「求めよ、門をたたけ」 ルカ福音書十一章一ー一三節

 主イエスはこう祈りなさいと、いわゆる「主の祈り」を教えられたあと、五節をみますと、こう言われるのであります。「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から『面倒をかけないでくれ、もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいつているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』というであろう。しかし、よく聞きなさい。友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起きあがって必要なものを出してくれるであろう。そこでわたしはあなたがたに言う、求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。すべて求める者は与えられ、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」というのであります。
 このイエスのたとえ話は、友人という特権意識というか、甘えでもって、何かを頼んでも、聞いてくれないだろう、もうそういう友人関係とかという特権意識を捨てて、本当に困窮にある者として求めたら、彼はこちらの願いを聞いてくれるだろうということであります。八節にある「しきりに願うので」というのは、ただ「熱心に」という意味ではなく、しつこく、あつかましく、恥知らずに、という意味をもった言葉だそうです。これは決して高尚な意味ではないのです。厚かましいほどに執拗にという意味であります。いわゆる宗教的な熱心さというような高尚なことではなく、ルカによる福音書は常に庶民の立場から書いておりますが、本当に困った者が必要なものを求める姿勢でという意味の「厚かましいほどにしきりに願う」ということであります。
 ここで八節に「友人だからというのでは起きて与えないが」とありますが、この「友人だから」というのは、五節にある「友よ」という呼びかけをさしている言葉であると思います。つまり友人という甘えから当然のようにして何かを頼む、それはしばしば頼むのではなく、いつのまにか、要求のような頼みかたになってしまうのであります。それをさしている言葉のようですが、わたしはいつもここを読むときに、こういうふうにも読めないだろうかと思ってしまうのであります。それは自分が今切実にパンを必要としている、というのではなく、友達が尋ねてきて、そしてその友達に出すパンがないから、そのパンをくれ、というのでは起きてくれない、しかし友人が尋ねて来たからなどということではなく、自分自身があるいは自分の家族が今食べるものがなくて困っている、そうでないと、起きてきてくれないだろうといっているのではないか、と考えてしまうのであります。 しかし、どんな注解書をみてもそういう解釈はないので、これはわたしの一人勝手な読み込みかとも思います。しかし、主イエスは「主の祈り」のなかで、「わたしたちの日毎の食物を日々お与えください」と祈りなさいと 教えておられるのです。そこでは、友人とか隣人のためのパンを求めなさいとかということではなく、何よりも自分自身がパンを切実に必要なのだから、それを祈り求めなさいと教えておられるのであります。それを受けてここでも、友人のためのパン、隣人のためのパンなどというような聞こえのいいことではなく、何よりも自分自身が本当にパンがなくて困窮しているのだ、そのことに気づいて、それを切実に求めなくてはだめだ、祈りというのは、決してきれいごとではなく、そのように切実な求めなのだ、と主イエスはここで教えられているのではないかとわたしは思ったのであります。
 しかしまたここはすぐその前には、隣人を具体的に愛するという、あの「よきサマリヤ人のたとえ」に続いての話でありますから、われわれは隣人の困窮にどれだけ熱心になれるかということがここでも問われているのだという人もおります。食べるものがないといってパンを求めてきた友人、隣人の困窮にどれだけわれわれが熱心であるか、ということが問われているだというのです。自分のパンの問題ならば、あつかましいほどに熱心になれるけれど、果たして隣人のパンの問題にどれほど熱心になれるかということであります。だから、ここでは、自分のパンの問題ではなく、隣人のためのパンについて、われわれはどれだけあつかましいほどに熱心に求めてあげられるか、祈りというのは、自分の利益のための祈りではなく、他者のための祈りなのだということをイエスはここで教えておられるのだと説明する人もおります。
 しかし、ここをそのように解釈しますと、やはりここで聖書が一番言おうとしているところをぼかしてしまうのではないかと思います。ここは隣人に対する思いやりが問題なのではなく、どれだけわれわれが切実に、自分の問題をかがけて神に祈っているか、祈るかということが問題となっているところなのです。ですから、九節から「そこでわたしはあなたがに言う。求めよ、捜せ、門をたたけ」と主イエスはわれわれに命じるのであります。求める、という場合、それは何よりも自分自身のことなのです。自分の救いのことなのです。あるいは自分自身の今日明日のパンの問題なのです。友達の救いのこと、隣人の救いのことなどではないのです。何よりもここで求めなくてはならないのは、自分自身の救いの問題なのです。自分が今一番パンを必要としている人間であること、自分が今神の救いを切実に必要としている人間であることを知らなくてはならないのです。 隣人の救いの問題、友達の救いの問題ならば、多少神様に甘えて、何か少し自分が偉くなったような顔して、隣人と神様との仲介役のような顔して、とりなしができるかもしれません。しかし自分が今切実にパンを必要としている問題 、自分が救われるかどうかという問題ならば、もうそんな特権意識とか甘えとかかなぐり捨てて、自分が裸になって、あつかましく、いわば恥も外聞も捨てて、「しきりに願う」者として神に祈り求めることになるのでないかと思います。
 祈る時には、神との特権意識を捨てなくてならないのです。イスラエルの民が失敗するのは、この特権意識であります。自分は特別に神に選ばれた民だという選民意識、特権意識であります。それを捨てなくてはならないのであります。

ルカによる福音書では、もう一つ、「しきりに願いなさい」ということを教えているところがあります。それは一八章にあるのですが、「イエスは失望せずに常に祈るべきことを教えられた」というところであります。ある町に神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところがその同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」と願い続けた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた。「わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう。」というたとえ話をするのであります。そして、「この不正な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」というのであります。
ここでは主イエスは、「失望せずに常に祈る」ことを教えるために、なにかわれわれを驚かせるようなたとえしているのでありす。それはまるで神さまを不正な裁判官とまるで同じようにしてたとえているからであります。失望せずに祈るということは、このやもめのように「しつこく熱心に祈る」ということなのだ、そうしたら、不義な裁判官ですら、動かすことができるというのであります。もちろん、神様と不正な裁判官とは違うのです。ルカ福音書も「まして」という言葉をもって、そのことを表しているのです。「まして神様のほうは日夜救いを叫び求めるわれわれのために、初めから神様はわれわれの叫びを聞いておられる、そして正しい裁きをなさろうとしておられるのだから、その神さまに信頼して失望せずに常に祈りなさい」と教えておられるのであります。不正な裁判官ですら動かすことができるのだから、つまり不正な裁判官ですら、望みをもつことができるならば、まして正しい裁きをしてくださる神様にはもっと信頼して、失望せずにに祈れるではないかということをイエスは教えようとしておられるのであります。
 このやもめがどうしてこれほどまでにしつこく祈るのか、それはこのやもめのおかれている困窮さであります。なんとしてでも自分の訴えを聞いて欲しいという、そのやもめのおかれている立場であります。もう恥も外聞もないほどにこのわたしを救って欲しいという叫びであります。それがしつこさを生み、熱心さを生んで、不正な裁判官を動かすのです。自分は救ってもらう価値があるとか、権利があるとか、そんな傲慢不遜な意識はみじんもないのです。神様は愛のかただからわたしの困窮をこちらが訴えるより先に知ってなんとかして下さるはずだなどという甘えもないのです。何よりも今自分は救っていただきたい、パンがなくて困っているのだ、という率直な訴えであります。十一章にもどりますが、ここで「友よ、パンを三つ貸してください」という訴え、パン三つというのは、一度に食べる必要最小限度のパンの量だそうです。つまりこれは御利益主義的な祈りというような強欲な祈りではないのです。あれも欲しいこれも欲しいという御利益的信仰の祈りではないのです。なんとしてでもわたしを救ってくださいという祈りであります。
 われわれはそういう祈りをしているか、ということなのです。われわれはもちろん人前で祈る時には節度をもって祈らなくてはならいと思います。しかしひとりで祈る時に、神様に祈るときに、われわれは「友達だから」とかといういっさいの特権意識とか甘えを捨てて、助けを求める者として裸になって祈っているかということなのであります。
もちろん、われわれは今日パンの問題でこれほど切実に神様に祈ることはしないかもしれません。やはり神に祈る時には、いわばもっと精神的な魂の問題を祈るかもしれません。しかしその精神的な魂の救いの問題を、今日食べるパンがないのだというほどにせっぱつまったものとして、神に求めているだろうかということなのであります。
九節からは、そのことを主イエス・キリストは言われます。「求めよ、捜せ、門をたたけ」と言われます。マタイによる福音書では、「聖なるものを犬にやるな。豚に真珠を与えるな」という言葉に続いて、「求めよ、捜せ、門をたたけ」と、続いておりますので、ここで言われている「求めよ」ということは、その聖なるものを神に求めよということになると思います。しかしルカによる福音書は「パンを求めよ」ということに続いて、「求めよ、捜せ、門をたたけ」というので、ここでもルカによる福音書の庶民的なところが伺われるのかもしれません。ただ魂の問題、精神的な救いの問題だけでなく、もっとわれわれの日常的な問題、パンの問題を初めとして、われわれの日常的な生活の問題を神に祈り、神に求めなさいと教えるのであります。そしてこう主イエスは言われます。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる。あなたがたのうちで、父である者はその子が魚を求めるのに、魚の代わりにへびを与えるだろうか。このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物することを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めてくる者に聖 霊を下さらないことがあろうか」というのであります。ここはマタイによる福音書では、「このようにあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあろうか」となっております。ルカによる福音書は、ずばり「聖霊」といっているのであります。ある意味では、マタイによる福音書は、精神化する傾向にあります、たとえば、ルカが「貧しい者はさいわいである」というところを、マタイでは「心の貧しい者はさいわいである」と、いわば精神化しておりますが、おもしろいことに、ここではルカのほうがもっと精神化というか、信仰的なのであります。われわれにとって一番もっとも必要なのは、聖霊なのだというのであります。聖霊というのは、神の働きといってもいいと思います。われわれの庶民的ともいえるパンの問題、日常生活のこまごまとした訴え、それにもっともよい現実的な応えは、神が与えてくださる聖霊なのだ、神がわれわれの日常的な問題にまで聖霊をもって働きかけてくださるという信仰をもつこと、その信仰をもって神に熱心に祈ることが大切なのだというのであります。
どんなに悪い父親でも子供の要求に応えて良い贈り物をしてくれるというのであります。魚を求めるのにへびを与える筈はないというのであります。しかし悪い父親であったならば、子供が高価なおもちゃが欲しいとか、食事の前におやつが欲しいといった時に、そのまま与えるかもしれませんが、その父親が本当に子供のことを思う良い父親であったならば、子供の要求通りのものをそのまま与えることはないかもしれません。その子供の要求のうらにあるものというか、その心の奥底にあるものまでもくみとって、今その子供に何が必要かをその子供の求めに即して与えるだろうと思います。それがここで「聖霊を与えてくださる」という主イエスの言葉であります。マタイによる福音書によれば、「なおさら良いもの」ということであります。よく言われることですが、聞かれない祈りの中にこそ、われわれにとって、神がもっともよいものを与えてくださっているということであります。なにかそんなことを言われてしまうと、はぐらかされたり、ごまかされたりされたような気持ちになりますが、ですから、あまり安易にこんなことは言いたくはないのですが、しかしこの事は確かに正しいことであ ります。パウロが自分の病をなおしてくださいと必死に祈った時に、神はそのパウロの病をいやしてくださらないで、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力はあなたの弱いところにこそ現れる」という答えを得て、パウロは「わたしは弱い時にこそ強いのだ」という信仰を得て立ち上がったのであります。ですから、聞かれない祈りにこそ、神の恵みあふふる回答があるのだということは真実だと思いますが、しかしそこまで至るまでは、われわれのほうで必死に神に祈りつづけなくてはならないのだと思います。この言葉は安易に使うべきことではないと思います。
天の父は求めて来る者に聖霊というわれわれにとって一番必要な強力な贈り物を与えてくださるというのであります。だからわれわれは神を信頼して率直に神に祈り求めたいと思います。