「悪霊を追い出すイエス」  ルカ福音書十一章一四ー二八節

 今日の聖書の箇所は、主イエスが悪霊を追い出しているところから、それをめぐっての話であります。イエスがおしの霊を追い出していた。「おし」というのは、今日では差別用語になりますので、新共同訳聖書では、「口を利けなくする悪霊」となっております。ともかく主イエスが活躍していた時代には、口が利けないとか、目が見えないとか、あるいは、何か普通でない行動をする人を見ると人々は悪霊にとりつかれていて、そうした悪霊が悪さをしてそのような病気になったのだと考えていたわけであります。もちろん今日そのように考える人はいないと思います。ただ今日では、別の意味で案外今の若い人は、悪霊の存在、とか悪魔の存在というものを信じているようなところがあります。そのようなことを主題とした映画や小説が流行しているのであります。それはわれわれの生きているこの世界は、何か人間の力を超えたものが働いているのではないかという不安がそうさせているのではないかと思います。この世界のことをすべてを合理的に科学的に割り切れるものではないことをわれわれはなんとなく感じているのであります。
 われわれは今日聖書に書いてある通りのような形で、悪霊とか悪魔の存在を信じることはもうできないし、信じる必要もないと思いますが、つまり悪魔が口を聞いて何かを誘惑したり、試みたりするとか、あるいは口の利けない人とか目の見えない人を、彼は悪霊にとりつかれているのだというように見ることはできませんし、また見てはいけないと思います。しかし聖書が悪魔とか悪霊ということで何をわれわれに伝えようとしているかということは、考えておかなくてはならないと思います。

 悪霊とか悪魔の存在を全面的に否定できないのは、われわれ人間の心を支配しているのは、ただわれわれ自身の意志とか決断ではないのではないかという実感がわれわれにはあるからであります。われわれはそれほど自由ではないということであります。罪を犯すといっても、われわれは全く百パーセント自分の自由意志で罪を犯すというよりは、魔がさしてしまったというような表現で罪を犯してしまう、あるいは、そんな無責任な言い方ではなく、もっと何か強烈な力が自分の心の内部に働いていて、それが自分の意志を踏みにじり、われわれを動かして罪を犯させる、そういわざるを得ないというのが罪を犯したわれわれの気持ちではないかと思います。
 ある意味では、人間は大変弱い存在で、可哀想な存在で、どんなに罪を犯してはいけないといっても、人間は罪をおかさないわけにはいかない、それはその人間の心の何かに住み着いている悪霊によって、やむをえず、罪を犯させられているものなのだ、だから悪いのはその悪霊なのであって、その悪霊を人間の心の中から追い出してあげなくてはどうにもならないのだということであります。
 
 そして聖書をみますと、人間の罪の問題に対して二つの見方があるのではないかと思います。一つは人間は自分の意志で罪を犯すのであるということであります。だからあくまでその責任はわれわれ人間にあるという考えであります。もう一つのことは、人間にはそんな主体的な責任はないのであって、人間は可哀想な存在で、悪霊に縛られているのであって、その悪霊が人間に悪さをしてるのであって、われわれ人間にはそういう意味では罪に対する責任能力はないのだという見方であります。
 これは必ずしも罪に対する別々の二つの見方というよりは、この二つが組み合わされているようであります。創世記にでてきます、アダムとエバが罪を犯す時にも、彼らは初めから自分たちの主体的な自由意志で罪を犯すというよりは、蛇に誘惑されて罪を犯したのだと記されておりますし、またカインがアベルを殺そうとするときに、最初はカインがアベルを妬んで殺そうするのですが、そういう意味では、カインは自分の主体的な意志でアベルを殺そうとするのですが、その後、主なる神はそのカインに対してこう言うのであります。「なぜお前は憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しい事をしているのなら、顔をあげたらどうか。もし正しい事をしていないのなら、罪が門口でお前を待ち伏せている、それはお前を慕いも求めている、お前はそれを治めなければならない」というのです。この二つの記事では、神は罪を犯す人間にその責任を問うのですが、そういう意味では人間が罪を犯すのは人間の自由意志からするのだという考えがあるわけです、だから責任を問うわけです。しかし一方には、人間は人間を超えた何か悪魔的な誘惑に誘われて罪を犯してしまうのだという見方がされているというこ となのであります。しかしわれわれはその誘惑を退けることはできるし、また退けなくてはならないと見ているのであります。
 そしてこれは現在のわれわれ自身が罪を犯す時にも、それは実感されるのではないか。確かに自分の意志で罪を犯すのです。しかし同時にもう自分の意志の力ではどうにもならない力が自分を動かして罪を犯させる、そういうジレンマをわれわれは痛切に感じているのではないか。

  悪魔と悪霊とどう違うのでしょうか。今日のテキストの箇所でも一八節では、「サタン」という言葉が出てまいりますから、サタンと悪霊とはそれほど明確には区別はつかないかもしれません。しかし聖書の悪魔と悪霊の使いかたからすると、何か悪魔と悪霊とは少し違ったものとして描いているのではないかと思います。悪霊というのは、悪魔の手下である、その悪魔の手下である悪霊が人間の心の中に入り込んでなにか悪さをすると考えられていたのではないか。それに対して悪魔というのは、神に敵対する存在であって、人間の外から人間をいろいろと試みる、誘惑する存在として考えられているのではないか。
 たとえば、イエスが宣教を開始しようとした時に、荒野にいって断食をしていると、悪魔がイエスを試みます。それはイエスの心の中に入り込んだり、住み込んだりするものではなく、イエスの外部にあって、イエスを外から試みる存在として描かれております。それに対して悪霊というのは、自分では独立して存在できないで、人間の心の内部に住み込む、まるで寄生虫のように住み込む者、悪霊というのは、寄生虫みたいな存在で、自分では自立して存在しえないものというように描かれているのではないかと思われます。たとえば、イエスがゲラサの地方にいった時に、そこに悪霊につかれた人がいて、その人から悪霊を追い出したことがありますが、その時悪霊は「自分たちを追い出さないでくれ、もし追い出すのなら、せめて豚の中に自分たちを入れてくれ」というところがあります。悪霊はどこかに住み込まないと存在できない、人間から追い出されるならば、せめて豚の中に住まわせてくれ、とイエスに頼んでいるのです。そのような存在として描かれております。今日の聖書の箇所のところで言えば二四節からみますと、「汚れた霊が人から出ていくと、休み場を求めて水のないところを歩き まわる。しかしなかなか自分たちの安住の場所がみつからないので、もといたところの家に帰ろうとすると、その家はそうじがしてある上に、飾り付けがしてあった、そこに自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れて住み着いてしまった」とあります。そこでも悪霊というのは、どこかに住み着かないと存在できない存在として描かれているのであります。それに対して悪魔のほうはもっと強力な神に対抗するようなそれ自体で自立して存在している力として描かれているようであります。
 
 そしてイエスは二○節でこういいます。ここは、イエスが悪霊を追い出しているのを見て、ある人々が悪口をいって、イエスは悪霊の親分ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ、といいますと、イエスはそんなことでは悪魔の世界のなかで内部分裂を引き起こすことになるではないか、自分は悪霊の親分ベルゼブルではない、神の子であるというのです。そうして「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである。」というのです。「悪霊を追い出す」という表現が使われております。どこから追い出すのか、それは人間の心の中からであります。そのあと、主イエスはこういいます。「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕り品を分けるのである。」というのです。このたとえの意味はわかりにくいところがありますが、マタイによる福音書に同じ記事がありまが、その記事のほうから考えますと、こういうことであります。人間というのは悪霊という強い人に縛られているのだ、そういう強い悪 霊にしばられていて、自由をうばわれ、ある人は口が利けなくなり、ある人は目がみえなくさせられ、ある人は精神がおかしくなっているのだ、そのようにして彼ら自身、自分達は世間に見捨てられ、それどころかもう神にも見捨てられているのではないと思いこんでいる、そういう人間を救うためには、まず人間を縛っている悪霊を追い出して、解放してあげなくては、人間は救われないのだということであります。わたしはその悪霊を人間の心の中から追い出すためにこの地上に来たのだ、そして現にわたしは神の指によって、悪霊を追い出しているのだから、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである、といわれるのであります。

 悪魔と悪霊の区別を厳密にすることはできませんが、しかしこういうことは言えるのではないか。イエス・キリストは人間の中に住み着いている悪霊を追い出すために来た、しかしその悪霊の親分であるかもしれない悪魔については、その悪魔を完全に滅ぼすには、終末の時まで待たなくてはならない、終末の時が来た時に、「キリストはすべての君たち、つまりこれは悪魔のことです、すべての君たち、すべての権威と権力とを討ち滅ぼし、国を父なる神に渡される。」とありますので、悪霊の親分である悪魔は、終末の時に完全に制服されるということではないかと思います。しかしわれわれの心の中に住み着いている、住み着こうとしている悪霊は、もうイエスが来たことによって、われわれの心の中から追い出されているということであります。どのように追い出されたのか、それはわれわれの心を支配しているのは、悪霊ではなく、父なる神なのだ、それを信じなさい、その神の支配を信じたら、神の国はわれわれのところに来ているのだということなのであります。
われわれを支配しているのは、悪霊ではない、神なのだということを信じていくということであります。それが悪霊を追い出すことになるのであります。われわれの中に住み着いている悪霊を追い出す追い出し方は、われわれが自分の心の中を何か一生懸命清くして悪霊を追い出すということではないのです。二四節から主イエスはこういうたとえを語ります。「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水のない所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾り付けがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中に入り、そこに住み込む、そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」というのです。これは具体的にはなにをたとえたのかよくわからないところがありますが、マタイによる福音書では、このたとえは律法学者達に対して語っておりますから、律法によって自分たちは清くなった、そういって誇っている、それが「そうじがしてある上、飾りつけがしてある」ということではないかと思います。つまり、自分の力で、自分の道徳的な精進で自分を清 らかにして、悪霊を追い出したつもりでも、いったんは悪霊は出ていくかもしれないが、そのような悪霊の追い出し方では、自分の力で自分の道徳的、あるいは宗教的な精進で自分を清くする、つまりそれが律法主義というものですが、そのような自分の力で悪霊を追い出したとしても、追い出したと思ったとたんに、自分のことを誇り出す始末で、もっと悪い悪霊が住み込むことになるぞ、というのではないかと思います。あるいは、こういうことであるかもしれません。われわれは自分の精進や努力で、自分の心の中を清くしたとしても、そんなことは長続きはしない、やがてまた挫折する時がくる、その時の挫折感のほうがもっとひどいものになるということではないかと思います。
 大事なことは、自分の力で自分の心の中を清くして、悪霊を追い出すということではないのです。どんなに悪霊の誘惑があっても、悪霊が自分の心のなかを支配しようとしても、その悪霊よりももっと強いかたが自分を支配してくれている、そういう信仰をもつこと、自分の力で悪霊を追い出したのだということならば、追い出したつもりになれている時には、それでいいかもしれませんが、やがて自分の中に自分の汚れとか自分の意志の弱さを発見した時には、絶望だけが待っていることになる、しかし自分は自分の力で自分を清くしたのではなく、自分の外から、自分の外部から自分を清くしてくれる神の霊の力が働いてくれている、そういう信仰に立てるならば、われわれは繰り返し繰り返し、自分の弱さから、自分の罪から、その挫折から、その絶望から立ち上がれるということてばないかと思います。パウロはこう言っているのです。「だからわたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人とは滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくからである。」
われわれの罪の問題は一度だけ罪を犯してしまうということではなく、繰り返し繰り返し罪を犯してしまうということなのであります。しかもその度に悔い改めても、何回も悔い改めてもまた罪を犯してしまう、その時にわれわれは自分を支配しているのは、悪霊ではないかと考え始めてしまうのであります。その時にいや、自分を支配しているのは、外からわれわれに働きかけてくれる神の霊なのだ、だからたとえ自分の外なる人、つまり信仰をもたない自立主義に生きようとする自分、そういう外なる人は滅びても、内なる人、つまり信仰に生きる自分です、内なる人は日毎に新しくされていく、ということなのであります。自分を本当に生かすのは、自分の中にではなく、自分の外にある、そのことが信じられならば、自分自身にどんなに絶望し、挫折したとしても、そこからまた立ち上がることができるのであります。「わたしたちはこの宝を土の中にもっている。その測りしれない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないかことがあらわれるためである。」とパウロははっきりと言っているのであります。だから、「わたしたちは四方から艱難を受けても窮しない、途方にくれても行 き詰まらない、倒されても滅びない」ということができるのであります。

 悪霊を追い出しても、そこにイエス・キリストがわれわれの心のなかに住み着いていただかないとわれわれは再びもっと強力な他の七の悪い霊に住み着かれてしまうのであります。

 イエス・キリストがそのような事を話されていると、群衆の中からひとりの女が「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房はなんとめぐまれていることでしょう」といった。これは当時の人を誉める誉めかただったようです。その本人を直接誉めるのではなくて、その人を生んだ母親を誉めるという仕方があったようであります。それに対してイエスは「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言葉を聞いてそれを守る人たちである」といわれました。「神の言葉を聞いて守る」というのは、これをまた律法的にとってはならないと思います。これはイエスがわれわれの心の中に住み着いている悪霊をわれわれの心の中から追い出したということ、そしてイエスが来たことによって、「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」というイエスの言葉を聞いて守る者のことであります。そのイエスの約束を信じて生きるものであります。その者が恵まれているということであります。