「イエスに従う」     ルカ福音書九章五七ー六二節

 イエスが道を歩いていますと、ある人がイエスに「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」といいました。するとイエスは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われたというのです。きつねは夜になれば、きつねはあるいは夜行性の動物だから、朝になればということかもしれませんが、ともかく時がくれば、寝に帰るところがある、空の鳥もそうだ、しかし、人の子は、人の子というのは、イエスがご自分が十字架の道を歩み、その苦しみを受ける時に、自分のことをあらわす時に用いる言葉ですけれど、つまり、簡単に言えば、わたしには、ということです、わたしには安らかに枕して眠るところがないんだよ、わたしが最後に行き着くところは、十字架の死なのだから」ということです。「それでも、お前はどこまでもわたしに従ってくるのかね」ということであります。

 そのあと、今度はイエスのほうからある人に声をかけて、「わたしに従ってきなさい」と言われたのであります。すると、そう言われた人は「まず、父を葬りに行かせてください」といった。するとイエスは「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を告げひろめなさい」と言われるのであります。イエスの言われた言葉「死人を葬ることは死人に任せなさい」という言葉がどういう意味なのか、いろんな注解書を読んでもよくわからないのですが、死んだ人のことを、死んだ人に任せるということが具体的にどういうことなのかわからないのです。最近出ました岩波版の訳の注では、最初の「死人」というのは、実際に死んだ人のことで、後のほうの「死人」というのは、精神的に死んでいる人間、愛する人を失って悲しみにあえいでいて、霊が死んでしまった生ける屍の人、精神的に死んでしまっている人のことを指すのだ、したがって、死んだ人のことはそういう生ける屍の状態に陥っている家族とか親族に任せておけばいい」という意味だと注にのっております。そういう言葉が当時のユダヤ人の教師の言葉にあるのだそうです。そのようにとりますと、何か大変 冷たい言葉のように響きます。死んだ人のことなど死人に任せておけばいいということになります。死んだ人のことを悲しむなどということは、女々しいことで、もっと前向きに生きなさいという意味になるかもしれません。イエスはそういう意味でこの人に言ったのでしょうか。
イエスは死に対してそんなに冷たい態度をとるのでしょうか。ヨハネによる福音書にあるラザロの記事では、ラザロが死んでしまった時その周りの人々が悲しんでいる様子をみて、イエスも感動し、心を深く動かされたと記されてりおますし、他の箇所でもナインの町での出来事として、娘を死なせた母親にイエスは深く同情したと記されております。イエスは人間の死について決して冷淡ではないのです。その葬りについてもイエスは決してどうでもよいこととしては考えはいないのです。
 当時のユダヤの社会では、自分の父親の葬儀をするということは子供の一番大切な義務だとされています。それは十戒の「あなたはあなたの父母を敬え」という戒めを守る上でも大切なことだったようであります。そういう中でイエスがこのように言われたということは、大変大胆なことだったということであります。イエスは死んだ人に対して、その遺族に対して決して冷たい態度をとってきてはいませんでした。聖書はイエスが死んだ時もその埋葬の様子を丁寧に書き記しております。ですから、聖書は葬儀とか埋葬ということを決して軽く扱っているわけではなく、大変大切なこととして考えております。
 愛する者を亡くした人に対してわれわれはしばしば早く悲しみから立ち上がってほしいといって、励ましたりいたしますが、本当はそういう励ましかたは残酷なのではないかと思うようになりました。普通の悲しみならば、一日も早くその悲しみをふっきることが大切かもしれませんが、しかし子供を失うとか、親を失うという悲しみは、愛する者と別れるという悲しみであります。そうであるならば、その悲しみを一日も早く忘れてしまうということは、死んでいった者に対してはなはだ冷たいということになるのでないか。愛する者を失った者としては、一日でも長く深く悲しみの中に浸っていたいという思いの中にいるのではないか。そういう人に対して早く悲しみを断ち切って、その悲しみから立ち上がれというのは、少し残酷ではないかと思うようになったのであります。しかし時というのは残酷なもので、やがてわれわれは時間と共に、やがてその悲しみも次第に希薄になっていく、悲しむことが薄れていく、それは本当に残酷なことで死んでいった者に対してすまないという気持ちにさせられるのであります。
父親を亡くして、この人はその悲しみの中にいたのではないかと思います。その人に今イエスは「お前はもうその悲しみを吹っ切って、神の国を宣べ伝えなさい」と言われるのです。人間の死に対して決して冷淡でないイエスがそう言われるのです。それはイエス・キリストだからそういうことができたのではないか。イエス・キリストがそういわれるから、この言葉は深い意味をもつのではないか。それはイエスがやがて神のところに召される時に、イエスはわれわれのために場所を用意しにいくと言われるからであります。旧約の詩人が「あなたの大庭にいる一日はよそにいる千日にもまさる」と歌いました。この詩は直接には、バビロンという異教の地で故郷のエルサレムの神殿で仕えたいと歌った歌ですが、この詩篇は、教会では、この地上の千日よりは、神がおられる天においての一日のほうがはるかにまさる、という意味にとって読んできた詩篇であります。この地上の生活よりも、天における生のほうがもっと豊かな生であることを知っておられるイエス・キリストだからこそ、今この人に向かって「死人を葬ることは死人に任せるがよい」といわれて、「お前はもうその死んだ父親を神に委ね なさい、神に委ねても大丈夫なのだ、なぜならこの地上の生よりも天上の生のほうがずっと豊かで楽しいのだから、お前はもう悲しむ必要はないのだから、お前は神の国を宣べ伝えよ」と言われたのであります。

 そして、イエスがもうひとりの人に対して「従ってきなさい」と、呼びかけたところ、その人は「従ってまいりますが、まず家の人に別れを言いに行かせてください」というのです。それに対してイエスは「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」と言われたのであります。イエスに従うよりも、まず、家族関係を大事にしたいというのです。それに対して、イエスは「わたしに従うということは、なにもかも捨てて従うということなので、それはお前が一番大事にしているかもしれない家族を捨てて従うということなのだ。そして従う限りは、もう後ろを振り返らないで、いっさいを捨てて従うことが大事なのだ」というのであります。

 この三つの記事は、どれもがイエスに従うということの厳しさを述べているようであります。最初に出てくる人は自分からイエスに従います、あなたのゆくところならどこまでも従いますというのです。彼はイエスに従うことが何か自分の利益につながると考えていたのかもしれません。イエスに従っていたら、病気を治せるとか、悪霊を追い出せる力を与えられるとか、そういう利益があるのではないかとか考えていたのかもしれません。あるいはそんな世俗的なことでなくても何かの理想を追い求めるようにして、ロマンチックに考えて、イエスに従うということを考えていたのかもしれません。しかしイエスに従うというのは、そんな自分の利益とか自分の理想の追求とか、そうした自分の好みからイエスに従うというものではない、それはイエスと一緒に十字架で死ぬ、自分の命を捨てるという覚悟がいることなのだとイエスは言っているのであります。そして次の二人に対しては、まずこの世的なものを最優先するという生き方を捨てなくてはならない、たとえそのこの世的なものが家族とかという大切な人間関係であったとしても、「まず」といってそうした人間的なものを最優先する生き方をや めなくてはならないというのであります。イエスに従うということはそういうことなのだ、ひとたびイエスに従う道を選んだ限りは、もうあともどりするなと言っているので、大変厳しいことを言っているようなのであります。

河合隼雄の本を読んでおりましたら面白いことが書かれておりました。学校の不登校の子供を扱っている学校の理事長で、精神科医の先生がこんなことを言っているというのです。不登校の重症の子供たちに共通して見られる問題点として「自分を誰かに同一視する」、あるいは「同一視する人を見つける」ことが非常に困難だという事実があるというのです。「同一視する」というのは、誰か他の人に対して、自分も「あの人のようになろう」と思ったり、その人の真似ばかりしたりするような状態をいうのだそうです。そして河合隼雄がいうには、「なんだそんなことかと思う人がいるかもしれないが、これは人間の成長にとって非常に大切なことだ、人間はもちろんひとりひとり異なるのだから、他人と同じになることなどできない。しかし、子供の時にあの人のようになりたいと思い込む、その人の生き方を真似したいと思う、そこまで思いこんで努力してみることによって、『やっぱり、自分はこの人と違う』ということがわかり、自分自身の生き方というものがわかってくるのだ。そんな面倒なことをしなくても、最初から自分の個性を活かして努力すればいいと思うかもしれないが、人間の個性 などというものが、そんな簡単に見つかるはずはない。誰か自分のほかに『生きた見本』を見せられて、あれだと思って努力し、苦労してこそ自分の個性が見えてくる。われわれは小さい時のことを考えてみたら、先輩や教師、英雄偉人伝に出てくる人、今日でいえはばタレント、そういった人の真似をしたり、そういう人になりたいと思って、自分をそういう人と同一視して、一生懸命になる、この経験をもたないとわれわれは人生に対して傍観者になってしまう、なんとなくシラーッとしてくる。子供にとっての最初の同一視の対象は父親であり、母親であろう、しかしそののうちにそこから分離しようとして『自分』というのがわかってくる。あるいは何か英雄の偉人伝なんか読んで、そういう人になりたいと思って努力していくうちに、そういう人間になれないことを発見して、その人と自分は違うんだということに気がつくのだ、ある尊敬する先生に最初は従っていくが、そのうちにその先生と自分とは違うのだということがわかり、その先生に躓いたり、喧嘩別れなどして離れていく、そういう過程というものがわれわれが成長していくのに大切なのだ。成長期の子供時代にそういう思い切って身を任 せる人、自分が同一視できる人という人をみつけて従ってみるという経験をもつ、そして同時に、従い切れないという経験をしておかないと、ある時突然オウム真理教の麻原彰晃のような人を同一視の対象にしてしまってそこからぬけだせなくなってしまうのだ」というのです。「不登校の子供の中にはなかなか個性的で、いろいろな能力をもった子供がいるのだけれど、その個性的なものが自分の中に根付き、それを土台として外界に打って出ていくという迫力や自信に欠ける」というのです。「それを根付いたものにするには、小さい時に『自分を誰かに同一視する』という経験をもっていないとだめなのだ、そのように具体的に自分の全存在を賭けて、誰かを尊敬したり、誰かの真似をしたり、誰かに従ってみるという経験をする、小さい時にそのように自分を投げ出して生きてみるという経験をしていなと、何か生きるということが傍観者的になってしまう、シラッーとした生き方しかできなくなってしまう」というのです。そのためには幼少期の親子関係がしっかりしているということが大事なのだと述べているのであります。

少し長い引用になって申し訳ありませんが、面白いと思ったのは、われわれが生きていく上には、誰かに従う、全面的に自分を捨てて誰かに従うという生き方をしないとわれわれは成長しないということ、そうして同時にそれはやがてその人に一度は躓いて離れるという経験を必ずするのだということなのです。誰かの真似をする、その人に惚れ込んで、その人になにもかも真似しようとしてその人に従うという生き方をする、つまりそれはいわば自分の全存在を賭けてみようとするということです。いわばそれは冒険をするということであります。それが大切なのだということであります。そして同時に、そうすることによってその人に躓く、自分はその人とは違うという発見をする、そうして一度はその人から離れる、そういうことが大事なのだということなのであります。われわれの世代はそういう英雄偉人伝というものを小さい時読んだのではないかと思います。われわれの時代でいったら、シュバイツアーがそうだったかもしれません。しかしやがて自分はそのような人間にはなれないということを知るのであります。

 イエスの弟子達のことを考えますと、彼らもまたイエスに従ってきなさいといわれた時に、何もかも捨てて、イエスに従ったのです。ある時には弟子達は「私達は何もかも捨ててあなたに従いました。ついては何か頂けるでしょうか」とイエスに言ったぐらいであります。彼らは今日のテキストにある三人の人とは違ってみな家族を捨てて、この世のものを捨ててイエスに従ったのであります。しかしわれわれは彼らがは結局は最後のところで、イエスが逮捕された時、みなイエスを見捨てて逃亡してしまう、彼らはイエスに従えない自分を発見して、イエスから離れてしまうという経験をすることを知っております。彼らはみな一度イエスに躓くのであります。
そしてそのあと、もう一度復活の主イエスから呼び出されて、特にペテロは「お前はわたしを愛するか。お前はわたしに本当に従ってくるか」といわれて、ペテロは今度は「はい従います」とはすぐには言えないで、「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」という答え方をして、イエスに従っていくのであります。今度はペテロはただやみくもにただ自分の熱心さだけでイエスに従うのではなく、自分の弱さと自分の罪を自覚しながら、そして自分なりに、つまり自分の個性に即してイエスに従っていくのであります。われわれはイエスの真似をしてイエスに従っていくなんてことはできないのです。イエスとわたしとは個性が違うのです。個性などといいますと、格好がいいですが、本当は個性などといのうのは、自分のわがままさであり、自分の我執のようなもので形成されているのではないかと思います。ですから、個性の中核には、われわれの罪があると言ってもいいかと思います。イエスに従うということは、その自分の罪を自覚しながらイエスに従っていくということなのです。

復活のイエスはペテロに対して最後にこういうのです。「よくよくお前に言っておく。お前は若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へつれてゆくであろう。」といわれて、改めてペテロに対して「わたしに従ってきなさい」といわれたのであります。イエスに従うということは、ただ自分から自分の決心とか自分のひとりよがりな熱心さといったもので従うのではなく、イエス・キリストから召され、促され、それに応えるということで従っていくのであります。