉は一言も記されていないのです。四一節に、イエスの足下にひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った、といわば間接話法で記されているだけであります。後は一言も記されていない。会堂司の家のひとが「お嬢さんがなくなられました」といいにきても、この会堂司がどういう反応を示したかは一切記されていないのです。それに対するイエスの言葉だけがただ記されているのです。ただ最後に両親は驚いてしまったと記されているだけであります。
この出来事を記す聖書の記事は、この主役はイエス・キリストであるということを強調するような書き方がされているということであります。今われわれがこの記事を読んでも、イエスを信じていて、神様にお祈りしたら、死んだ人が生き返るんだというようには、読まないだろうと思います。そんなことはだれも期待しないだろうと思います。だからこの記事は本当はなかったのだということではないのです。マルコによる福音書が、「娘よ、起きなさい」というイエスの言葉をイエスの語られたまま「タリタ、クミ」と記しているということは、やはりこうした出来事が実際にあったから、この言葉は印象深く残ったということだろうと思います。しかし今日われわれがここを読む時には、もはや神を信じていて、一生懸命ご祈祷したら、死んだ人間がよみがえるんだというようには読まないだろうということであります。この記事を通して、われわれが今日与えられる信仰は、われわれ人間の死という現実に立ち向かうイエス・キリストというかたがおられるということなのであります。死という現実の主役は悪魔でも悪霊でも、病魔でもない。イエス・キリストがここにはおられて、いっさいをとりし きっておられるということであります。そしてそのことを思う時に、イエスが「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」といわれた言葉を信じることができるということであります。われわれのの最大の敵である死よりももっと強力なかたがここにはおられるということであります。