「弟子を派遣する」   ルカ福音書九章一ー一○節

 イエスは十二弟子を呼び寄せて、彼らににすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権力とをお授けになった。また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわしたというのです。われわれはこの記事を読む時に少しとまどうのではないでしょうか。それはこの弟子達がどうして福音を宣べ伝える資格があるのだろうかということなのです。彼らはイエスの十字架を前にしてみなイエスを裏切り、そこから逃亡した弟子達であります。そういう弟子達に果たして福音というものが宣べ伝える資格があるのだろうかという危惧であります。挫折を経験し、イエスの十字架と復活を知らされ、復活の主イエスにお会いし、聖霊を与えられた弟子たちならば、たとえ一度挫折したからといって、福音を宣べ伝えられないというのではないのです。しかしこの時の弟子達はまだそういう挫折を経験してないのです。その挫折から立ち直っていないのです。将来イエスの十字架を前にして逃亡してしまう弟子達、十字架という、福音のもっとも中心に立てなかった弟子達によって、どうして福音が宣べ伝えられるのだろうかということなのであります。これはいわば、教会生活の経験のまだ浅い、いわば求道者によっ て福音の伝道がなされるということであります。
 しかしイエスはそのことは十分承知していたのではないかと思います。マタイによる福音書では、弟子を派遣するときに、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものだ。だからへびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われているのです。イエスのほうでは弟子達の挫折は十分予測はしているのです。それでもあえてここで弟子達を、自分から離して弟子達だけを伝道に派遣しているのであります。

それは今日の教会の場合も同じだと思います。かつて熱心な教会の信徒であっても、役員までしても、そうして牧師につれられて、熱心に伝道に携わった人でも、その後教会を離れ、あるいは信仰を失った人はいくらでもいると思います。そうしたら、その人たちが宣べ伝えた福音は意味を失うのか、効力は失うのかと言えば、決してそんなことではないと思います。大切なのは、福音を宣べ伝える人間の資質ではなく、福音そのものの内容だからであります。
 パウロもこう言っているのです。「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを宣べ伝え、前者はわたしの入獄の苦しみに更に艱難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。するとどうなのか。見栄からであるにしても、真実からであるにしても、要するに伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救いになる事を知っているからである」と言っているのであります。クリスチャンにはいろんな人がいるし、というよりは、人間にはいろんな人がいるのだということであります。見栄から、野心から、伝道する人もいくらでもいるのです。しかしそれでもかまわないとパウロはいうのです。もっともそこはパウロの言い方は屈折していて、「要するに伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜ぶし、喜ぶであろう」と言って、単純に「喜ぶ」といっているので はなく、「喜ぶであろう」という言い方をしているからであります。
 しかしもちろんだからと言って、福音を宣べ伝える人間はどうでもいいのかと言えばもちろんそんことはないことは明らかであります。福音は宣べ伝える人間の資質とかその方法によって、福音がゆがめられてしまうということはいくらでもあるからであります。

そのことはイエス・キリストも十分知っていて、弟子達が伝道から帰って来た時に、彼らを群衆から引き離しているからであります。一○節をみますと、「使徒たちは帰ってきて、自分達のしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベッサイダという町へひそかに退かれた」とあります。恐らく弟子達は伝道から帰ってきて、意気揚々として帰ってきて、イエスにその伝道の成果を報告したのだろうと思います。するとイエスは彼らの報告を聞くと、すぐ彼らを静かな別の町に彼らを退かせているのであります。これは後に一○章のところで学ぶことになりますが、七十二人の弟子を同じように派遣した時に、その七十二人の者が喜んで帰ってきて、イエスにこう報告した。「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服します」とイエスに報告しますと、イエスは「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だからあなたがに害をおよぼす者は全くないであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなた方の名が天に記され ていることを喜びなさい」と言われるのであります。ここはリビングバイブルの訳ではこうなっております。「だが、悪霊どもが言うことを聞くからと言って、いい気になってはいけない。何よりも大切なのは、あなたがの名前が天国の市民として登録れさていることなのだ」となっております。
 要するに、伝道の成果というのは、伝道する人がその成功を誇るということであってはならないということであります。伝道する人間が何よりも救われなくてはならない者であること、罪ある人間であることを自覚することなのだということであります。伝道するということは、われわれに託された神の業であります。ですから、それは喜ばしいわざであります。しかしそれは人を救うわざですから、うっかりすると、何か自分が人を救っているような錯覚にとらわれてしまうことがあります。そのためにそれによってわれわれはいい気になってしまう、傲慢になってしまう危険はいくらでもあると思います。またそれは人を救う仕事ですから、大変な仕事であります。人を救うなんてことは容易にできることではないのです。だからそれは大変な挫折感をともなう仕事です。そうしてその伝道の失敗を通して、われわれはますます謙遜にさせられるということもあると思います。

 イエスもまたこの時の弟子達の未熟さを十分知っていて、宣教のわざに彼らを派遣しているのであります。ある意味では、イエスはこの時このようにして弟子達だけで伝道に派遣して、彼らの挫折感を味会わせようとしたのかも知れません。しかしそれに反して、弟子達は挫折するどころか意気揚々として帰ってきて、その伝道の成果を誇ろうしたのであります。それでイエスはあわてて、弟子達を静かな場所に誘ったのではないかと思います。もちろん、伝道は挫折した人間によってだけ伝えられるというような、そんな屈折したものではないと思います。福音によって救われた者がそれを謙遜に喜び、ただ純粋に喜び、その喜びにあふれて、それを抑えきれないで、ほとばしり出るようにして伝道者になった人もいくらでもいるし、確かにそういう人によって福音は正しく宣べ伝えられていくと思います。挫折感をもつことが大切だなどといいたいのではないのです。ただわれわれは福音書をとおして、あの弟子達が十字架を前にして逃亡し、イエスへの裏切りを知っておりますから、そういう弟子達に果たして伝道する資格があるのだろうかと思ったのであります。

 イエスは十二弟子を呼び集め、彼らに悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになりました。また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわそうとしたと記されております。ここでは、「病気」のことが二度にわたって出ております。前のほうの病気については、「病気をいやす力と権威」と出ていて、後のほうの病気については、「病気をなおす」と出ておりますので、あるいは、前のほうの病気は、悪霊にとりつかれた病気を考えていて、あとのほうの病気は、普通の病気のことなのかもしれません。ここで竹森満佐一がこう指摘しております。「ここでは『悪霊を追い出す権威』とはなっているが、『奇跡を行う権威』とは書いていないことが大切だ。この当時のことだから、精神病も悪霊につかれたと考えられていたことだろう。そうとしても、これは精神病をなおす力が与えられたのではない。そういう場合も聖書の中にはあるが、ここで言われていることはそうではない。これはむしろ、神に反対する力に立ち向かって、それと戦う権威を与えられたということだ。ここに力が与えられたと書いていないことが面白い。われわれは伝道に出かけて、この世と戦って、すぐには勝てる ような力が、自分にあるわけではない。悪霊に勝つ権威がわれわれに与えられているのだ。人の前に立って、神のほうが本当なのだという権威が、われわれに与えられたのだ。力はないかも知れないが、権威はあるのである。そして、その権威のゆえに、力が与えられたでありましょう」と言っているのであります。ここはマタイによる福音書では、「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」と記されているのであります。ちなみにマルコによる福音書では「彼らにけがれた霊を制する権威を与え」と記されているだけで、病気については言及されていないのです。それはともかく、マタイでは「あらゆる病気、わずらいをいやす権威」を授けたとなっていて、病気をいやす力、なおす力が与えられたとは書いていないのです。病気をいやす権威を授けるということはどういうことなのか。病気をいやす力が与えられないで、ただ権威だけが与えられても何にもならないような気がいたしますが、しかし病人が陥る病はなんといっても肉体の病だけではなく、それによって引き起こされる心の病、絶望であります。もう自分はだめな のではないかという思いであります。そういう病人に対して、そうではない、神がおられるではないか、神がわれわれの生と死を支配しておられるではないか、その神の権威をしっかりと宣教することが、弟子達に与えられた重要な使命だったということであります。 
 われわれは確かに悪霊に勝つ力はないかも知れません。しかしたとえ、負けても悪霊に勝ったかたがおられる、そのかたが最後には、すべてのものを自分の足下にひれ伏せさせる、そういう神の権威を宣べ伝えることはできるのではないか。見た目には悪魔に敗北するようにみえるかもしれませんが、イエスの十字架などは見た目には神の子の敗北のように見えるかもしれませんが、しかしその十字架の上で、人間の罪を背負って神に捨てられていくイエスを見る、そのようにして「すべてのことは成し遂げられた」というイエスの言葉を聞く、そうすることによって、神の権威がむしろ敗北の形の中に、つまり、右の頬を打たれたら、打ち返して相手を屈服させるのではなく、相手にほかの頬を差し出すことによって、神の権威を証したイエス・キリストの権威を宣教することはできるのであります。
 そしてそれが「神の国を宣べ伝え」ということであります。「神の国」というはもともとの意味は「神が支配する王国」という意味だからであります。われわれのこの地上の国も神が支配しておられる王国なのだと宣べ伝えるということが「神の国を宣べ伝える」ということなのであります。

 そうしますと、当然その伝道の仕方は、伝道する者の心がまえは、なによりも神の支配を信じ、ただそのことだけを信じて伝道に当たらなくてはならないのであります。それが「旅のために何も携えるな、杖も袋も持たず、また下着も二枚はもつな」という言葉になります。つまり、ただ神のみを信頼して、この世のもの、お金とか、そういうものに頼って伝道旅行するなということであります。
 四節をみますと「どこかの家に入ったら、そこに留まっておれ。そこから出かけることにしなさい」と勧められております。これはあっちこっちの家を渡り歩くようなことはするなということのようであります。つまり、何か待遇のいい家を捜して求めるようなことはするなということのようであります。ひとつのところで快く伝道者を迎えてくれる家を見つけたら、もうその家の人を信頼して、そこにとどまれということのようであります。
 そうして、「だれでもあなたがたを迎えるものがいなかったなら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落としなさい」というのです。ある意味では、豚に真珠をあたえなくてもいいということであります。福音を安っぽく、卑屈に与えるなということであります。欣然とした態度で宣教にあたりなさいということであります。
 十二人の弟子達はイエスからこのような権威を与えられて、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやしたというのであります。

 そして一方、イエスの道ぞなえをしたバプテスマのヨハネを不当な理由で殺してしまった領主ヘロデはこのイエスはバプテスマのヨハネのよみがえりだといううわさを聞いて、おびえたというのであります。領主ですから、その一帯ではもっとも権力をもっていた筈であります。しかし彼は「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人はいったいだれなのだろう」と、おびえていたというのであります。彼は権力はもってはおりましたが、権威などはひとつももっていなかったということであります。自分の犯した罪におびえていたのであります。神の権威に対抗する力はないのであります。