「主の祈り その二」   ルカ福音書十一章一ー一三節

 主イエス・キリストがこのように祈りなさいと教えてくださった祈りの後半部分は、われわれ人間が一番必要としていることを求めなさいという祈りであります。まずわれわれが生きるにあたって、一番基本的になるパンの問題であります。「わたしたちの日毎の食物を日々お与えください」という祈りです。その次にわれわれ人間が人との関係、人間関係において一番基本になる「赦し」の問題であります。「わたしたちに負債のある者をゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」という祈りであります。そうして、われわれが生きる時にいつも不安を感じているわれわれの生存をおびやかす人間を超えたところから来る試み、誘惑といってもいいかもしれません、もっとはっきりいえば、「悪魔の誘惑に会わせないでください」という祈りであります。
まずパンの問題であります。ここのところは、新共同訳聖書ではこうなっております。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」となっております。口語訳の「日毎の」という字は、新約聖書ではここにしか使われていない字で訳すのに苦労する字なのだそうです。ですから、「日毎の」と訳したり、「必要な」と訳したりしているようであります。われわれが生きるにあたって一番大切なのはパンであります。それを与えて下さいと祈りなさいとイエスはわれわれに教えるのであります。マタイによる福音書では、「今日与えてください」と祈りなさい、といっているのに対して、ルカ福音書では「日々、毎日」お与えくださいと祈りなさい、となっているのです。ルカ福音書は今までもみてきましたように、マタイに比べるとずって庶民的というか、われわれの現実の生活に密着して福音を語ろうとしています。それに比べるとマタイのほうがどちらかというと精神的にいわば、高尚に語ろうとしているところがあります。われわれは今日パンを与えられるだけではやはり不安なのです。明日のパンも心配なのです、いや明日も明後日も心配なのです。明日のパンが与えられるという保証がなければ 、今日今目の前にあるパンも安心して食べられないのではないかと思います。だから、ルカは「今日のパンだけでなく、日々、今日も明日も毎日与えてください」と祈れとイエスはわれわれに教えられたのだとルカは受け止めているです。
イエスが「パンを与えてください」と祈りなさいとわれわれに教えておられるのです。あの荒野での悪魔の試みに会われた時に、悪魔はまずイエスを「この石に命じてパンにしてはどうか」という試みが一番初めの試みでした。その時はイエスは四十日断食をした後だったのですから、パンを切実に必要としていた時です。そこを悪魔に誘惑されるわけです。「お前が神の子なら、この石に命じてパンにしてはどうか」というわけです。その時イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と言われたのです。その時にはイエスは「人はパンだけで生きるものではない」といわれて、まるでパンなんかなくても生きていけるんだと言わんばかりのことを悪魔にいうのです。そのイエスがここでは、われわれに「われわれに必要なパンを毎日与えてくださいと祈りなさい」と教えておられるのであります。それはイエスだけは神の子だから特別で、パンなんてなくても生きていけるけれど、われわれ人間はやはり人の子だから、なんといっても弱いだらしのない者だから、パンがないと生きていけないし、ただ肉体的に生きていけないだけでなく、心も卑し くなってしまうから、神様にそれを求めなさい、と勧めているのでしょうか。ある意味ではその通りだと思うのです。今の時代は飽食の時代で、パンの問題はそれほど切実でないかもしれませんが、われわれの世代はあの終戦後のパンのない時代に生きてきた者にとっては、この祈りは切実であります。それならば、今はこの祈りは祈らなくていい祈りなのでしょうか。われわれは確かに今日のパンは確保できるという安心感をもって生きておりますが、われわれの心のどこかには、明日のパンは本当に保証されるのかという不安をやはりもっているのではないかと思います。今日のことはある程度目安が立つけれど、明日のことはわからない、だからわれわれは明日の命のことで本当に思い煩うのです。そういうわれわれの弱さをルカは見抜いて、「わたしたちの日毎の糧を日々、毎日、今日だけでなく、明日も明後日も与えてくださいと祈りなさい」と、イエスはわれわれに教えられたのだと記すのであります。
 われわれは「主の祈り」で、そのように「わたしたちの日毎の糧を日々お与えください」と祈ったからといって、パンの問題は神様が与えてくださるのだから、もう後は何もしないで、パンが天から降ってくるのを待っているわけではないだろうと思います。そのように祈りながら、われわれはもちろん、パン屋さんにいってパンを購入しにいくわけです。そしてその前にそのパンを買うお金を稼ぎにいくわけです。パンを買うためにわれわれは努力するわけです。それは自分で手に入れたパンであります。われわれが食べるパンはいつだって自分の努力で手に入れたパンであります。あるいは、場合によっては人の親切で与えられたパンであります。しかしわれわれ信仰者は、それを神様が与えて下さったパンとして受け止めるのではないでしょうか。確かに自分が働いて得たお金で買ったパンかもしれないし、他の人の親切で与えられたパンであります、しかしそれはその背後に神の配慮があって、神によって与えられたパンなのだということをわれわれは信じているのです。ですから、われわれは食事の前に神に感謝の祈りを捧げているのではないかと思います。つまりこれは何もパンの問題だけでなく 、われわれが毎日毎日このように生きているのは、ただ自分の努力によって生きているのではない、神さまによって生かされて生きているのだということを信じて感謝し、信じさせてくださいという祈りなのです。この目の前にあるパン、これは自分の努力で得たパンであるかもしれないし、他の人の親切によってもたらされたパンであるかもしれない、それを神によって与えられたパンとして信じるのであります。そういう信仰があるときに、われわれは明日もあさっても神様はパンを与えて下さるに違いないという確信をもって生きることができるのであります。そうすると、われわれは自分の命のことで思いわずらうことから解放されるのではないかと思います。
 イエスが荒野の誘惑で、悪魔の試み、「もしお前が神の子ならば、この石に命じてパンにしてはどうか」という試みをしりぞけて、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きるものである」と言われました。それは、イエスは自分は神を信じて生きているのだから、何も食べなくても平気なんだ、神の言葉さえあれば生きていけるのだ、ということを言おうとしたわけではないのです。もし、そうであったとしたら、弟子達にまず「パンを与えてください」と神に祈れと教える筈はないのです。それはイエスにとってもパンが切実に必要であることをよく知っているからこそ、われわれにそう祈れと教えられたのです。あの時イエスが悪魔の試みを退けたのは、自分の力で石に命じてパンにしてみせて、それで自分の飢えを満たす、そういう生き方をイエスは退けたのであります。自分は神の子だからこそ、自分の力で、つまり神に祈ることをしないで、自分の力で直接石に命じてそれをパンにして生きるなどということはしない、自分は神の子だからこそ、神を信じて神の口からでる言葉によって生きるのだと言われたのです。ここでイエスは悪魔の試みに沿うようにして 、パンを手に入れ、パンを食べようとはしなかったということであります。このときイエスは悪魔に対してわたしはこのように祈るのだ言って、「わたしたちの日毎の食物を、日々お与えください」と祈り始めたかもしれないのであります。
 この時イエスが「人はパンだけによって生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ」という言葉を引用して、悪魔の試みをしりぞけましたが、その言葉は旧約聖書の申命記にある言葉で、イスラエルの民がエジプトから出て、荒野をさまよっていた時に食べるものがなくなってしまってモーセに文句を言い出した時に、モーセが神に祈った時に、神はマナという不思議なパンを天から降らせて民を養ったという出来事を記した記事であります。そのマナというのは、樹木に朝露のように固まる密のようなものだったようであります。そのマナはまるで神様が天から降らすようなものだったのです。そして神はそれは今日一日分だけ取りなさい、欲張って明日の分まで取って保存するなと言われたのです。その日その日、神が与えるそのマナによって生きなさい、それが神の口からでるひとつひとつの言葉によって生きる、ということの教えだったのです。つまり神は飢えたイスラエルの民に飢えたままにさせて、「人はパンだけによって生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言葉によって生きるのだ」と教えられたのではないのです。パンを与えることによって、しかも そのパンはその日その日に与えられることによって、「人はパンだけによって生きるものではない、神の口からでる言葉によって生きるのだ」ということを学びなさいといわれたのです。それをイエスは引用しているのであります。ですからこのイエスの言葉は、パンがわれわれには必要ないというのではないのです。
 イエスが教えて下さった「主の祈り」は自分で手に入れたパンを食べながら、このパンは神が与えて下さったパンだと受けとめて食べられるようにしてくださいという祈りであります。そのようにわれわれが祈れるようになりますと、われわれは命のことで思い煩い、明日のことを思い煩うことから解放されるのではないでしょうか。
次にイエスは「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」と祈りなさいと教えます。この箇所の説明で竹森満佐一が紹介しているエビソードをやはり紹介したくなります。それはこういう話です。第一次世界大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の聖日に、ある町でこわれた会堂の中で礼拝が行われた。いつものように「主の祈り」を祈る時になって、この箇所のところに来ると、みな黙ってしまったというのです。そのとき、みんなの者がドイツ人が自分たちに対してしたことを思い出していた。それを考えると、とてもゆるす気にはなれない。だから、だれも「われらがゆるすごとく」とは言えなかった。しかし、少し時がたつと、だれからともなく「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく」と祈りつづけたというのであります。
 今起こっている中東問題、イスラエルとパレスチナの憎しみ合いの問題は、泥沼状態に陥りつつあります。この問題はどこかで、この祈りが祈れるようにならなければ、結局は解決がつきようがないことがわかります。そしてこれはもう自分たち自身から相手を赦すということは到底不可能でしょうから、第三者が入ってやめさせる以外にないようであります。第三者の手を借りて、強制的に相手をゆるすところにもっていく以外に解決のしようはないわけです。そんなことでは本当の赦しにはならないといわれるかもしれませんが、しかし結果的には、客観的には、この主イエスが教えられたこの祈りによる祈り以外に、解決のしようがないのではないかと思われます。
 この祈りでいつも問題になるのは、「わたしたちに負債のある者をみなゆるしますから」という言葉であります。マタイでは「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」と、もうすでに「赦しましたから」となっているのであります。ルカのほうは、「赦しますから」という決意になっておりますけれど、マタイのほうは「もう赦しましたから」というすでに行われたことになっているのであります。まるで神から赦されるための条件としてこのことがあるようなのです。これはわれわれが神から赦されための条件なのでしょうか。イエス・キリストの十字架の罪の赦しは、われわれが人の罪を赦したら、赦してもらえるというようなものではない筈であります。むしろ、われわれが人の罪を赦せない、そういうわれわれのためにイエス・キリストが無条件でわれわれを赦してくださったという赦しであります。それならば、このようにイエスが祈りなさいというのは、どういうことでしょうか。
 これはイエスが弟子達に対して、こう祈りなさいと教えられた祈りであります。この時にはまだイエスは十字架にはついてはおられない時でありますが、しかしイエスはもうそのことは知っていて弟子達にこの祈りを教えておられるのであります。つまり、弟子達はイエス・キリストによってすでに無条件の罪の赦しを受けている者たちであります。弟子のひとりのペテロが「人を赦す時には幾たび赦さねばなりませんか、七度までですか」とイエスに尋ねた時に、イエスは「七度を七十倍赦しなさい」といい、あの一万タラントの負債を赦された者の話をするのであります。ある人が一万タラントの負債を返せなくて、もう少し待ってくれと訴えると王は、哀れに思ってその負債をすべてゆるしあげるのであります。ところが一万タラント赦された者はその帰り道に自分がたった百デナリ貸している者に出会ったところ、彼がその百デナリを返すことが出来なかったので、その者を獄に入れてしまった。それが王に伝わり、お前は一万タラントを赦されておりながら、どうして百デナリの負債を赦してあげられなかったのかと怒り、彼を獄に入れてしまったという話であります。そしてイエスは結びの言葉と して、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対してもそのようになさるであろう」というのであります。つまりわれわれが人の罪を赦すことができるのは、また赦さなくてはならないのは、自分自身が一万タラントという膨大な負債を神によって赦されているからなのであります。自分が人の負債を赦しますからとか、赦しましたから、というのは、われわれが神から罪を赦される条件なんかでは決してないのです。神によって無条件に罪ゆるされたことを知っている弟子達に、イエスはこう祈りなさいと教えられたのであります。
 それは、自分の犯した罪が神によって赦されて救われた、そしてその赦しに感謝して、洗礼を受けてクリスチャンになった。だから今度からは、人の罪をゆるせなくては、神の赦しをうけられないぞ、ということでもないのです。つまり、キリストの十字架の無条件の罪の赦しは、われわれが救われるまでの罪なのであって、キリストの救いを知ったあとの罪については、適用されないのだということではないのです。キリストの十字架の罪の赦しというのは、そんな条件がついているのではなく、今までの罪も、今犯す罪も、これから犯すかもしれない罪も、すべてを含めての罪の赦しなのであります。つまり、それは個々の罪の赦しというよりは、そういう罪を犯してしまう私という人間そのものに対する罪の赦しなのです。罪人であるわたし、これからも罪をおかし続けるに違いない罪人の赦しなのです。そうしてわれわれが人の罪を赦せるようになるのは、自分の罪が赦されたのだ、そして赦されているのだ、そしてこれからも赦されるのだ、という確信があって、始めて人の罪も赦せるようなるのです。それ以外に人の罪を赦せる力はどこからもわいてはこないのです。自分が赦されている、そのこ とに感動した時に始めて、人の罪も赦せるのです。あの一万タラントの負債を赦してもらった者は、それが赦された時に、恐らくひとつも感動などしていないのです。ただしめた、これはもうけものをしたと思っただけだったろうと思います。だから、彼はそれを罪の赦しとはひとつも受け止めていないのです。
ですから、「わたしたちに負債のある者を赦しますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」という祈りは、わたしたちがキリストの十字架の罪の赦しを一層信じさせてくださいという祈りなのだとある人は言っております。それはわれわれが人の罪を心からゆるせるほどに、私自身があなたから赦された者であることを信じさせてくださいという祈りであります。
 ここでは罪のことを負債と言っております。罪というのは、単なる自分の心の状態などということではないのです。もっと客観的なもの、もう具体的に人に傷を与えてしまうというものであります。そしてそれを負債として表現しておりますから、本来なら返済という形で償いが要求されるものであります。罪が単なる自分の内面の心の状態というのならば、なにか自分ひとりで悔い改めたらそれでなくなるものかもしれませんが、しかし負債であるかぎり、返済という形でつぐないをしなければならないものであります。しかしこれがお金の借金というものであるならば、返済ということで、つぐなうことができるものでありますが、これはお金ではないのです。ルカが「主の祈り」の中で、この負債という言葉を次には罪という言葉で置き換えているのです。これは罪というものの性格をよく語っていると思います。つまり罪は本当は返済という形で償わなければならない客観的なものであると同時に、借金というお金とは違って、これは罪なので、罪は一度犯された罪はどんなに逆立ちしてもつぐなうことはできないもので、ただ赦していただく以外にないものなのであります。だから、神に「わたした ちの罪をおゆるしください」と祈りなさいと勧められているのであります。