「伝道する者の救い」 ルカ福音書一○章一ー二四節

 ルカによる福音書だけは、イエスの弟子に一二人のほかに七十二人の弟子がいて、イエスはその七十二人の弟子を伝道に派遣したという記事があります。この七十二人という数は、写本によっては、七十人という数になっている写本もあるそうです。われわれはすでに九章の一節から六節までのところで、イエスが十二人の弟子を伝道に派遣したという記事を学びましたので、重複を避けて、ここだけに記されていることを中心に学んでいきたいと思います。九章のところには記されていませんでしたが、イエスは弟子を派遣するに当たって、「ふたりずつ先におつかわしになった」と記されております。これはルカによる福音書では、九章の記事にはありませんが、他の福音書の記事でイエスが十二人の弟子を派遣する時にある記事です。ですから、イエスが弟子を派遣する時には、いつも「ふたりずつ」派遣したようであります。ふたりずつ派遣するということは理にかなったことであります。ひとりが病気になった時には、もうひとりが助けることができますし、ひとりよりはふたりのほうが何かと相談できるし、助け合うことができるからであります。しかし場合によっては、ふたりずつ派遣するとい うことは、難しいことが起こるということもあり得ると思います。伝道する時に、ふたりが組になるということは、案外難しいのです。教会の場合には、牧師と副牧師の間がうまくいっているという例のほうがすくないのではないかと思います。副牧師のほうが神学校出たてとか、よほど若い場合はうまいくかもしれませんが、それでもそれは最初の一、二年までで、だんだんうまくいかなくなるのではないかと思います。お互いの個性があり、自己主張がありますから、うまくいかなくなるのではないかと思います。そうかといって三人が組になるということも難しいのです。よく旅行などで三人が組になっていくと大抵帰りには喧嘩別れになっているということであります。三人の組になると意見の違いが出た時に二人対一人となってうまくいかなくなるからであります。
 ふたりが組になるということは、仲がいい時にはお互いに助けあっていいかもしれませんが、ひとたびうまくいかなくなるとどうにもならなくなります。そのときに、どちらかが謙遜にならないとうまくいかなくなると思います。イエスがふたりずつ組にして伝道にいかせたということは、伝道に必要なことはなによりも謙遜にならないと、福音を伝えることができないと思われたからではないかと思います。伝道者には一匹狼が多いのです。個性の強い人が多いのです。それでは福音というものを正しく伝えることはできないのではないかと思います。この我の強さが打ち砕かれないと福音は伝わっていかないと思います。

 イエスは伝道者を派遣する時に、わざわざこういいます。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。「収穫は多いが」というのは、福音を伝えることによって救われなくてはならない人が多いということです。だからその福音を宣べ伝えるために働き人、つまり伝道者を作りなさいということであります。しかしここではもうすでに七十二人の伝道者がいるわけで、その伝道者をこれから伝道するために派遣するところです。つまりこの七十二人の役目はなにか伝道者を作ることが目的ではなく、自分が伝道者として福音を宣べ伝えることが目的なのであります。それなのにこんなことをわざわざイエスがいうのは少し奇妙であります。それはイエスの思いからしたらこういうことではないかと思います。「わたしはお前達を福音を宣べ伝えるための働き人として派遣するのだが、それはお前達がなにか伝道者としての能力があるから派遣するのではない、わたしが何よりも収穫の主、つまり父なる神に願って、その神様からお前たちを送りだすように託されて、今お前達を送り出すのだ」ということではないかと思います 。つまりこれから伝道に当たる時に、伝道者にとって何よりも大事なのは、自分が伝道者にふさわしい能力があるとか、だから自分は伝道者になったのだというようなことではない、伝道する者にとって一番大事なことは、神から自分は派遣されているのだという自覚をもつということであります。ただ自分が考えて、「伝道するということは働きがいのある仕事だから、自分の個性にあっている」とか、そんなことで伝道者になれるのではない、神によって召され、神によって派遣されているのだという自覚であります。そのことを自覚する時に伝道者は神の前にそして人の前に謙遜になれるのであります。また自信も与えられるのであります。

 そしてそのあと、イエスは「さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊を狼のなかに送るようなものだ」というのです。マタイによる福音書ではこの後に「だから蛇のように賢く、はとのように素直であれ」という言葉が続きますが、ルカによる福音書はその後、「財布も袋もくつも持っていくな」という言葉が続きます。小羊が狼の中にいくのですから、武装していけ、というのかと思いましたら、何も武装するなというのです。財布も袋もくつも何ももつなというのです。これは下手な武装したって相手に勝てるはずはないのであって、伝道者のただ一つの武装は自分の中には何ももたずにただ神のみを信頼していくこと、それが狼の中に小羊がはいっていくことの武装だということであります。
 
 そのあと、「だれにも道であいさつするな」と続きます。これは目的地につくことに専念しなさいということだそうです。当時の社会ではあいさつするには一定の流儀というものがあったらしくて、そこでいたずらに時間をとるなということのようであります。あるいはあまり八方美人的になるなということかもしれません。そしてどこかの家にはいったなら、まず平安を祈りなさいというのです。伝道するということは、神の平安を祈ることであって、神様を信じないと、キリスト教を信じないと呪われるぞと脅して福音を宣べ伝えるのではないということであります。
しかし一二節からは、「その日にはこの町よりもソドムのほうが耐えやすいであろう。わざわいだ、コラジンよ」という言葉が続きますので、まるで福音を受け入れない町は呪われると脅しているではないかと言われそうですが、しかしこの言葉は福音を拒否した人々に弟子達が直接言って、呪う、そうして脅しなさいと、イエスが言われたのではなく、そのようにお前達を拒否した町は神の裁きがあるのだということをお前達は知っておきなさいと、イエスが弟子達に言っている言葉であります。福音を拒絶されて自信を失いかける弟子達をいわば励ます言葉であります。信じないと地獄にいくぞ、と脅しをもって福音を宣べ伝えてはならないのであります。ただ一○節をみますと、「どの町へ入っても人々があなた方を迎えない場合には、大通りに出て行って、『わたしたちの足についているこの町のちりも、拭い捨てていく。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』」と、神の国、神の支配はわれわれがどんなに拒否しようが必ずくるということだけは伝えておきなさいといわれるのであります。

七十二人の弟子達は伝道して帰ってきました。「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と、恐らく意気揚々としてイエスに報告したのではないかと思います。するとイエスはこう言われました。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害を及ぼす者は全くないであろう。。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」。
 弟子達は確かに伝道の成果をあげてきたようであります。病人をいやしたかもしれない。そして何よりも、悪霊を追い出すことができたのでしょう。そのためにそれは彼らにとっては「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」という思いをもったのでしょう。それに対してイエスも彼らの伝道の成果を認めるのです。「確かにわたしもサタンが電光のように天から落ちるのを見た」というのです。しかしイエスはこういわれるのです。「しかし、霊があなたがたに服従したことを喜ぶな。誤解してはいけない、悪霊が服従したのは、お前達にではない、父なる神に服したのであって、お前達に悪霊が服従したわけではない」といわれるのであります。パウロも終末の時になって、キリストがすべての権威と力とを討ち滅ぼして、国を父なる神に渡される、そうして父なる神がすべてのものを彼の足下におかれて、すべてのものを服従させるのである、と言っております。悪霊が完全にその威力を失うのは、終末の時なのであります。今日においても悪霊はまだまだ支配しているのであります。カール・バルトという偉い神学者が、悪霊の支配というのは、もうイエスの十 字架と復活によってもう完全に敗北したのだ、今日いまだに悪霊が働いているようにみえるが、それはもうゲリラ戦争のようなもので、もう大勢は決したのだといっております。しかしこの比喩、「大勢は決した、今はゲリラがあっちこっちでさわいでいるだけだ」という比喩は、今日ではあまり通用しないのではないかと思います。といいますのは、今日の世界の至るところでの大きな問題はむしろそのゲリラ戦争、ゲリラによるテロ事件だからであります。カール・バルトはわれわれを安心させるために、もう大勢は決して、ただゲリラ活動だけがあっちこっちで起こっているだけだと言ったのでしょうけれど、これは今日のわれわれにとってははわれわれをむしろ安心させる比喩にはなっていないのではないかと思います。
 ですから、今日われわれにとっては、悪霊の支配というのはまだまだ脅威であります。よほどキリストの十字架と復活による神の勝利を信じ切らないと、うっかりすると悪霊の支配にわれわれは脅かされるのではないかと思います。悪霊が完全に敗北するのを見ることができるのは、終末の時であります。 
 
 しかも悪霊が服従したのは、伝道者である弟子達に服従したのではないのです。父なる神に服従したのであります。イエス・キリストに服従したのであって、弟子達に服従したわけではないのです。伝道することによって、まるで悪霊が自分たちに服従したと錯覚してしまうということは、伝道者の危険な思い込みであります。
旧約聖書のなかでモーセにつぐ偉大な預言者とされているエリヤがおりますが、彼が活躍した時は、当時の王様がバール信仰という偶像礼拝をしていたのです。それで彼をはじめ多くの預言者がそのことで王を糾弾した。つぎつぎと本当の神を宣べ伝えていた預言者たちが迫害され殺されていった。その時もちろんエリヤも迫害されて殺されそうになります。預言者エリヤは神に訴えました。「もしわたしが殺されたら真実の神を宣べ伝える者がいなくなります。今はわたしひとりだけが残りました。そのわたしが今殺されそうになっています。それでいいのですか」と神に訴えるのであります。その時主なる神からの答えは「わたしはイスラエルのうちにバールにひざをかがめない七千人を残している」という答えでした。そして「おまえはエリシャに油を注いでおまえの代わりに預言者としなさい」ということだったのです。もうお前は預言者を引退しなさいと言われてしまうのであります。自分だけが、と自分の力で神の真実を宣べ伝えているのだと自負し始める時に、もう預言者の資格、伝道者の資格はなくなるというのであります。

イエスは「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」といわれます。「あなたがたの名が天に記されている」ということは、聖書特有の表現で、救われる者の名前が神の巻物に記載されるという考えであります。それは弟子達が伝道してその成果をあげたから、だから天にその名前が記されるのではないのです。もうすでにあなかだかの名前は天に記されているのだというのです。そのことを喜びなさいというのです。それはあなたがたの敵である悪霊が滅びることとか、ましてその悪霊があなたがたに服従していることを喜ぶのではなく、あなたがたが救われるていることを喜べというのであります。それはあなたがたが何よりも救われなくてはならないものであることを自覚しなさいということであります。伝道者はうっかりすると、人の救いばかり関心がいって、自分のことなどどうでもいい、自分の救いなどはどうでもいいと思うことが、なにか伝道者の誇りだなどと思うかもしれないけれど、それはおかしいのです。伝道者もまた救われなくてはならない罪人であり、弱いものなのです。自分の救いなどはどうでもいいなどいうのは、 立派にみえますが、それはむしろ伝道者の傲慢であります。
そしてその時イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした」と祈り始めたのです。「その時」というのですから、弟子達の伝道の成果を聞いた時ということであります。イエスはここでは弟子達のことを知恵のある者や賢い者としては見ないで、幼子として見ているのであります。神の福音を宣べ伝えることができるのは、知恵のある者や賢い者によってではなく、幼子によってなのだ、それがみこころにかなったことなのだということであります。

 福音は、決して品行方正な人やこの世的にみて信仰が立派な人によって宣べ伝えられるものでない、人間的にはすぐ躓いてしまうあの弟子達、少し伝道の成果をあげると、悪霊が自分たちに服従するといって、有頂天になってしまう弟子達、そうしてはイエスに叱られてしまう弟子達、それはまさにイエスからみたら幼子のようなものであります。ここで言われている幼子とは、われわれが想像するような純粋無垢とか、純真とかという意味での幼子の意味でないのです。この世の知恵とこの世の賢さに対比される幼子であります。ただ神に信頼し、神に救っていただかないとどうしようもない者、それが幼子であります。そういう幼子によって伝道がなされていくのであります。イエスはさらにこう祈ります。「すべての事は父からわたしに任せられています。そして子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかは誰も知っている者はありません」といいます。これは要するには、父なる神のことはすべて子なるキリストを通して現されるということであります。それはつまりキリストの十字架と復活によって示さ れるのだということであります。パウロの言葉によれば、「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであり、躓きである、しかし神はこの世の知恵を滅ぼすために、そういう神の子キリストが十字架で殺されるという宣教の愚かさによって、福音は宣べ伝えようとされるのだ」ということであります。「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」ということであります。