「内なる光を暗くするな」  ルカ福音書十一章二九ー三六節

 主イエスを慕ってか、あるいは主イエスの話をきくためにか、あるいは、主イエスの奇跡を見たくてかはわかりませんが、ともかく多くの群衆がイエスの所に押し寄せて来ました。その時イエスはいきなり「この時代は邪悪な時代である」というのです。せっかく主イエスを求めて来たのに、主イエスは集まって来た人々に冷や水をあびせるようなことをいうのであります。なぜこの時代は邪悪なのか。それは「しるし」を求めるからだといいます。何のしるしかといいますと、イエスが悪霊を追い出したり、病人をいやしたりしておりますが、それは確かにすごいことではありますが、もっと決定的なしるし、あなたが神の子であるならば、天からのしるし、つまり天変地異、大地震が起こるとか、天の星が落ちるとか、そういう圧倒的なしるしが欲しいと人々が思っているからだというのです。
 そういう今の邪悪な人々を裁くものがいる、それはヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人々だ、ソロモン王から知恵を聞くためにはるばる南からやってきた南の女王だと、イエスはいうのであります。これはみな異邦人の人々であります。その時、そのニネベの町は、邪悪に満ちておりました。ニネベはアッシリヤの首都であります。そのニネベの人々を悔い改めさせるために、神はヨナを派遣するのであります。しかしヨナはそれを拒否してタルシシに逃れようとするのであります。自分はイスラエル人の預言者なのだから、わざわざ異邦人の町ニネベまでいって人々に悔い改めなど訴えたくないというのです。そして自分が一生懸命神の裁きを述べて、もしニネベの人々が悔い改めとしたら、あなたは憐れみ深いかただから、きっと心をひるがえして裁くのをやめると言い出すでしょう、そうしたら私の預言者としてのメンツがたたない、だからニネベの人々に悔い改めの宣教などしたくないというのです。そのためにヨナはニネベの町に行こうとしないで、タルシシ行きの船にのった。そうしたら神の裁きにあって、船全体が嵐のために沈みそうになり、この嵐の張本人はヨナであるということがわ かって、とうとうヨナは嵐を鎮めるために海に投げ出されてしまって、三日三晩大魚のおなかにいることになります。そののち、赦されて、その大魚のお腹から出て、ニネベの町にいって悔い改めを迫りますと、ニネベの人々はそのヨナの前に悔い改めたのであります。
 つまりあの頑ななニネベの人々ですら、ヨナの前に膝をかがめて悔い改めたではないか、今の時代は悔い改めようとしないで、つまり自分の非を認めようとしないで、天変地異ばかり求めている、というのであります。南の女王も異邦人でありながら、よその国イスラエルの国のソロモン王に膝をかがめてその知恵を聞こうとしている、というのです。あなたがたは救いを求めて、わたしのところに来たのだろうが、神の救いを受けるためには、神の大きな奇跡のわざを見る前に、あるいは見た後にでもいいのですが、いずれにせよ、膝をかがめて神の前に悔い改めなければ、神の救いにあずかることはできない、わたしの救いにあずかることはできないというのであります。
 しかもニネベの人々に裁きを宣べ伝えたヨナは神の裁きにあって自ら三日三晩大魚の中にいたという苦しみを経験しているのだ、ちょうどそれと同じように神の子であるイエス・キリストは人間の罪を背負い、神の裁きを身代わりに受けて、十字架で死に三日三晩墓に葬られることになる、もしイエスが神の子であるしるしがあるとすれば、そのヨナのしるし、つまりイエス・キリストが十字架で殺され、三日三晩、墓のなかにいる、というしるし、そしてその墓の中から神がよみがえらせるというしるし、それ以外にしるしはないというのであります。
 つまりわれわれはイエスの中に神の栄光を求めようとする時に、何か玉座に座して神々しく輝く栄光といったところに神のしるしを求めるのではなく、人間の罪のために裁かれて死んでいく十字架のイエスを見て、その卑しめられたイエスに膝をかがめて悔い改めることをしないならば、われわれは神の救いにあずかれないというのであります。
 そして主イエスは、「見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」といい、「見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と自らのことをいいます。昔の人々が膝をかがめたソロモン、ヨナ、そのソロモンよりも、ヨナよりもまさる者がここにいるではないか、どうしてお前達は悔い改めないのか、ということであります。

 そしてその後こういいます。「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や桝の下におくことはしない。むしろ入って来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。」ここでいう「あかり」とはイエス・キリストのことであります。ヨナにまさる者、十字架にかかり、復活したイエス・キリストこそ本当の光なのであって、その光をこの世に輝かせというのであります。
 その後、「あなたがたの目は、からだのあかりである」と続いていきます。この後の文章は、さっと読んでいく分にはあまり抵抗はありませんが、よくよく読んでいきますと、なにがなんだかわからなくなるかもしれません。「あなたの目はからだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い」といいますが、これは何を言おうとしているのでしょうか。「全身が明るい」とか「からだも暗い」ということは何をいいたいのでしょうか。目が悪くなると、よく見えなくなるということを言っているのでしょうが、そしてここではもちろん、肉体の目のことではなく、すぐ次の句では「あなたの内なる光が暗くならないように」とありますから、心の目のことを言っていることは想像できます。
 つまり「あなたの目が澄んでおれば、」というのは、あなたがものを見る目、つまりものの見方、世間を見る見方、あるいは人を見る見方ということであります。その目、その見方が、澄んでおれば、全身も明るい、とうのであります。「澄んでいる」というのは、原文のギリシャ語の意味では、「単純」という意味だそうです。ある人は「ひとすじの目」と訳しているそうであります。単純という言葉はあまりいい意味では使われないかもしれませんので、「素直さ」という意味にとったほうがいいかもしれません。ものを素直に見る、人を素直に見るということであります。素直にということは、そのものに即してそのものを見るということであります。あまりこちらの主観を交えないで、そのもののありのままを見ようとすることであります。複雑にものを見ようとする時というのは、われわれがどうしたら自分の利益になるかというばかり考えようとする時ではないかと思います。あの人は自分のことを悪く思っているのではないかと疑心暗鬼になっている時は、ものを、あるいは相手を複雑に見ようとしている時であります。そうではなく、ものを単純に見る、素直に見る、そういう目をもつことが 自分自身の全体を明るくするのだというのです。
 アンデルセンの童話に「裸の王様」というのがありますが、確かこんな内容だったと思います。洋服の仕立屋にだまされて、この衣服は心のよこしまな人には見えない衣服なのだ、といわれて、裸のまま王様は町を歩くはめに陥る、王様自身も、また家来達も町の人も、その衣服が見えない、王様が裸に見えると口にだすことができないで、裸のまま町の中を王様が歩いている時に、ひとりの子供が「あ、王様は裸で歩いている」と叫びだしたという童話だったと思いますが、澄んだ目でものを見るということは、まさにその子供の目であります。ものを何の曇りもなく、そのままに見る目ということであります。自分の心には邪な思いがあると人に言われたくないために、本当のことがいえないい、そういう大人の見栄ではなく、子供の澄んだ目、率直な目、素直な目をもたなくてはならないということであります。
 ひねくれたものの見方をする人はやはり自分の心をゆがめていきます。素直にものを見ようとする人は、自分の心も素直になります。つまり、ここでいう「目」とは、ものの見方ということではないかと思います。
そして、三三節で、明かりをともしてそれを燭台の上におきなさい、というところでは、部屋全体、この世の中全体を明るくするためには、あかりを上にかがけなくてはならないというのに対して、三四節からは、あなたの外を明るくする前に、まずあなた自身の内部が明るくなければ、だめだということであります。ちょうどこの世を変革しなくてはならないと訴える革命家が、彼ら自身の心の中が明るくないならば、世の中を明るくすることはできないということであります。世の中を変革することを訴える人が、何か自分が小さい時に世の中から虐待を受けた、いじめられた、そうしたいわゆる今日はやりのトラウマだけで、その自分の受けた心の傷だけで、まるでその自分の受けた傷に対する復讐のようにして、世の中を変えようとしても、本当の変革にはならないということであります。革命家の中で内ゲバが起こるようなことで、真の革命などできる筈はないのであります。世の中を明るくしようとするならば、まず自分自身の心の内を明るくしなくてはならないということであります。「もし、あたなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを 照らすように、全身が明るくなる」ということであります。
その明かりとは、イエス・キリストなのであります。われわれはイエス・キリストを見て、イエス・キリストの灯火によって、自分の目を清くしてもらっているときに、われわれは自分自身の心の内部もあかるくされていくというのであります。そして三五節をみますと、「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」といわれます。この言い方からすれば、あなたがたの心の内部には、もうイエス・キリストによって内なる光がともされているのだ、だから大事なことは、それを暗くしていけないといわれているのであります。イエス・キリストを信じいれば、もうわれわれの心の中の内なる光はともされているんだというのであります。だから大事なことは、それを暗くならないようにすることなのだというのであります。自分の中にイエス・キリストはもう住んでもらっている、そのことに気がつくこと、それがわれわれのからだ全体を明るくすることなのであります。
 明かりというものは不思議なものであります。普通はわれわれは明かりそのものに目をやらないものであります。誰も電灯に目をやる人はおりません、太陽の日だって、見ることはしません。あかりそのものをわれわれは見ることはしないで、その明かりによって、自分自身が明るくされ、またこのまわりのものが明るくされているだけを知っているものであります。そしてあかりというものは、そういう役割をもっているものであります。あかりそのものはあまり出しゃばらないのではないかと思います。イエス・キリストという存在も、そういう意味では出しゃばらない、自分自身は目立たなくても、地の塩であっても、人に捨てられていく隅のかしら石でもいい、と思っておられるのです。自分は人々のこころを明るくするために来たのだから、と思っておられるのです。
 しかしわれわれは時には、あかりそのものを見つめなくてはならない時というのもあるのではないか。たとえば、クリスマスなどで、キャンドルサービスをするときに、その時には、われわれはローソクそのものを見つめさせられます。まわりの明るさよりは、その明かりの根元であるローソクを見つめさせられます。そういう時というのは、周りがあまりにも暗い時、闇の時であります。そのときにはいやでも、明かりの根源そのものを見せられて、ほっとする、ああ、なんとローソクの光は美しいのだろうか、暖かいのだろうかとおもわせられるのであります。
 われわれはそういう意味で、時には明かりそのものの、われわれを明るくする光の根源を見つめる時が必要なのではないかと思います。われわれの心が暗い時、われわれの心の中が闇の時に、ローソクの光そのものを見つめるように、イエス・キリストそのかたを見つめなくてはならないと思います。そのために日曜日ごとの礼拝があるのではないかと思います。