「主の祈り」  ルカ福音書十一章一ー一四節

 主イエスがあるところで祈っていた時、祈り終わったところ、弟子のひとりが「主よ、ヨハネがその弟子達に教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」と言ったのです。そこで主イエスは、祈る時にはこう祈りなさいと言われて教えてくださった祈りが、毎週礼拝のなかでわれわれが祈っている「主の祈り」であります。弟子はイエスにどう祈ったらよいか、つまり祈る姿勢とかを教えてくださいと言ったのではないのです。また何を祈ったらよいかという祈る内容を教えてくださいとお願いしたのでもないのです。いわば、祈るとはなにか、祈りそのものを教えてくださいとお願いしているのであります。祈ることを教えてくださいとお願いしたのであります。それに対してイエスが答えたのは、祈るとは何かというような、祈りについての定義づけをしたのではないのです。祈りとは、まず神に対する賛美である、感謝である、われわれ人間の悔い改めの告白であるとか、そのような、祈りについての定義づけをしたわけではないのです。むしろ、イエスは「何を祈ったらよいか」という祈りの内容を弟子達に直接教えたのであります。
 福音書をみますと、弟子達が自分たちの仲間で祈りあっていたという記事はないのです。弟子達が真剣に祈り始めたのは、イエスが天に登られて、イエスが自分たちの目の前から姿を消してからであります。使徒行伝をみますと、イエスが天にあげられてから、聖霊がおりるまで、彼らはある家の屋上の間で、イエスの母マリヤとイエスの兄弟たちと共に、心を併せて、ひたすら祈りをしていた、と記されていて、弟子達が祈っている様子を記しているのは、ここが初めてであります。それではそれまでは弟子達は全然祈らなかったのか、祈るという習慣そのものが無かったのかと言えば、マタイによる福音書によれば、イエスがこの「主の祈り」を教えられた時、その前に「祈る時には偽善者たちがするように、人に見せようとして祈るな、彼らは人に見せようとして会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む」といわれて、祈る時にはこう祈りなさいと、「主の祈り」を教えられたとなっておりますから、当時のユダヤ人が祈る習慣がなかったわけではないのです。それどころか、祈るということは大切な宗教的な姿勢だったと思われます。だから宗教的な熱心な律法学者たち祭司達は人前に出て、祈り をみせびらかしていたのであります。弟子達も祈ることは知っていたと思います。しかしそういう当時の律法学者・パリサイ人たちの祈りを見ていて、本当の祈りとは違うことを感じていたのだと思います。そういう彼らの祈りとイエスの祈りとは違うのではないかと思い始めていた。それで弟子の一人がイエスが祈り終えてから、祈りそのものを教えてくださいとお願いしたのではないかと思われます。
 そうしてもう一つのことは、ヨハネが、これはバプテスマのヨハネのことですが、「ヨハネが弟子達に教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」といっておりますので、自分たちが集まって心を併せて祈る時に、共通の祈る言葉を教えてくださいという意味にもとれるとある人が言っております。つまり主イエスが教えられた「主の祈り」というのは、われわれが個人的に祈る教えというよりは、弟子達が集まった時に、共に祈る祈り、共同体としての祈りだということなのであります。ですから今日「主の祈り」は教会が礼拝する時に祈る祈りになっているわけであります。もちろんだから、主の祈りは、個人の祈りではないというのではないのです。マタイによる福音書では、別に共同体としての祈りとして、イエスが教えられたというようには記されていないのです、むしろ、祈る時には密室で祈りなさい、くどくどと祈らないでこのようにして、祈りなさいといって、「主の祈り」を教えておられますから、一人で静かに心を込めて祈る時にも、この「主の祈り」はわれわれが祈らなくてはならない祈りであります。

 今日から二回にわけて「主の祈り」について学びたいと思います。主の祈りは二つに分けられます。前半は神のための祈り、つまり、「父よ、み名が崇められますように、御国がきますように」という祈り、後半はわれわれ人間のための祈り、「わたしたちの日毎の食物を日々お与えください。わたしたちに負債のある者をみなゆるしますから、わたしたちの罪をもゆるしてください。わたしたちを試みに会わせないでください」という祈り、というように二つの部分にわけられます。これは十戒と似ております。十戒も前半は神のほかなにものをも神としてならないとか、偶像を拝んではいけないとか、神のみ名をみだりにとなえてはならないとか、とか前半は神のための戒め、そうして後半は、人を殺してはならない、盗んではいけないとか、われわれ人間に関しての戒めというように二つにわけられるわけです。
 しかし神のための祈りといいましても、これはわれわれ人間が神のために祈ってあげるというような意味での、神のための祈りということでないことはもちろんであります。われわれが神様のために何か祈ってあげないと、神の面目が立たないとか、そんなことではないのです。神のための祈りというのは、われわれ人間が神を神として崇めるようになることが、われわれ人間が人間として正しく生きれるようになる、われわれ人間が幸福になれる道であるということなので、神のための祈りというのは、結局はわれわれ人間のための祈りなのです。だからイエスはわれわれにこう祈りなさいと教えてくださったのであります。まず神のみ名をわれわれがあがめられるようになることを願うことが、われわれが一番生きれるようになる道であり、われわれが一番幸福になる道なのであります。

 神の御名をあがめられるように、とありますが、神の御名とはどういう名前なのでしょうか。旧約聖書では、イスラエルの神の名はヤハウェとなっておりますが、この意味がよくわからないのです。これは「わたしはある」という存在をあらわす言葉ではないかとも言われております。日本語の聖書では、この字がでてくるところは「主」と訳されております。イスラエルの神の固有名詞といいましても、これは「ある」とか「なる」とかという意味をもった言葉ではないかと言われております。ですから普通の固有名詞とは言えないようです。旧約聖書ではむしろ神の名をみだりにとなえてはならないという戒めがありますから、神の名を唱えることをしないのです。ですから、「主」という言葉におきかえて読んでいたのです。モーセに神が現れた時に神はご自分の名を明らかにしないで、「わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自分を紹介しているのです。それでモーセは「イスラエルの民に『あなたがたの先祖の神がわたしをあなたがたのとろへつかわされました』というとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えま しょうか」と神に尋ねるのです。「あなたの名前はなんですか」と聞くわけです。それに対する神の答えは、「わたしは有って有る者」だと、不思議な答え方をするのです。また「わたしは有る」という者だともいいます。それが後にヤハウェという名前になったのだろうとも言われているのです。また別のところでは、サムソンの父マノアが主の使いに対して「あなたの名はなんというのですか」と尋ねますと、「わたしの名はは不思議です。どうしてあなたはそれを尋ねるのか」叱られてしまうところがあります。またヤコブがヤボクの渡しのところで、神の使いの者と相撲を取って勝った時に、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」といいますと、「なぜあなたはわたしの名をきくのか」と叱られます。この二つの場合は神ご自身ではなく、神の使いの者に対して名を聞いて叱られるわけですが、それにしても神の名をわれわれが知ることは許されないようであります。相手の名を知るということは、相手をやがて支配してやろうという気持ちがあるからのようであります。ですから、神の御名といっても、神ご自身をあらわすといってもいいと思います。
 主の祈りの冒頭は「父よ、御名があがめられますように」という祈りから始められております。これはわれわれが唱える祈りの「主の祈り」の言葉は「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ」になっております。崇めるというのは、聖とするという意味です。つまり神を聖なる者として奉るという意味です。しかし神を聖なるかたとして奉るということは、われわれが神の聖、神の聖さに何かわれわれ人間が聖をまし加えるというようなことを祈り願うのではないのです。そのためにわれわれが礼拝する会堂を何か聖なる、神々しい会堂にするとか、音楽を荘厳にして神々しい雰囲気を作りあげるとか、そういうことが神を崇めるということではないのです。われわれが神を神として奉るということです。ですから、この場合、「御名」というのは、神の名前というよりは、神ご自身ということを指していると思われます。それは神以外のものを、人間を神として奉らないということ、独裁者を作らないということであります。そしてまた自分たちの生活のなかでも、自分を神としないということです。他の人間を、そればかりではなく、自分自身を神にしないということです。われわれ が神の前にひれ伏す生活をしていけますように、という祈りであります。それがわれわれを正しく活かす道なのです。われわれを幸福にする道なのであります。だから主イエスは何よりもまずそのことを祈りなさいと言われるのです。

 モーセの次に指導者となったヨシュアがこれから頑なな民イスラエルをエジプトから約束の地カナンの地に導き入れるという大変重大な使命を任せられた時に、そのことで頭がいっぱいになっている時に、突然目の前に神の使いが現れました。その神の使いは、手につるぎをもっておりましたから、ヨシュアはびっくりして、「あなたはわれわれを助けるために来たのですか、それともわれわれの敵を助けるために来たのですか」と尋ねるのです。あなたはわれわれの敵か味方かと尋ねたのです。するとその人は「いや、わたしはお前を助けるために来たのでも敵を助けるために来たのでもない。わたしは主なる神の軍勢の将軍としてきたのだ」というのです。それでヨシュアは地にひれ伏した。そして「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と聞きますと、主の軍勢の将は「お前の足のくつを脱ぎなさい。お前の立っているところは聖なる所である」と、告げるのであります。ヨシュアはこれからカナンの地に入って、その住民と戦わなくてはならないわけです。その時に神はまずヨシュアを神の前にひれ伏せさせているのであります。そのつい前には、主なる神はヨシュアに現れて、「わたし はお前をどんなことがあっても守る、助ける、お前の味方である、だから何ものをも恐れるな」と励ましたばかりなのです。しかしここでは、神は主の軍勢の将を彼に派遣して、「わたしはお前の味方でも敵でもない、お前の前に聖なる者として立つのだ、だからお前はなによりも自分の足からくつを脱いで、聖なるかたの前にひれ伏せ」といわれるのです。お前はまず神を神として奉れというのです。それが「わたしがお前の本当の味方でなのである」ということなのだと告げるのであります。そうでないと、ヨシュアは自分の浅はかな思いで人を敵か味方とにわけてしまうからであります。なんでも自分中心にものごとを判別し、判断することになってしまう、それは結局は自分自身を神にしてしまうことなのであります。そうするな、と神は言われるのです。主イエスは、そのためにまず祈る時には、「御名を崇めさせ給え」と祈りなさいとわれわれに教えられるのであります。

次に「御国がきますように」と祈りなさいと主は教えられます。ルカによる福音書には、われわれが祈る「主の祈り」の第三の祈り「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りはないのです。しかし「御国がきますように」ということは、われわれが死んでからいく天国という意味での御国ということではないのです。聖書でいう「国」という字は、むしろ「支配」という意味だということであります。ですから、「御国がきますように」という祈りは、「神の支配がこの地上にも行われますように」という意味の祈りであります。ですから、この祈りはわれわれが祈る「主の祈り」の第三の祈り「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りと内容的には同じなのです。それでルカはこの第三の祈りは省いているのかもしれません。
 主イエスは、弟子達を宣教に遣わす時に、「『神の国は近づいた』と宣べ伝えよ」とは言われましたが、「神の国を建設しなさい」とは言われなかったのです。神国はイエス・キリストがこの地上にいらした事によって、もうすでに来ているのです。それを宣べ伝えなさいとイエスは弟子達に命ぜられたのであります。神の国はもう来ているのです。それは主イエス・キリストによってもう来ているのです。主イエスは「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と言われるのです。神の国、つまり神の支配、それはつまりは神の意志ということであり、神のみ心ということであります。その神の支配、神の御心はイエス・キリストにおいて明確に示されているのであります。
 主イエスは十字架につく前に「どうぞこの杯、つまり十字架で死ぬということですが、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころがなるようにしてください」と祈りました。そうしてイエスは十字架の道を歩まれ、十字架で死ぬのであります。つまり、神のみ心はあの主イエス・キリストの十字架の死においてもうすでに明確に示されたのであります。ですから、「み心がこの地上においてもなさせたまえ」という祈りは、神のみ心が主の十字架において示されたことを信じさせてくださいという祈りでもあります。
 
 そうしてもう一つのことは、その神のみこころがこの地上において行われるということは、具体的には、われわれ人間を通して起こることなのです。それは肉体をもってこの地上に来られたイエス・キリストにおいて起こったことであるし、これからも具体的には、教会を通して、つまりはわれわれを通して、あの人この人、そして自分自身を通して起こることなのであります。パウロは「今わたしはあなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」といっているのです。それはキリストの苦しみが足りないから、それを自分の肉体をもって補うという意味ではないのです。キリストのあの十字架の苦しみを福音を宣べ伝えることによって、自分の肉体をもって具体化するのだということであります。
 ですから、この「御国がきますように」という祈り、内容的には「神のみ心がこの地上でなりますように」という祈りは、本当はわれわれが気楽に祈れない祈りではないかと思います。たとえば、われわれは世界平和を祈る意味で、われわれ人間が戦争をやめ、憎しみ合うことをやめて、神のみ心がこの地上で実現しますようにと、われわれは気楽に祈る場合がありますが、しかしこれは本当はその平和はわれわれの肉体を通して実現されていくことなのだとわかりますと、なかなかそう気安くは祈れないのです。しかもその神のみ心はあのイエス・キリストの十字架において示されたみ心だということになりますと、われわれは気楽には祈れなくなるのではないかと思います。今エルサレムで起こっているイスラエルとパレスチナとの憎しみあいを考えてみましても、そういう中で祈る時には、自分が相手の憎しみを赦すという覚悟がなくては祈れない祈りなのです。そのように祈る人の肉体を通して神のみこころがなるようにという祈りだからであります。
この地上が罪と悪の支配している世界であるならば、その地上に神のみこころが行われるのは、相手の悪に対して復讐しない、相手の罪を赦すという苦しい厳しい闘いを通して、その苦難を通して起こる以外にないことなのであります。それは自分の罪との闘いを通して神のみ心が行われることなのであります。それはまた罪という言葉を使わなくても、自分の思いとの闘いを通してということでもあります。自分が考えている正義ということ、自分が考えている愛ということ、善ということ、あるいは平和ということ、それは神のみ心とは違うかもしれないのです。イエス・キリストも十字架を前にしては、「この杯をわたしからとりのけてください」と祈らざるを得なかったのです。しかし「わたしの思いではなく、み心がなりますように」と祈っているのであります。イエス・キリストにとっても、イエス・キリストの思いと父なる神とのみ心とは違っていたかもしれないのです。それでイエス・キリストは「わたしの思いではなく、み心がなりますように」と祈っているのです。神のみ心がこの地上において起こるということは、そういう自分との闘いを通して起こることなのです。そのように、神の み心はいつも具体的には、そのように祈る人を通して起こるということを考えますと、この祈りは気楽には祈れなくなるのではないかと思います。
 自分の子供が病気になったときに、神のみこころがなりますようにとは、われわれは祈れるでしょうか。なんとしてでも、病気をなおしてくださいと祈るのではないでしょうか。それをあなたのみ心にしてくださいと、こちらの願いを神に押しつけるのではないでしょうか。それは「あなたのみ心を曲げてでも、子供の病気をなおしてください」という祈りになるのではないかと思います。
 しかしどんなにそのように祈っても、子供の病気は治らないで、天に召されてしまうかもしれない。その時に、ただ一つの慰められる道があるとしたら、この子供の死が神のみこころだったのだと受け止め、信じる以外にないのではないかと思います。それ以外にどんな慰めの言葉も、慰めにはならないのではないかと思います。ですから、「み心がなりますように」という祈りは、すべてのことにおいて、あなたのみ心が働いていたのだと信じられますようにという祈りでもあると思います。